桶川飛行場の「弾薬庫」のこと [├雑談]
問題の「弾薬庫」
ほとんどの方が「一体何事か」と思われるでしょうが、事の発端は、現在更新終了している空港探索・2の
「黒石原(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)飛行場跡地」■ という記事に今月1日に頂いたコメント↓でした。
「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場にも、黒石原飛行場の遺構とされている「奉安殿」のようなものがありますが、これをどうして奉安殿と判断したのでしょうか? 「弾薬庫」ということはありませんか?20センチの厚さのコンクリートで囲われているので。
終戦間際、弾薬をあちこちに分散して隠したという記録があり、桶川分教場にも弾薬庫が作られたのではないかと思っていますが、奉安殿の可能性もあるのでしょうか。by 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会 事務局」
このコメントに対して予想外にたくさんのレスを頂きまして、本当に有難うございましたm(_ _)m
頂いたレスから様々疑問が浮かび上がり、直接お聞きするため昨日旧桶川飛行学校にお邪魔して参りました。
現存する木造兵舎の今後の取り扱いについて、関係者との初会合というお忙しい中、
会長さん、そして、頂いたレスでしばしば挙がっていた副会長のYさんから直接お話を伺うことができ、
オイラが書いたコメントにいろいろ勘違いがあったことが判明しましたm(_ _)m
弊ブログにコメントくださったのは、会長さんご本人でした。
今回問題となっているのは頂いたコメントにありますように、
「これは弾薬庫のはずだが、奉安殿の可能性はあるのか?」
ということです。
いろいろと話を伺ったのですが、結論と致しましては、
「確実なことは分からないが、弾薬庫の可能性が高い」
ということになりました。
ただしこれは飽くまでも「現時点では」ということです。
他の解説員の方が仰っていたのですが、会長は完璧主義で、弾薬庫の事以外にも色々調査事項があり、
少しでも気になるところがあると、徹底的に調べ尽くす方なのだそうです。
わざわざ会長さんが弊ブログにコメント下さったことからも明らかなように、今後も調査していくということのようでした。
この遺構は一体何なのか。
鍵となる人物はやはり、実際に当飛行場で整備員として勤務しておられた副会長のYさんです。
Yさんの勤務先は移動で変わっており、オイラは前述のコメントで間違った事を書いてしまっておりました。
ご本人に直接確認してきましたので、ここでYさんの終戦までの勤務先をきちんと整理しておきます。
まず、昭和16年1月~昭和20年4月末まで、当桶川に勤務していました(コメントに挙がっていた特攻機を小月まで送ったのは4月5日)。
5月から静岡県浜松の海軍基地に移ったのだそうです。
桶川は陸軍なので、陸軍から海軍に移ったことになるのですが、そういう移動だったのだそうです。
そして6月の末に千葉県勝浦に移動し、終戦を迎えました(アギラさん、あるくさんから頂いた情報通りでした)。
つまり、昭和20年5月から終戦までの3か月半は桶川にいませんでした。
肝心の遺構の事に話を戻します。
Yさんはこの遺構について一切記憶がありません。
そのため、造ったとすれば昭和20年5月以降であろう。とのことでした。
Yさんに3か月半の空白期間があり、そのYさんが「学校内部を知る唯一の存在」であるため、
残念ながら「これは当時○○に使っていた」と当時の経験から断言できる人物が(今のところ)いません。
そのためこの遺構の用途については推測するしかないというのが実情です。
Yさんご本人はこの遺構を奉安殿とは考えておられないそうです。
その理由として、この遺構の位置関係を説明して下さいました。
「守衛所」。その左奥に「弾薬庫」が見えます。
カメラを構えたまま10m位?左にスライドして、回れ右すると-
こんな感じ。
画面左手前が守衛所。見切れてしまっていますが、弾薬庫は更にもう少し左側にあります。
当飛行場の敷地は非常に細長い形になっていて、
ここは基地内の一番外側という訳ではないのですが、守衛所がある位ですからかなり外側に位置しています。
そして奥で横長なのが本部兵舎。
焼失してしまいましたが、本部兵舎の奥には更にもう一つ兵舎があり、その奥に講堂がありました。
Yさん曰く、「仮にも御真影を収める奉安殿を造るとしたら、こんな外れではなく、講堂の方にするはずだ」とのことでした。
言われてみれば確かにそんな気がします。
実はオイラ、この「弾薬庫」が本部兵舎のすぐ側だと思い込んでいました(コメント欄でもそんなことを力説していた)。
Yさんによりますと、当飛行場に勤務していた当時、「御真影に最敬礼」という事はなかったのですが、
毎月精神訓話があり、宮城遥拝を行っていたのだそうです。
Q:機銃の弾はどこに置いていたのか?(byあるくさん)
Yさんにお尋ねしてみました。
当飛行学校は飽くまで学校なので、機関銃付きのヒコーキはありませんでした。
それで、爆弾どころか機銃の弾もないそうです(模擬弾は見つかっている)。
また、歩哨が使う小銃(三八式歩兵銃的な)には、なんと空砲を使っていたのだそうです。
空砲ですから弾は不要にしても、撃つために火薬を使っていたはずなのですが、
いずれにせよ弾薬類はあったとしても非常に少なかった。ということのようです。
「軍の基地」というと、武器弾薬が山ほどありそうなイメージですが。。。
でも弾薬類がごく少量なら、弾薬庫そのものが必要なのでしょうか?? と個人的には素朴な疑問が残りました。
ということで、今回「弾薬庫」問題に関してお聞きする事が出来た点は以上です。
以下、「弾薬庫」の写真とその他伺った話などずらずらと。
「守衛所」横にある「弾薬庫」。
青天井ですね。
中に入ってみました。
再生おじさんのコメントにもありましたが、内壁はかなり広い範囲が黒っぽくなっています。
アップにするとこんな感じ。
コケなのか炭なのか、黒い部分が盛り上がっていて、かなり固いです。
解説員の方も正体は分からない。とのことでした。
遺構の写真は以上です。この遺構についての情報お待ちしておりますm(_ _)m
アメリカ側でも当飛行場が小規模な学校だということは認識していたようで、空襲を受けることはなかったのですが、
「ウシガヤト」という名称(当飛行場のすぐ近くに「牛ケ谷戸」がある)で標的に含められていたということが
後に分かったのだそうです。
終戦がもう少し遅れていたら来たかもしれない。とのことでした。
また、終戦の年の5月には、目標にされないように格納庫を壊しました。
ヒコーキは上下の翼を外し、胴体と車輪だけの状態に分解してかなり遠方のマムロとイドギに
(きちんと確認しなかったのですが、マムロ→鴻巣市旧馬室?、イドギ→桶川市井戸木?)隠したのだそうです。
再生おじさん、あるくさん、アギラさんからのコメントに挙がっていた現地にあった見取り図のアップ。
字が潰れているのと、先にアップした写真とは位置関係が左右逆になってしまうのですが、
左側の大きな□には「守衛所」。そして右側の小さな□には「百葉箱」と書かれています。
守衛所の右隣、若しくは「百葉箱」の位置には「弾薬庫」があるはずなのですが、書き込まれていません。
やっぱりいろいろバージョンがあるのかしらん。
上述の守衛所ですが、中に案内して頂きました。
内部には応接室も設けられており、「この応接室で実際にあったこと」としてYさんにエピソードを1つ聞かせて頂きました。
当時、特攻隊として出撃するある中佐がここで将棋を指していた際、ある人から「男子の本懐ですね」と言われました。
すると、少佐は将棋盤に涙をポタポタ落としながら、
「俺には可愛い子供も女房もいる。行きたくて行くんじゃない」と語ったのだそうです。
この一件は私的に書き留められたため、昭和20年3月23日という正確な日付が残っています。
4月1日、この中佐は知覧から飛び立ったのでした。
詳しいご報告をありがとうございました。
私はこの「弾薬庫」の天井部分がコンクリでないのが以前から気に
なっていました。
桶川のDVDを見た際にYさん以外の軍属整備員だった方が2人?出て
いたことを今思い出しました。
そのうちのお1人を以前桶川で見かけた気がします。
その人達も知らないのかそれとも磐城に行った方なのか、また気に
なってきました。
DVDではYさんがその中佐の話もしていました。
ですがその場所が守衛室だったとは知りませんでした。
(写真が綺麗ですね)
中佐の遺児として女性の「会長」も出演していました。
話は変わりますが、なーふぁで渡難島の70歳近い知人に会ってきま
したが不時着機の事は知りませんでした。
彼の父親も日本の軍隊に採られましたが口や歯が殴られ過ぎてガクガ
クになって帰ってきたという話を今回聞きました。
(身内にもそこまでやるのですから敵国民や捕虜には相当だったのだ
ろうと想像します。硫黄島では後ろから撃たれた遺体も多くあったと聞きました。私の親類からは相当殴った上官のサーベルを仕返しに土の中に埋めてやったという話は聞いたことがあります。)
尚、S地区ではなく漁師の多いK地区には明治、大正時代にやまとぅ
から移って来た人も多くいて姓で分かるのだとも言っていました。
本で読んだのですが島にはカイダー字と云う文字があったそうで米と
いう字は口の真ん中に横棒1本を串のように刺した形の文字でした。
帰りがけにタクシーでJG小の横を通ると旧校名の碑がありましたが
それは知りませんでした。そこから壷川東公園へ行くと南大東島の
ディーゼル機関車と蒸気機関車の台車が置いて有りました。
てっきりキビを積み込む貨車だと思っていたものが蒸気機関車のなれ
の果てで大井川鐵道のトーマスと同じ位がっかりしました。
20年タクシー運転手をしているというやまとぅ出身のおばさんも
これは知らなかったと驚いていました。
(私はその人の人生も気になりました)
毎度脱線ばかりですみません。
by アギラ (2014-07-14 10:06)
こんばんは
SR71の件はご指摘を戴きまして、「ごっそりと跡形も無く」消し去りました・・・
d(-`ε´-;)シィッ・・・・・・ポカッ(._+ )☆ヾ(-.-メ) ォィォィ インメツシタノカ!!
内壁の「黒いブツ」って、とりさんの拡大写真を見ますと・・・・・
どうやらコケが乾燥した物っぽいですね・・・・(*-゙-)ウーン…
あ、そうそう!
変な米軍名だなぁと思ってスルーさせていましたが、米軍資料に「桶川」が「yamagatanito」として載っています・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4002356
(52コマ目です。)
by 再生おじさん (2014-07-14 21:11)
まるで「永遠の0」のような件ですね
by an-kazu (2014-07-14 23:47)
皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m
■アギラさん
個人情報取り扱いにつきましては、会長さんにコメント欄に目を通してくださるようお願いしてきましたので、
見て下さると思います。
沖縄には行かれたのですね。
ご無事の生還なによりです。
年に数回、与那国出身の90近い親戚のオバーが遊びにきますので、
聞けたら不時着の件聞いてみます。
サーベル埋めて仕返しって、すごい話ですね
「おっとりしたS地区、気性の激しいK地区」と聞きますが、
K地区には移り住んだ人が多いのですね。
>カイダー字
オイラの実家にはそれを沢山プリントしたシャツなどがゴロゴロしてます(o ̄∇ ̄o)フフ
>旧校名の碑
そんなものがあるんですね。
今度行くとき見てみます。
>大井川鐵道のトーマスと同じ位
そうだったのですか。それは残念でした。
こういう脱線は大歓迎です。
■再生おじさん
SR71の件了解致しました。
>コケが乾燥した物
オイラもそんな気がします。
>米軍名
川島町山ケ谷戸ですね。
会長さんにお伝えしておきます。
ありがとうございました。
■an-kazuさん
すみません。オイラまだ観てないんですよ。
確か、勉強の苦手な子がずっと0点ばかり取るという…
d( ̄∇ ̄*)☆\(--
by とり (2014-07-16 05:37)
■アギラさん
肝心なことをお伝えし忘れていました。
少し前に教えて頂いた荒川河畔の滑空場跡地に先週行って参りました。
順番にアップする都合上、これから11月まで四国編が続いて、その後の掲載になります。
情報有難うございましたm(_ _)m
by とり (2014-07-16 17:35)
前の記事も、今回も全て読ませていただきました。
そこで、素人なりの疑問なのですが、昭和20年以降に造られた遺構ならばどちらでもないってことはないのですか?なぜ戦後に奉安殿?なぜ戦後に弾薬庫?
屋根のない防爆構造は、花火の火薬庫がよくあると思いますが、これでは確かに小さいですね。もし火薬に火がつき(静電気とか)爆発すると屋根を吹き飛ばして周囲を守る構造になります。以前、現場のそばの花火工場が爆発しまして作業員全員地震だーって叫びましたが、とんでもない振動だったですよ。また、それこそほんのすぐそばに会社の置き場がありまして、現場に持っていくコンテナもいくつかあったのですが中は蒸し焼き状態、倉庫も燃えちゃいました。隣の家は基礎ごと飛び上がって基礎と建家がずれてました。
これが防爆構造ではなく普通の平屋だったら((((;゚Д゚))))
確かに構造的には弾薬庫なのかもしれないのですね。
by 鹿児島のこういち (2014-07-16 20:45)
■鹿児島のこういちさん
>花火工場
すんごい経験をされたのですね(☆Д☆)
当遺構が造られたのは戦後ではなくて、
Yさんが桶川を離れた昭和20年5月~であろうとされています。
分かりにくかったらすみませんでした。
戦後は進駐を経て、2007年まで大陸などからの引揚者の住居として使用されました。
鹿児島のこういちさん仰るように、戦後作られた可能性も考えたのですが、
では何のためのものなのでしょうね。
屋根が無い件は、仰る通り防爆構造とも受け取れるのですが、全国の奉安殿の中には、
壁は頑丈なコンクリート構造、屋根は非常に凝った木製のものを被せたタイプもあります。
by とり (2014-07-17 05:49)
いろいろありがとうございました。
>個人情報
お手数をおかけしました。
>荒川河畔の滑空場跡地
「河原松原」期待しています。
>気性の激しいK地区
今回これを言うとS地区出身でも彼は土木関係を長年してきた
からか否定をしていました。
by アギラ (2014-07-17 21:30)
■アギラさん
「おっとりしている地区」と言っても、いろんな方がおられるでしょうからね。
土木関係の方だったのですね。
狭い地域ですからオイラの親戚もきっとお世話になってるんでしょうね。
以前南北大東島にお邪魔した際、建設機械の海上輸送コストの問題があるので、
公共事業は事実上国場組の独占になっているのだと聞いたことがあります。
実際そこここで国場組の建機を目にしました。
与那国も似たような状況なのでしょうか?
by とり (2014-07-19 05:32)
お早うございます。
彼は高校から本島へ出て仕事も本島でしていました。
本島の現場の話は何度も聞いたことはあるのですが、、、。
國場組は県下一のゼネコンですから何でもありでしょうね。
加えて社長の息子幸之助氏は今自民党の衆議院議員ですし。
久米三六姓の知事をはじめ自民党代議士達は普天間の県外移設
では公約を破ったから元土木関係者でも今回はかなりカンカンに
怒っていました。
by アギラ (2014-07-19 08:02)
■アギラさん
あ、高校から本当に出られた方だったのですか。
失礼致しました^^;
国場組、やっぱり強いのですね~。いろいろと。
by とり (2014-07-20 05:12)
先日、新潮文庫の「人間の砂漠」という沢木耕太郎の短編集を読んで
いたらその中に「視えない共和国」という短編がありました。
これは著者が昔、与那国を訪れた時のルポでした。
もしかしたら懐かしい名前が出てくるかもしれませんよ。
by アギラ (2014-07-20 09:42)
■アギラさん
>「人間の砂漠」
教えて頂きありがとうございます。
近所の図書館になかったのですが、
面白そうなので早速注文しました^^
by とり (2014-07-20 10:40)
遅くなりましたが
ありがとうございました。
by あるく (2014-07-23 10:33)
■あるくさん
こちらこそ情報ありがとうございました~。
by とり (2014-07-24 05:52)