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小川飛行機練習所跡地 [├国内の空港、飛行場]

   (未訪問)  



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1/25000「桜島南部」昭和7年補正・昭和10.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成


大正時代、鹿児島県鹿児島市内に地元出身者が開設した「小川飛行機練習所」がありました。

旧鹿児島空港の南南西約4.7kmに位置しています。

飛行場の位置を明示する資料が見当たらないのですが、以下3つの資料がありました。

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①報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976133 (参照 2024-01-28) 

報知年鑑 大正15年
本邦民間飛行場調〔大正14.8〕
使用者 小川三郎
種類 陸上
位置 鹿児島縣鹿児島郡谷山村中■谷より同村新屋敷に至る海岸
面積 干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米 235,950坪


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②報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976134 (参照 2024-01-28) 


報知年鑑 大正16年
本邦民間飛行場調〔大正15.8〕
使用者 小川三郎
種類 陸上
位置 鹿児島縣鹿児島郡谷山村(中■谷-新屋敷間海岸)
面積 235,950坪


③「南国イカロス記 かごしま民間航空史」101p
「谷山村塩屋海岸の干潟を利用し、小川飛行機練習所を開設した」


実は上に貼った昭和7年の地図にもちょっと見えてるんですが、すぐ南に「和田」という、

如何にも「飛行場のために造成しました」と言わんばかりの細長い埋立地があり、

最初はそちらに目が行ったのですが、

ここは1,600mx380mで、報知年鑑大正15年版に出てくる「干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米」

とは、長さはともかく幅が違いました。

そもそも「南国イカロス記 かごしま民間航空史」には「干潟を利用」と出ています。

上に貼った今昔マップには、干潟を示す破線が描かれていて、

その通りに作図してあります(赤線でレイヤ引いたのでほとんど見えませんけども)。

黄色く囲った地割のうち、北側はまだまだ干潟が続いているのですが、

報知年鑑大正15年版にある通り、1,500mでバッサリ切りました。

上記報知年鑑には、飛行場の面積がどちらも235,950坪とあります。

これは78haに相当するのですが、先頭のグーグルマップのグレーのシェイプを2つ足すと、76.7haになります。

幅も最大で650mあり、面積的にもここなのではないかと。

永田川で飛行場の地割が分断されてしまうのが非常に気になるのですが、

南側の大きい方は長さが900m近くありますので、大正時代のヒコーキならこれだけでも十分過ぎると思います。

(大戦期の鹿児島航空基地の長さは、最大で1,700mでした)


「南国イカロス記 かごしま民間航空史」101p

 小川三郎は、川内での飛行会を終えると伊敷練兵場に引き返した。ここで県内における民間初の往復長距離飛行が完成したのであった。
 こうして最初の目的を果たした小川三郎は、そのまま小川式5号南洲号と共に鹿児島に残り、次の目的を達成しようとした。操縦士の養成である。彼は谷山村塩屋海岸の干潟を利用し、小川飛行練習所を開設したが、資金難で間もなく閉鎖してしまった。
 当時、民間航空が栄えていたのは東京湾沿岸で、特に千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所(伊藤音次郎所長)と千葉町寒川の白戸飛行練習所が中心的存在であったが、経営は必ずしも楽ではなかった。まして小川三郎は、たとえ郷里とはいえ、小川の飛行を見たのがはじめてで、しかもばく大な練習費を払ってまで危険な飛行機に乗ろうという人が少ない土地で、練習所を開いても無理であった。時期尚早ともいえたろうが、条件がすべて不利であった。なんといっても資金不足だし、また三等飛行機操縦士程度の技量で、たとえ技術屋的なセンスはあっても経営の才に乏しい人が、航空人口の少ない場所で練習所を開いても無駄であった。
 現に、小川三郎にとって助手という以上に、協力者として郷土訪問飛行にまで裏方的役割を果たした本田稲作でさえ、小川三郎と袂(たもと)をわかち、橋口季則(宮崎県)と共に再上京し、東京・洲崎の小栗飛行学校に入学するのだ。(中略)要するに二、三度乗せてもらっただけだが、小川の操縦ぶりが荒っぽく、こわかったのだ。それは小川三郎を誹謗(ひぼう)することではなく、当然のことであった。二、三十時間の飛行経歴では、ひよこ同然なのだ。しかし小川としては引きとめようもなく、これまでの労をねぎらって、軍から払い下げてもらった横廠式ロ号水上偵察機を本田稲作に贈った。
 本田稲作は後になって次のようにいった。「私にとってはまぎれもない先輩。実に頭の鋭い、いわば天才はだの人間だった」
 晩年の小川三郎の消息については、折田兼才氏の手紙がある。
『其後何時迄飛んで居たか知りませぬが、久しぶりに会った時、歯科医の奥さんを得て飛行機をあきらめ、技工の加勢をして居ると聞きました。私も(昭和)七年に上京、偶然東京で会った時、何か飛行機の部品作りをして居ると聞いたようですが、私の思い違いかもしれませぬ』(昭和五十八年七月二十五日)
 小川三郎は昭和三十六年(一九六一年)十一月七日、武蔵野市の自宅で病没。享年六十五歳だった。



     鹿児島県・小川飛行機練習所跡地         
小川飛行機練習所 データ
使用者:小川三郎
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島縣鹿児島郡谷山村(現・鹿児島市南栄、東開町)
座 標:31°31'31.1"N 130°31'37.6"E
標 高:1m
滑走帯:干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米
面 積:78ha
(座標、標高はグーグルアースから。滑走帯長さは資料から)

沿革
1921年 開設
1926年 少なくともこの年まではあった

関連サイト:
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「伊敷練兵場」記事(小川飛行機練習所以前の小川氏の様子) 

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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