隈庄(隈之庄、舞の原)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2012年11月訪問 2021/8更新
撮影年月日
1947/03/18(昭22)(USA M127 7)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
熊本県熊本市、舞原台地にあった陸軍の「隈庄(隈之庄、舞の原)飛行場」。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。
飛行場名 隅之庄
位 置 熊本県下益城郡杉上村
規 模 要図(東西1500)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 六〇〇名分
格納施設 掩体 大四二ヶ所 小四ヶ所
摘 要 施設軍有
■「九州の戦争遺跡」によれば、米軍の爆撃に備え、周囲に地元の人々や生徒を動員して掩体壕が多数造られました。
当飛行場や、疎開工場として使われていた周辺の小学校、民家も爆撃を受け、
小学校3校、民家95戸が被災し、死者5名を出したのだそうです。
赤マーカー地点。
「火の君総合文化センター」駐車場東側の出口の一角に碑があります。
裏面に碑文がありました。
隈庄飛行場跡(全文) 隈庄飛行場は昭和十四年(一九三九年)から建設が始まり、現城南町をはじめ周辺市町村の沢山の人達が連日勤労奉仕作業に汗を流してつくられた。昭和一六年六月、大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊が開設され、以来四年間に将校学生、下士官学生、少年飛行兵、特別操縦見習士官、特別幹部候補生の約壱千名のパイロットが巣立ち、各戦隊に配属され陸軍航空の中堅として活躍し、多くの若者達が大空に散華した。又近隣の町村から多数の男女が軍属として勤務した。戦局の推移に伴い飛行場は更に拡張整備され、実戦体勢に入り昭和二十年四月、教育隊は移転しかわって飛行第百十戦隊の基地となった。この戦隊は最新鋭重爆撃機飛龍で編成された陸軍爆撃隊の中核部隊で連夜沖縄作戦に出撃して多くの若者達が還らぬ人となった。然し戦いは好転せず、ついに昭和二十年八月十五日終戦を迎えた。戦後五十数年を経過してこの飛行場跡は、大部分は農地に解放され、工場、住宅団地、県の諸施設、町の体育施設や文化センターがつくられ、今や町の新しい活力の源泉地として変貌しつつある。かつて若者たちが大空の青春の夢を託し、或は祖国の防衛に挺身したこの飛行場が昭和の波乱を生きた歴史の一頁として後世に語り継がれることを願い万世の大平と若者達の鎮魂を祈念してここに「碧空に祈る」の碑を建立するものである。 平成九年七月吉日 大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊会 陸軍飛行第百十戦隊会
熊本県・隈庄飛行場跡地
隈庄(隈之庄、舞の原)飛行場 データ設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県下益城郡杉上村(現・熊本市城南町舞原394-1)
座 標:N32°42′25″E130°44′27″
標 高:34m
着陸帯:2,000m×1,300m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1939年 着工。舞の原台地の200町歩を造成
1941年06月 大刀洗陸軍飛行学校隈庄分教場開設
1943年06月 大刀洗陸軍飛行学校隅庄教育隊と改称
1944年07月 滑走路延長。掩体壕工事完成
1945年02月 大刀洗陸軍飛行学校廃校
04月 教育隊移転。 重爆隊飛行第百十戦隊の基地となる
07月 第30戦闘飛行集団配当飛行場。
08月 終戦時配備は第162飛行場大隊、第110戦隊(重爆)。飛行場跡が農地として解放される
1997年07月 碑建立
関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
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