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内閣中央航空研究所のこと [├雑談]

以前「内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地」という記事 をアップしまして、

「非常にミステリアスな研究所ですが、当研究所については後日また別記事で。」

と書いたのに、そのことをすっかり忘れて2年近く放置しておりました。

hiroさんという方からこの記事にコメント頂いて初めてそのことを思い出したのでした。

以下、当施設について書いてみます。

 

当研究所は、1939年4月1日に逓信省の一本局として設立され、

技術院の設置に伴い、昭和1942年に内閣に移管されました。

「内閣所管の研究所」ということで、研究内容とその目的が疑問となりますが、

「ジェットエンジンに取り憑かれた男」という本の中にこの中央航空機研究所について出ていました。

当研究所を設立したのは花島孝一という人物でした。

氏の経歴を簡単にまとめますと、

海軍機関学校卒業。海軍の航空関係者として第一次大戦に参加。1930年、横須賀工廠航空発動機実験部初代部長

1932年、航空技術廠初代発動機部部長。昭和1938年、第四代廠長。

昭和1939年、中央航空研究所設立、研究所長就任。となっています。

海軍の技術者で、後に「海軍発動機技術の父」と呼ばれた人物でした。

中央航空研究所設立に当たっては、自ら強力な推進者となっています。

花島はジェットエンジンについて非常に早い時期から深い洞察力を持っており、

将来の可能性についても予見していたとされています。

内閣所管ではありますが、海軍軍人がそのトップを務めるということで、陸軍をはじめ異論が続出したのですが、

当時この人物以上にこの分野の適任者がおらず、この人事となったのだそうです。

 

余談になってしまいますが、1921年のワシントン軍縮会議、1930年のロンドン軍縮会議により艦船建造に規制がかかり、

大鑑巨砲主義の海軍内部に、「拡張を阻まれた海軍力は空軍力で補うべきである」という考え方が急速に広まります。

そして山本五十六はじめ航空戦力強化を強力に主張する人物が海軍内で存在感を増してゆきます。

彼らの考え方は、単に空軍力を増強せよというだけでなく、これまで欧米への依存と模倣に頼り切っていたことを改め、

自国で開発するという航空技術自立計画でした。

この計画は1930年にスタートし、1932年に本格的に開始されました。

海軍の航空機を重視する有力者により三鷹の内閣中央航空研究所建設が始まったのは1934年で、

同研究所はこれからの航空機の発展を見据え、幅広い分野の研究を行うことになっていました。

 

ここでちょっとジェットエンジン開発の世界の動きを見てみますと、

1929年にイギリスのホイットルが遠心式ジェットエンジンについて論文を発表、翌年特許を出しています(1932年という資料もあり)。

この特許は機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目し一部では後追いが始まりました。

この特許に注目し、ジェットエンジン製作を開始した人物の1人にドイツのオハインがおり、後に航空機メーカーハインケルに入社し、

開発を続けました。

ジェットエンジンの開発に関してはイギリスとドイツが双璧であり、

1937年にはホイットルとオハインがそれぞれジェットエンジンの試運転を開始、

世界初のジェット機初飛行に成功したのはオハインの入社したドイツのハインケルで1939年8月27日、

ホイットルは遅れて1941年5月15日のことでした。

 

中央航空研究所設立は1939年ですが、これは奇しくも世界初のジェット機He178が初飛行したのと同じ年ということになります。

研究所設立はイギリスとドイツのジェットエンジン開発競争に呼応したもののようにも見えますが、

ジェットエンジンの研究はホイットルの特許公開以降軍事機密となり、厚いベールに覆われてしまいました。

ナチスは非ナチ党員のハインケルを冷遇しており、 He178の初飛行を宣伝することもなかったため、

He178が世界初のジェット機であることが世間に知られたのは戦後になってからのことで、

三国同盟を結んでいた日本ですら、

「ハインケル社のHe178ターボジェット式飛行機が、相当以前に初飛行に成功していた」

ということをことを駐日ドイツ武官からの極秘情報として教えられたのは、約2年半後の1942年初めという有様でした。

同研究所で戦時中にどんな研究開発がなされ、当実験場でどんな実験が行われたか、残念ながら詳細は不明です。

当時実験場に勤務していた地元の1人は「名目は航空機の研究であるが実際は人間爆弾の命中率を査定する研究であった」

と語っているのだそうです。

 

現在同施設の跡地には歴史民俗資料館があり、資料館の前にある説明版の中で、

戦後この研究所は解散となり、鉄道技術の発展に寄与した旨書かれています。

航空機の分野の研究からはすっかり手を引いて鉄道技術の分野にまい進したかのような印象ですが、

実はこれは占領下米軍の監視を目があったためでした。

そのことについてはまたいつか別記事で書く(かも)。


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コメント 11

ジョルノ飛曹長

花島氏のお名前は色々な航空関係の本で見た事があります。^^
ハインケルはのジェットエンジンは米軍もその技術を欲しくてたまらなかったんですよね。
戦後のドイツ技術者に対しての恩赦がそれを物語っています。^^
by ジョルノ飛曹長 (2014-07-16 12:33) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■ジョルノ飛曹長さん
花島氏、やっぱり凄い方なのですね~。
>米軍
同盟国イギリスでも軸流式はやってましたが、軸流式はやっぱりドイツでしたからね。
by とり (2014-07-16 17:34) 

me-co

圧巻の文章で、一気に読みましたです。ハイ
RRとかwiki読んでると止まらなくなってくるんですよねー実は。
そして、日本のジェットエンジン技術が世界でも秀でているものだったら、どうだったろう?なーんて思いを巡らせてしまいます。
by me-co (2014-07-17 01:32) 

とり

■me-coさん
いえいえ、なんだか話があっちいったりこっちいったりでまとまりなくて^^;
>世界でも秀でているもの
そんなことになったら凄いんですけどね~。
by とり (2014-07-17 06:59) 

hiro

とりさん後書ありがたく読ませて頂きました。
ジェットですか実用は早ければ歴史が変わってましたね
本土防空の為の高高度飛行が必至だったんでしょうね
ありがとうございました。


by hiro (2014-08-21 01:35) 

とり

■hiroさん 
お粗末様でした。
by とり (2014-08-21 06:06) 

hiro

お粗末なんてとんでもないです
不勉強な自分としましてはググッて少しでも知識を付けていきたい次第です。
SearchFrameで神ノ池付近を閲覧していたんですが
茨城県神栖市砂山近辺(大田かもしれない)になんかあります
整理番号:USA
コース番号:R75
写真番号:95
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?searchMethod=4&referenceNumber=USA&courseNumber=R75&photoNumber=95&zoomLevel=13
いかがでしょうか?
十字のしるしの外周の円を描く道路も気になります
by hiro (2014-08-21 23:51) 

とり

■hiroさん 
これは不思議ですね。
一体何なんでしょうか??
お役に立てず申し訳ないです。
by とり (2014-08-22 05:11) 

hiro

とりさん報告があります。
友人にメールしたところ
http://www.env.go.jp/chemi/report/h15-02/003.pdf
が送られて来ました。
現神栖市は神栖町と波崎町が合併したのでした。しかも今回の写真は波崎なので当時は5つの村でした。
射爆場&ガス弾の研究所という事でしょうかね推測ですが
以前神栖市で井戸水の有機ヒ素化合物汚染がありましたが関連があるみたいです。
お騒がせしました

by hiro (2014-08-23 00:42) 

hiro

追補
鹿島実験射場
http://www.env.go.jp/chemi/report/h17-07/02.pdf
内閣中央航空研究所鹿島実験場の事も記されています
by hiro (2014-08-23 01:10) 

とり

■hiroさん 
>射爆場&ガス弾の研究所
そうなのかもしれないですね。
しかし特殊な場所ですね。
by とり (2014-08-23 05:09) 

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