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鹿児島県・伊敷練兵場跡地 [├場所]

   2016年5月訪問 2022/1更新  


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(昭和5年3月撮影)高度700米 方位N 距離約1,000米
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1935年(昭和10年)11月調査資料添付地図 Translation No. 19, 20 December 1944, airways data; Kyushu Chiho. Report No. 3-d(15), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

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撮影年月日 1947/03/07(昭22)(USA M103 8)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鹿児島県鹿児島市にあった「伊敷練兵場」。

上に貼った1947年の航空写真には、まだ練兵場当時の地割がハッキリと残っています。

■「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」

の中で、当練兵場に不時着陸場が設定されていたことが記されています(下記リンク参照)。

先頭のグーグルマップは、この資料要図に従って作図しました。

昭和11年の資料ですから、少なくともこの頃には不時着陸場が設定されていたことになります。

■ 「南国イカロス記 かごしま民間航空史」73-76p

の中で、大正時代、鹿児島市平之町在住の小川三郎氏が自作のヒコーキを当練兵場に持ち込み、試運転したとあります。

当練兵場で試運転をしたと本書で明確に記されているのは、大正7年(1918年)6月に完成した「小川式2号機(太陽号)」

だけなのですが、せっかくなので1号~3号まで抜粋して引用させて頂きました。

小川式飛行機
「地上を走り廻るのみ」
天保山におけるアート・スミスの宙返り飛行より五か月前の、大正六年
(一九一七年)三月、鹿児島市平之町の小川三郎が手づくり飛行機を完成
させた。すなわち小川式1号機で、『鹿児島百年』によると次のような機体であった。
『(小川三郎が)関係雑誌やグラビアを取り寄せ、身近な材料を集めて創案試作した複葉機で、機
体の重量は百二十㌔、エンジンは七馬力で二十㍍、翼長七㍍の小型機であった。
 胴体と翼は竹と材木で骨を組み、その上をカナキン(もめん)ではって、パニスをぬってあった。
プロペラにはもっとも苦心したが、友人の名越操、益田吉二の二人が協力してこれもなんとかで
き上がった。
 何もかも手探りでつくるのだから、完成までには相当の月日がかかったろうと思われる』
 文中、七馬力エンジンが二〇㍍とあるのは二十キロ、翼長とあるのは翼幅、パニスはワニスの誤
植であろう。
 小川式1号機の写真は今のところ見あたらないが、少年時代に近所に住んでいたので、その製
作ぶりを見た人が現存している。(中略)折田兼才氏である。八十二
歳の高齢だが、すぐれた記憶力で、古武然とした格調のある毛筆で、次のような証言を送ってい
ただいた。昭和五十八年七月二十日付である。
『大正初年、平之町千石馬場通りの一隅、長屋風の奥に住いし、自己設計で飛行機を作成して
居ました。プロペラも数枚の樫板を膠を張り合せ、ピッチを入念に調べながら削って居た姿を思
い出します。私も子供心に飛行家に成り度いと希望に燃え、学校帰りに立寄り自分も模型飛行機
造りに凝ったものです。小川氏の第一号機は、ハーレイかインヂアンのオートバイエンジンのプ
ッシャーだったと思いますが、飛翔しなかったようです』
 エンジンは、まぎれもなくオートバイの七馬力エンジンを改修したものであった。
 ところが完成間近になって、東京の電信隊から予備招集の令状が届いた。せめてあと二十日あ
れば完成し、試運転が出来るのにと思った小川三郎は、県立病院へ行き、二十日間の静養を要す
るという医師の診断書を書いてもらった。もっとも1号機の製作が終盤に近づき、徹夜で打ちこ
んだので、多少神経衰弱気味ではあったという。しかし大日本帝国陸軍は、そんなことで招集時
期を延期するほど甘くはなかった。結局、制作を中断し三か月間の予備招集に応ずるため上京し
なければならなかった。従って解除になって帰郷すると、夢中になって完成を急ぎ、試運転にこ
ぎつけた。しかし、いたずらに駆けまわるのみであった。
 そこで小川三郎は、小川式1号機の改造を企てた。いつから製作にかかったのか、正確な日時
はわからないが、大正六年七、八月以降であったろう。(中略)
小川三郎の小川式2号機が完成するのは、それから二か
月後の(追記・大正七年)六月のことで、太陽号と命名した。
 小川式太陽号は単座の小型複葉トラクター(けん引式飛行機)で、発動機はオートバイのエキセ
ルシャー空冷式V型2気筒十六馬力を装備した。いくらかパワーアップをはかったわけだ。さら
に小川三郎は、車輪の前方に転覆防止用橇(そり)を取りつけた。
 折田兼才氏は、小川式2号太陽号について次のように書いている。
『フォードか何かの自動車エンジンのトラクターで自分で乗ったのですが、頭重く馬力不足で地
上を走り廻るのみで終わったようです』

馬力不足、その名も鴨
小川式2号太陽号の製作には『脇田富男(指宿市今和泉)が協力した。(中略)
『"太陽号"が完成すると、二人でそれを伊敷練兵場に運び六月のある日、夜明けを期して脇田
が試乗した。広い練兵場の草原を数回往復してエンジンをためすと、好調である。
 思い切って全速力を出し、操縦桿をひくと、機はかすかに浮いて五十㍍ほど飛んだ。しかしと
つぜん傾いて落下し機体、車輪などこわしてしまった』(『鹿児島百年』)
 そこで小川三郎はひとふんばりして、小川式3号カナード(鴨=かも)型をつくった。先尾翼式、
つまり前方に昇降陀を取りつけたプッシャー(推進式飛行機)である。航空史家・野沢正氏は、小
川式2,3号とも飛行機ではなく、地上滑走練習機だったと述べている。当然、1号機もそれに
含まれるだろうが、いずれも飛行するには至らなかったのだから、この命名には甘んじなければ
ならないだろう。3号機の発動機は、2号太陽号から転用した。
『続いて新構想のカナード(鴨)型、つまり先尾翼式の3号を製作したが、これも同じ発動機で
馬力不足のため、地上滑走だけで終った。当時としては極めて珍しいこの3号は、三輪式で軽快
に走行したという』(野沢正編著『日本航空機総集』第8巻)(中略)
 
 ともあれ三機とも地上滑走のみに終わった小川三郎は、ようやくおのれの無力さをさとったよ
うであった。そこで彼は、大正八年(一九一九年)二月、二十三歳のとき群馬県新田郡太田の日本
飛行機製作所に入所した。

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」によりますと、

小川氏が入所した翌年入所した同郷の本田少年を助手として、「小川式5号南洲号」を製作。

郷土訪問飛行のため、貨車で鹿児島に送り、再び当練兵場から離陸、

約45km離れた川内中学校付近に設けた仮設飛行場にて、幾万とも知れぬ大観衆の前で飛行会を実施したのでした。

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赤マーカー地点。

不時着陸場南端付近。

現在は鹿児島市立伊敷中学校。

ここから画面奥に向かって不時着陸場が設定されていました。


      鹿児島県・伊敷練兵場跡地     

伊敷練兵場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:不時着陸場
所在地:鹿児島県鹿児島市下伊敷1丁目
座 標:N31°36′39″E130°32′10″
標 高:12m
着陸帯:430m×90m
方 位:17/35
(座標、標高、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1918年06月 小川式2号太陽号の試運転実施
1921年12月 小川式5号南洲号による飛行会実施のため、飛行会場との往復に使用
1936年    この頃不時着場が設定されていた 

関連サイト:
「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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コメント 4

tuka@北海道

水路部の航空路資料は旧飛行場愛好者?には面白すぎる史料ですね。

by tuka@北海道 (2016-07-08 00:19) 

とり

■tuka@北海道さん
返事が遅くなって申し訳ありません。
実はこの水路部の資料は、「滑走路探検隊」様にtuka@北海道さんがリンクを貼った
アジ歴のリンク一覧を参照させて頂きました。
この数ヶ月であの一覧から何十という不時着場、飛行場の作図をさせて頂きました。
御挨拶に伺おうと思っていたところなんですよ。
拙ブログではこれから続々とtuka@北海道さん作成の資料から作図した
箇所が登場します。
本当にありがとうございました。

それから、先週北海道にお邪魔していまして、以前教えて頂いた
沼ノ端の掩体壕の場所にも行ってきました。
教えて頂いていた通り深い水路に阻まれ、近寄ることはできず、
季節柄植生も濃くて、「アレかなぁ」程度にしかわかりませんでした。
残念。
by とり (2016-07-11 19:16) 

tuka@北海道

とりさんへ
こちらこそ沢山の旧飛行場について記事をたのしく見させていただいています。
国立国会図書館デジタルコレクションに航空路資料が存在するのは、こちらで教えて頂いたことなので自由に参照してください。(地名等まちがいはあるかもしれません)
by tuka@北海道 (2016-07-13 02:17) 

とり

■tuka@北海道さん
そうだったんですか。
こちらこそありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。

今回沼ノ端の滑走路エンド部分にも行ってみたのですが、
丁字滑走路の南北方向の南端部分、採砂場なんですね。
巨大な砂の山々のスケール感に「流石北海道」と
感動しました。
by とり (2016-07-13 05:54) 

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