SSブログ

新居浜空港跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2014年6月訪問 2021/12更新  


3.png
撮影年月日1962/09/11(昭37)(MSI626X C2 6) 
4.png
測量年1964(昭39)(5000国土基本図 4-GD-36 ) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)

愛媛県‎新居浜市‎黒島にあった「新居浜空港」。

昭和34年10月~昭和40年9月末までの6年間、当新居浜と大阪(と一時期別府)を結ぶ民間の水上機用飛行場です。

先頭のグーグルマップで囲った部分が「日東航空新居浜営業所」。

当空港が運用していた当時の航空写真と現在の地図を見比べると、

現在は営業所前が埋め立てられて道路が出来たように見えます。

東側約1kmに「大島」という島があり、この島との間が離着水エリアになっていました。

 

当空港については、

■フリーペーパーHoo-JA!/昭和の頃、新居浜にあった航空路線
■新居浜の航空路回顧

の中で非常に詳しく、また当時の様子が垣間見えるような興味深いエピソードが盛り込まれています(下記リンク参照)。

以前「広島空港のレターコード」という記事をアップしたのですが、その記事の中に出てきた、

「新居浜空港には3レターコードが残っている!」というのも、フリーペーパーHoo-JA!様からパクり情報頂きました。

上記2つの資料に目を通して頂くのが一番なのですが、一部抜粋して紹介させて頂きます。

 

当空港は日東航空が路線開設し、当初は旧合同製塩黒島寮を仮営業所として使用していました(青マーカー地点)。

運航は週3往復(月・水・金)でスタートし、運賃は大人片道3,600円で、新居浜と大阪を60分で結んでいました。

当時のサラリーマンの初任給が13,000円前後。

今の金額に換算すると約5万円位で、やはり庶民にとっては高根の花でした。

当空港のすぐ近くには今でも住友の大規模工場が立ち並んでいるのですが、

路線開設当時、日東航空としてはこの住友の需要を大いに期待していたようです。

ところが住友というのが名うてのおカタイ社風で、「危ない乗り物は一切あきまへん」と飛行機での出張を認めず、

たまに重役がポケットマネーで乗る程度であり、却って住友へのお出入りの業者連がよく利用する状態だったのだとか。

その後日東側が強力に働きかけた結果、

住友側も他社なみに出張規定を改めようという動きがボツボツでてきたという経緯があるのだそうです。

そんな訳で利用客は住友関係の重役クラスやその取引業者、伊予三島(現・四国中央市)の製紙会社の社長など、

エグゼクティブな人がほとんどでした。

また、新居浜のステージに立つ芸能人の利用も多くあったそうです(日野てる子、松尾和子、薗まり、西田佐知子)。

 

昭和34年4月に1日1往復となり、

昭和35年10月には黒島専売局跡に新営業所落成。

これは新居浜市当局の好意で同市黒島の市有地を借受け、新事務所待合室を完成させたものでした。

そして同月1日2往復となりました。

昭和37年11月発行の新居浜市史の中では、

「現在ではグラマンマラード機が就航し、黒島~大阪伊丹間を毎日二便制をとり、近く三便制を実施する準備をすすめている」

と記されています。

昭和38年には、大阪~新居浜~別府便も開設され、新居浜から別府へも水上機で行けるようになりました。

このように、増便、路線拡大と進んだのですが、昭和39年9月には、別府便の運行が中止。

同年11月に、新居浜の航路は月・水・土の週3便に減便。

当初日東航空は航路自体を廃止する予定だったのですが、

新居浜市や新居浜商工会議所の要望で、週3便に減便しての運行が存続したのでした。

経営が厳しかったこと、使用機材の水上機は全国の航空会社でも使用数が少なく、

機体整備の面が難しかった事等が挙げられています。

日東航空は昭和39年に他の航空会社と合併、社名も「日本国内航空」となり、

昭和40年9月30日を最後に「新居浜~大阪」間の空路は廃止され、新居浜の空港は幕を閉じる事になりました。

他の水上機による各路線も消滅していったのだそうです。

そして空港は廃止となったのですが、なぜか3レターはそのまま残りました。

 

・使用機について

2つの資料の中で明言されていないので推測になるのですが、

日東航空の使用機材と路線開設を時系列に並べるとこうなります。

 

昭和33年4月 デ・ハビランド・オッター(DHC‐3Otter)購入

昭和34年 新居浜線開設

昭和35年2月以降使用 グラマン・マラード(Graman Mallard G-73)

昭和37年11月発行の新居浜市史の中で、「現在ではグラマンマラード機が就航し」と記されていることからも、

新居浜空港発足当初はオッターを使い、その後マラードになった。ということなのだと思います。

オッターは単発(プラット&ホイットニー製600馬力)の水上機で、

北カナダの未開地で使うという目的で設計されているので頑丈、単純で信頼性が高いのが特徴の機体でした。

次いで使用する事になったマラード機は双発機(プラット&ホイットニー製600馬力x2)の飛行艇でした。

 

水上機運用についての裏方のご苦労についても資料の中に取り上げられているのですが、

一部ここに引用させて頂きました。

「水上機,飛行艇をやっていて,今,想ってもつらい作業と言えば,毎日行う,飛行後点検前の機体の水洗い作業でしょう.夏は夏なりに,冬は冬なりにいやな作業でした.海水を機体に万遍なくふりかけて戻ってくる機体表面は,まるきり,塩でデコレーションしたようなものでした.夏は機体表面が熱く,又,水気がすぐに乾くものですから,いくら洗っても塩が落ちないのです.このような時,先輩諸氏も十分心得ておられ,我々が完了報告しますと,その点検が何と,機のもっとも低い位置にあるキール・ステップ(離陸時に水離れを良くするための切り込み部分)に垂れるしずくをなめてみて,塩っ気のなくなる迄,洗わされたことを憶えています」

「水しぶきは,高速回転するプロペラにとっては,小石や荒目の砂をかきまぜているのと変わらないのです.このような状態ですから,プロペラ(ブレード)の前縁や先端部がうすい層状に剥離して浸触され,まるでザクロの実がはじけたようになります.当初は,どうしたものかと迷いやためらいもありましたが,予備ブレードも殆どなく,といって飛行を停止することもできません,残された方法と言えば,飛行間点検の短い時間の合間を見ては,トンカチでブレードのめくれ上がった傷口部分をたたき割り,ヤスリで整形するのが日常の仕事として大きな比重をしめていました.」

プロペラを削って整形するとはビックリですが、機体洗い等、想像もつかないようなご苦労があったのですね。

D20_0062.jpg

赤マーカー地点。

日東航空新居浜営業所方向。現在は漁協に使用されています。


      愛媛県・新居浜空港跡地      

新居浜空港 データ

設置管理者:日東航空→日本国内航空
3レター:IHA
種 別:水上機用飛行場
所在地:愛媛県‎新居浜市‎黒島‎2丁目
座 標:N33°59′04″E133°20′49″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1958年04月 日東航空、デ・ハビランド・オッター購入
1959年10月 1日 日東航空が新居浜~大阪路線開設。週3往復(月・水・金)
1960年04月 8日 大阪国際空港を起点とし、グラマン・マラードが就航。1日1往復に
     10月 24日 黒島専売局跡に新営業所落成。1日2往復に
1962年11月 12日 2往復のうち午後の1往復を別府まで延長とし、新居浜~別府便開設
1964年04月 15日 日東航空は富士航空、北日本航空と合併し日本国内航空となる
     09月 別府便運行停止
     11月 1日 大阪便、月・水・土の週3便に減便
1965年09月 30日 新居浜の航空路最終便が飛ぶ。空港廃止

関連サイト:
フリーペーパーHoo-JA!/昭和の頃、新居浜にあった航空路線    
新居浜の航空路回顧(pdf)   
ブログ内関連記事 (「広島空港のレターコード」/「旅行記」)

この記事の資料:
新居浜市史


コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 8

鹿児島のこういち

プロペラを削っていったら、そのうち薄くなって先端がパキって折れたりなんかしなっかたのでしょうか?会社の規定でここまでうすくなったら、プロペラ交換とか(^O^)
by 鹿児島のこういち (2014-09-05 09:38) 

とり

■鹿児島のこういちさん
強度もそうなんですが、それ以前に僅かでも削っていくと、
重量バランス、空力バランスが崩れて振動が出ると思うんですよ。
翼形が変化しますので、プロペラ効率も低下しますし。
まったくもって想像もつかないような所業です(@Д@)
by とり (2014-09-06 14:40) 

an-kazu

水陸両用バスの試乗会時、陸に上がった直後の洗浄は
結構アバウトなものでしたが、飛行機ともなれば事情は
異なるのでしょうね!
by an-kazu (2014-09-07 07:32) 

とり

■an-kazuさん
洗浄の様子もチェックしておられたのですね。
確かに記事に出てくる洗浄の仕方は非常に念入りなものですね。
次の記事に出てくるのですが、海上の係留したままのケースもあり、
事情は随分異なるようです。
どこに違いが??
by とり (2014-09-08 05:37) 

佐藤正孝

トリさんの行動力は凄いですね。自分は航空機写真の撮影をメインとして跡地巡りをしています。今回は、新居浜の3レターコードの件です。3レターコードは国際航空運送協会IATAが定めたものです。このIATAは、航空会社を会員として募集し世界的な運賃や機内サービスなどの経済面秩序を主目的とした国際機関です。3レターコードも航空会が設定しIATAコードとして認定運用しています。公的機関ですが、加盟は強制ではなく各航空会社の判断にゆだねられています。そのためノン加盟の航空会社、存在を認めていない政府もあります。そのため、正確にはフライトプランには使用できないことになっています(国内線では使っていたりしますが)。さて、そのことから新居浜の3レターコードは、路線を開設した日東航空が設定したのでしょう。その後、日本国内航空となり路線廃止した際に取り消しを忘れてしまったのではないでしょうか。なお、日本国内航空は、日本エアシステムに改称し、その後、日本航空と合併していまいましたよね。今となったら責任の所在は不明確でしょうからここまま幻の空港コードして残っていくのでしょう。

by 佐藤正孝 (2014-09-10 21:58) 

とり

■佐藤正孝さん
貴重なお話をありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2014-09-11 05:43) 

amatudon

お疲れ様です。 新居浜市の amatudon と申します。
NHK松山ローカルの夕方の番組「ひめポン!」内の1コーナー"あの日めぐり"に
就航当日の DHC-3「つばめ」の映像が残ってないか問い合わせたところ、リクエストが通りまして、見つけ出してくれました。
しかも、一部AI により着色も。(残念ながら 出発シーンのみで、雨の中 到着する場面はありません)

3レター「IHA」の件については、収録までに話を出していたのですが、編集までに"ウラ"取れなかったとかで、触れず仕舞いです。
旧年内に3度、そのうち1回は「どーも、NHK」という NHK広報番組内で全国放送も。他5分に編集して、年末年始数回放送された模様。

"あの日めぐり"の映像は、「NHKアーカイブス」→「地域」→「四国」→「愛媛県」と辿って頂き、左から4つ目「あの日めぐり」(④幻の水上航空路)と進むと概要が閲覧可能ですが、
このまま いつまで見れるのかは分かりませんので、
同好の諸兄は、この機会に是非。
https://www2.nhk.or.jp/archives/chiiki/

すみません、本名バレバレで、ハンドル名にする意味が
ありませんでしたねw。
新居浜営業所の表札が「日東航空新居浜基地事務所」、
基地局のコールサインが「にっとう にいはま」なのが興味深いです。
マラードの塗色が白地に「青」というよりは、むしろ「黄緑」に近い色(5機ともそうだったかは不明ですが、少なくとも私の手持ちの資料では)だったことをお知らせすると、
AI によるモノクロ映像への着色技術は、まだまだ開発途上であるので云々、とのことでした。

そのほかに、収録当日 どこかの小学校講堂?で催されたかの 航路開設祝賀会?の模様も一部見せてくれましたが、こちらは おそらく尺の都合で放送されませんでした。
他に 同時期すでに同エリアの民放として運用されておりました「RNB南海放送」にも 当時の映像が残っているのが確認できておりますので、
次回はこちら(あれば到着映像)を見る機会にチャレンジしてみたいと思います。





by amatudon (2023-01-02 00:29) 

とり

■amatudonさん
映像拝見しました。
非常に貴重なものを見ることができて感激です。
後日記事に反映させて頂きます。
新たな情報等発掘されましたら、ご教授いただければ幸いです。
どうもありがとうございました。
by とり (2023-01-04 04:51) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

メッセージを送る