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台湾・台中(公館、豊原)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   (未訪問)2022/6更新  



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(国立国会図書館ウェブサイトから転載)官報. 1937年02月18日 


台湾中部台中市にある国際空港「台中国際空港」。

元々は台湾総督府により建設された「台中(公館)飛行場」でした。


「盟軍記載的二戰臺灣機場」(下記リンク参照)によれば、

当飛行場は連合軍によりFAD(Fighter Airfields:戦闘機飛行場)に分類されていました。


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 台湾島内循環
区間 台北-台中間 毎日一往復
   台中-台南間 毎日一往復
   台南-屏東間 毎日一往復
   屛東-台東間 毎日一往復
   台東-花蓮港間 毎日一往復
   花蓮港-宜蘭間 毎日一往復
   宜蘭-台北間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  臺中飛行場
経営者  臺中州
所在地  臺灣臺中州豊原郡大雅庄埔子□(土+乾)、大甲郡沙鹿庄公館
水陸の別 陸
滑走区域 東西一,二〇〇米 南北五〇〇米
備 考  (記載無し)

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」

に1/17,000の地図があり、先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。

(位置決めには、アジ歴:「飛行連隊及航空支廠設定の場合を顧意し台中飛行場建物位置選定に関する意見の件」 

の地図を使用しました)

図によれば、付属施設は飛行場敷地西側にまとめられ、縦一列に並んでおり(青マーカー)、

北から順に、物置、州倉庫、厠、高層気象観測所、動力室、水槽、油庫、日航出張所、州工事事務所とあります。

また敷地のすぐ外側に給水槽がありました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

臺中飛行場(昭和14年6月調)
臺中州大甲郡沙鹿庄公館及豊原郡大雅庄埔子(土+乾) (豊原街の西方約9粁)
所管 臺中州

着陸場の状況
高さ  平均水面上約192米。
廣さ及形状  本飛行場は約1,200米平方の面積より北東隅の一部(南北約
700米東西約500米)を缺如したる東西、幅南北各約1,200米の略L字型地
(総面積109萬平方米)なり・着陸地域は概ね図示の如く長さ南北約900米、更
に南部に於て東側に約150米を加へ其の幅約200米を有する南北に細長きL字
型地区なり(付図参照)。
地表の土質  砂を混ずる赭粘土。
地面の状況  本場付近一帯は北西より南東に略1/87の下り勾配即ち北方よ
り南方に、西方より東方に向ひ下り傾斜(勾配約1/100乃至1/300)を成すも概ね
起伏なき平坦且堅硬地なり・殆ど全面に芝密生するも飛行場北側付近は裸地
なり・場の北側裸地及南東側の盛土地区付近一帯の地表は概ね軟弱なり(付図
参照)・排水施設としては場の略中央部を東西に貫く簡単なる排水暗渠1條あ
り且周囲には南側を除き小規模なる簡易排水路を繞らし前者に連絡し排水極め
て良好なり・夏季炎天続くときは地面に小亀裂を生じ易きも離着陸に支障なし
又豪雨続きの際は表土に多少凸凹を生ず・南東部の盛土地区は土砂の流失程度
比較的大にして幾分耐力減少すと謂ふ・芝密生しあり砂塵飛揚することなしと
謂ふ。
場内の障碍物  着陸場内にはなし。
適当なる離着陸方向  北(主として冬季)又は南(主として夏季)。
離着陸上注意すべき點  離着陸の際は西寄地区(建築物敷地前面)の使用
を可とす。
施設  臺中州工事事務所(高さ約5米)、大日本航空株式会社臺中出張所
(高さ約6米)、会社油庫(高さ約4米)、動力室、高層気象観測場(高さ約15
米工事中)、州倉庫(高さ約3米)給水槽(高さ約2.5米)、物置(高さ約4米)
吹流柱(高さ約12米)等あり。

周囲の状況
山脈丘陵  本場は臺灣平野(西部平野)の中部に在る臺中盆地の北西端に
在り西方には南北に走る大肚山の丘陵を控へ東方には前記平野を隔てて臺灣脊
梁山脈縦走す而して西方より右回りに北東方に至る間は大肚山系に属する比較
的平坦なる高臺にして更に北東方より右廻りに南方に向ひ多少の下り勾配を成
せる廣濶なる水田地あり・場の北東方約2粁には209米の高地あり又南西方
約5.5粁には大肚山の最高點(310)在り。
並木  公館付近より東方に通ずる諸道路及縦貫道に沿ひ高さ約2乃至6米
の並木あり。
樹林  飛行場付近一帯の樹木は常盤木(相思樹)にして畠と畠との境界に
在りて防風林をなし高さ約2乃至3米程度なり・場の南東端埔子(土+乾)付近に高さ
約7米の竹林あり。
河川  場の北方約6粁には大甲渓あり其の源を中央山脈に発し諸渓流を収め
て西流し下流の沖積地にては亂流して海に注ぐ・場の東方に灌漑用水路あり。
電線  場の北端を距る約0.5粁縦貫道に沿ふ高さ約8米の高圧電線及普通
電線あり又場の南西方道路に沿ひ高さ約6米の普通電線あり・場の西側に場内
に通ずる高さ約6米の電線あり・場の西側排水溝付近に高さ約6米の電柱、東
側格納庫北方に北東方に架する高さ約5米の電柱あり。
着目標  臺中市、豊原街、縦貫(海岸)線及中央線、縦貫道路、大肚山。

地方の状況
軍隊  臺灣歩兵第1連隊第3大隊(臺中市干城町)南東方約15粁。
憲兵  臺中憲兵分隊(臺中市干城町)南東方約15粁。
警察署 大甲郡警察課(大甲郡清水町)西方約6粁・豊原郡警察課(豊原
群豊原街)東方約8.5粁。
派出所   公館警察官吏派出所(大甲郡沙鹿庄公館)西方約1.4粁・神岡警
察官吏派出所(豊原郡神岡庄神岡)東方約1.5粁・大雅庄警察官吏派出所(豊
原郡大雅庄大雅)南方約4粁。
役場  大雅庄役場(豊原郡大雅庄大雅)南方約4粁・沙鹿庄役場(沙鹿庄
沙鹿)南西方約8.5粁。
医療  臺中市内に臺灣総督府立臺中医院(入院患者収容員数計150)南西
方約9.5粁、私立平安病院及臺中衛戌病院あり病室其の他設備完備す・昭和12
末調査に拠れば上記以外に医院17(入院患者収容員数計約175)及開業医45あ
り。
宿泊  臺中市街に完備せる旅館多数あり。
清水  場の東側を北東より南西に流るる小渓より給水「タンク」に導き所
要の箇所に給水す(河水は水量豊富水質稍良好なりと謂ふ)。
応急修理  臺中市老松街に浅沼鉄工所あり一時的応急修理程度ならば可
能。
航空需品  臺中市橘街に「ガソリン」類販売店あり少量ならば補給し得。

交通運輸及通信
鉄道  清水駅(縦貫線)北西方約7粁・沙鹿駅(縦貫線)西方約9.5粁。
乗合自動車  場の南西方道路(臺中-清水)を運行する老松自動車商会経
営の乗合自動車(1日約36回運転)及北方豊原至清水間を通行する明星自動車
会社経営の乗合自動車(1日24回運転)の便あり随所に停車す。
道路  場の北側を東西に通ずる豊原至清水間の縦貫道は幅約15米、南西側
を通ずる臺中至清水間の道路は幅約11米にして共に自動車類の運行可能なり。
河海及海運  場の北北西方約15粁に大安港あり大安渓の河口に位し支那
型船の泊地なり河口前面は干出堆にして水深は距岸1浬にして急に9.1乃至
14.6米に増加す大安港と其の南東方約6粁の大甲街との間には製糖会社の私
設鉄道あり又場の西方約10粁に在る梧棲港は小なる河口に位し干出州を成し
且つ磯浪ありて上陸困難なり支那型船は高潮に乗じ入り低潮に膠着す貨物は大
型の竹筏を以て運搬す梧棲より縦貫線迄は約3.5粁にして此の間軽便鉄道及自
動車の便あり本港は明治30年1月特別輸出入港に指定せられ支那型船に依り
対岸の厦門、福州汕頭等と貿易を為す。
車馬  昭和12年12月末現在の調査に拠れば沙鹿庄管内に乗用自動車15、
自転車577、牛車31、荷車107あり又昭和13年度調査に拠れば大雅庄管内に
乗用自動車1、自転車1,376、人力車4、牛車57、荷車111あり・昭和11年調査
に依れば臺中市内に自転車5,928、人力車139、牛馬車209あり。
運送店  昭和11年11月の調査に拠れば臺中市内に国際通運株式会社臺中
出張所其の他運送店約10あり・豊原街に約2、清水街に約3及沙鹿庄に約1運
送店あり。
電信及電話  飛行場事務所構内に電話の設備あり・臺中郵便局(臺中市□
町)南東方約15粁、清水郵便局(大甲郡清水庄)北西方約6粁、沙鹿郵便局
(大甲郡沙鹿庄)南西方約7.5粁・共に電信及電話を取扱ふ。

気象
測候所  臺中測候所(臺中市大正町)南東方約15粁、毎日1回午前10時
頃航空気象を観測す・場内に高層気象観測所(工事中)あり。
地方風  9月より翌年5月までは北風多く6月より8月迄は南風にして弱し。
大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)最多風向、(2)平均風速
次の如し。(以下データ省略)
天候  10月頃より翌年4月頃迄は概して晴天にして6月頃より9月頃迄は
雨天多し・大正15年至昭和10年10箇年間の統計に拠る月別(1)快晴日数、
(2)曇天日数、(3)降水日数次の如し。(以下データ省略)
5月より9月頃迄電雷多し。
地方特殊の気象及天気予察法の俚諺
1.冬季  低気圧が揚子江流域、黄海南部及南部東海などに在りて季節風衰
微せる際は濃霧の発生著し・高気圧支那東海に移動し黄海日本海を蔽ひ本島付
近の気圧傾度緩慢となり季節風衰へたる場合は稍濃密なる霧の発生すること多
し・霧の発生回数は冬季に多く夏季は極めて少し。
2.夏季  颱風本島東部海上に存在する頃は地形上風力弱く天気良好にし
て其の影響少けれども本島北東部沿岸に差掛りし頃より次第に曇天勝ちとなり
少雨を催すも風力は以前微弱なり・颱風北部海上を西北西に通過する際或は北
部陸上を北西に進行し北部海上に出る頃初めて雨勢加はり風向南偏するに至り
て豪雨となるを例とす・颱風南部海上を西進し東沙島方面に進行せし頃当地付
近に副低気圧発生し熱風現象を起し10数時間に亘り蒸暑きことあり又熱風現
象中は暴風警報中にも拘らず天候極めて良好なり・熱風著しく顕著ならざると
きは下層雲来り時々細雨のあることあり。
3.其の他  3,4月の候南支那香港付近に小低気圧現はれ北東又は東北東に
進行し汕頭又は厦門方面に差掛る頃より当地方の風は南西に変り雷鳴轟き相当
の降雨あるを例とす・颱風東沙島方面より北上する場合亦同じ現象を顕はす・
場の南西方が曇るときは雨となる前兆なりと謂ふ。

其の他
本飛行場は昭和11年12月20日公共用陸上飛行場として臺灣総督府より設備
を許可せられたるものなり・臺灣島内循環定期航空路の中間飛行場にして大
日本航空機株式会社の輸送機発着し旅客機及郵便物の輸送を行ひつヽあり目下毎
日東西廻各1回発着す・飛行場東方屈曲部付近に海運臨時建築諸施設あるも格
納庫を除き建築物は近日撤去の予定なりと謂ふ。



■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」

にも当飛行場の要図がありました。

1,200m四方の正方形で、北東側が700mx500mの大きさで欠けているという基本的な形は変わりません。

ただし、先の昭和14年調の図では飛行場敷地西側にまとめられていた付属施設が、

東側の「付属設備」にそっくり移っています(オレンジのシェイプ)。

そして元々諸施設の並んでいた場所は、1,200mx200mの「仮舗装地帯」と記されています。

そしてこの「仮舗装地帯」を含める形で、南北方向、東西方向に「滑走地区」が設定されています。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

位置
 臺中州豊原郡大雅庄埔子□(土+乾)大田郡沙鹿庄公館(臺北市□北十□粁)
滑走地区
 滑走地区南北1,200mx900m東西1,400mx500m(900x700)
 赤土にして地盤堅固平坦にして芝密生しあり
 各機種の離着陸に支障なく降雨後も概ね使用に
 差支へなし
 舗装
付属設備
 格納庫二棟自動車一 倉庫五
 本部一 兵舎(収容力約一、〇〇〇名)
 燃料庫及弾薬庫各数棟
 給水(水道)施設及電燈設備完備しあり
 □□夜間標燈あり
飛行場
 東南方付近に部落あり西方約一、五粁に比高五
 〇米の高地あるも支障なし
 其の他は畑地にして飛行に支障なし
気象
 恒風は概ね北風にして夏季南西風稍多し
 雨は六、七月最も多し
 気象影響を受くること□し
交通通信
 公館より清水-臺中-豊原に良道あり
 通信所(送受信所)あり
其の他
 昭和十七年四月海軍に返納せり





原日軍臺中飛行場機槍堡(サイト:台中市文化資産處から。下記リンク参照。赤マーカー地点)

1940年、日本軍によって建設された"機関銃砦"。

防空施設であり、現在は台中市文化資産處の所有となっています。

基部は直径約10メートル、高さ約6~9メートル、壁面には長方形の窓があります。



     台湾・台中(公館)飛行場跡地         
・台中(公館)飛行場(昭和14年6月調) データ
所 管:臺中州
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:臺中州大甲郡沙鹿庄公館及豊原郡大雅庄埔子(土+乾)
座 標:24°14'58.0"N 120°37'16.4"E
標 高:192m
面 積:109ha
飛行場:1,200mx1,200mのL字型地形
着陸地域:900mx550mのL字型地形
(座標はグーグルアースから。他は資料から)

・台中(公館)飛行場(昭和19年資料) データ
設置管理者:日本海軍
種 別:海軍陸上飛行場
所在地:臺中州豊原郡大雅庄埔子□(土+乾)大田郡沙鹿庄公館
座 標:24°14'58.0"N 120°37'16.4"E
滑走地区:南北1,200mx900m東西1,400mx500m(900x700m)
(座標はグーグルアースから。他は資料から)


・台中国際空港(現在) データ
設置管理者:通信省民間航空局/軍
種 別:軍民共用
3レター:RMQ
4レター:RCMQ
所在地:中華民国台中市沙鹿区
標 点:24°15′54″ N 120°37′15″ E
標 高:203m
滑走路:3,659mx61mコンクリート
方 位:18/36
(公式サイト/中国語版Wikiから)

沿革
1936年12月20日 公共用陸上飛行場として臺灣総督府より設備許可
1942年04月 海軍に返納
1945年08月 終戦
1950年   台湾省政府、台中公館飛行場を青泉飛行場に改名と発表
1954年  米華相互防衛条約に従い米軍台湾協防司令部(USTDC)設立
1958年 米軍戦闘機駐屯

関連サイト:
TAIWANAIRBLOG/台中飛行場西跑道 
盟軍記載的二戰臺灣機場(21コマ) 
空港公式サイト 
台中市文化資産處 
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第10 台湾地方飛行場及不時着陸場 昭和15年4月刊行 水路部」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 内地(千島、樺太、北海道、朝鮮、台湾を含む) 昭和十九、四、二〇調製 第一航空軍司令部」


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