神風号亜欧連絡飛行・2 [├雑談]
■出発
昭和12年(1937年)4月1日 羽田飛行場にて東久邇宮殿下による盛大な命名式、出発式が行われます。
翌2日1時44分14秒 立川陸軍飛行場出発。
いよいよ15,000kmの彼方への出発だったのですが、九州南沖で悪天候のため引き返してしまいます。
同日8時50分、立川飛行場帰着。
天候の回復を待ち、4日後の6日、立川飛行場より再出発しました。
「一度引き返した以上二度とまた引き返すなどといふことは死んでもできないといふ気持ちを、二人で話し合って出発したのであった。」
(「航空随想」より:以下同様)
悲壮な決意での仕切り直しとなりましたが、無事一路ロンドンを目指すことができました。
ロンドンまで彼らが辿った行程はこんな感じです(以下時間はすべて日本時間)。
4月6日
立川発 2時12分4秒
台北着 9時14分29秒(飛行距離:2,230km、飛行時間:7時間2分25秒・以下同様)
発 10時19分2秒
ハノイ着 16時25分00秒(1,780km、6時間05分58秒)
発 17時40分00秒
ビエンチャン着 19時50分00秒(480km、2時間10分00秒)
4月7日
ビエンチャン発 8時26分00秒
カルカッタ着 14時10分00秒(1,780km、5時間44分00秒)
発 15時05分00秒
ショトブル着 20時30分00秒(1,588km、5時間25分00秒)
発 20時57分00秒
カラチ着 22時50分00秒(612km、1時間53分00秒)
4月8日
カラチ発 09時15分00秒
バスラ着 15時45分00秒(2,000km、6時間30分00秒)
発 16時36分00秒
バグダッド着 18時15分00秒(450km、1時間40分00秒)
発 19時03分00秒
4月9日
アテネ着 01時20分00秒(1,950km、6時間17分00秒)
発 14時40分00秒
ローマ着 17時46分00秒(1,030km、3時間06分00秒)
発 18時22分00秒
パリ着 22時34分00秒(1,100km、4時間12分00秒)
発 23時16分
4月10日
ロンドン着 0時30分00秒(357km、1時間14分00秒)
東京~ロンドン 15,357km
所要時間:94時間17分56秒(13才の少年が56秒までピッタリ当てた)
実飛行時間:51時間19分23秒
実飛行時間あたりの平均速度:299.26km/h
総所要時間当たりの平均速度:162.85km/h
途中から秒数がすべて00になってますね ^^;
宿泊地での滞在時間は第一夜が12時間36分、第二夜10時間25分、第三夜13時間20分となっています。
この時間だけ見ると、(結構余裕だなぁ。もっと時間詰められるじゃん)などと思ってしまうのですが、
前記事の通り経由地は事前に決まっており、現地での手配、交渉等もあるでしょうから、
「今日は順調だからもうチョイ先に行っとこう」という訳にはいかないのでしょうね。
むしろ、順調な飛行のおかげで滞在時間が長くとれたことを喜ぶべきなのでしょう。
「航空随想」には第一夜のみ就寝時間と起床時間が明記されており、これによると睡眠時間はたったの4時間でした。
滞在時間がこれだけ長いのに、どうして睡眠時間が短いのか不思議な気がするのですが、
明日の飛行コースのこと、給油等諸手続き、そして現地邦人による盛大な歓迎があり、連日睡眠時間はギリギリだったようです。
歓待してくれる方の心証を損ねることなく断る言葉が見つからず、まな板の上のコイとなった。
と綴られています。サムライですね。
それでも身体はやっぱり正直で、早くも2日目の手記には、
「身体はだるく、腰から下の感覚は無くなり、睡眠不足のため精神は朦朧となり、進路の保持さえ難しい。」
と記されています。
それでも彼らは困難を乗り越えて記録を達成することができました。
こうして見事100時間以内にロンドンに到着することができたことを祝し、4月10日に皇居前では小学生の旗行列がありました。
一方異国の地で両名を待っていたのは、面食らうほどの歓待と厚遇でした。
記録達成後のヨーロッパ各国への親善飛行の際には大西洋横断飛行のリンドバーグと並び称され、
イギリス、フランス、イタリア、ベルギー各政府から勲章授与があった他、
ベルギー皇帝、イタリア皇帝、ローマ法王、ムッソリーニ首相、ドイツゲーリング空相などをはじめとする要人との謁見があり、
日本人としてこれ以上ないという大歓迎を受けたのでした。
また、クロイドン飛行場には吉田茂駐英大使(当時)が出迎えを行いました。
ヨーロッパの空の勇士たちが何度も失敗した後に成功したことから、
当時内外から低く見られていた日本の航空機操縦と制作技術の実際の水準を、
わずか4日間で世界一流の域にまで吊り上げ、空の英雄と称されたのでした。
4月30日にはロンドン滞在中のリンドバーグとも会見しています。
「ロンドンに到着から三日、未だに新聞記者、カメラマンの訪問が続き、街へ出るとサイン攻め、行きかう人が指をさし、手を振って我々を取り囲む。ロンドンへ着きさえすればゆっくり落ち着けると思ったのに、いつになったらゆっくりとあるけるのだろうか。」
あちこち引っ張りまわされての歓迎は帰国後も続くこととなり、
せっかく久々に戻った郷里でも、実家滞在時間たったの3時間で、すぐに仙台の航空ページェントに参加。
などという生活が当分続くことになるのでした。
■帰還
そして5月14日、飯沼操縦士と塚越機関士は神風で帰国の途についたのでした。
往路では座席に特注の羽根布団を入れていたのですが、2日目位から我慢できない位にお尻が痛くなってしまったので、
復路はロンドンのデパートでもう一つクッションを買ったおかげで非常に助かった。と手記にあります。
「バグダッドへ向かう途中の見渡す限りの砂漠では、30分、1時間飛んでも家1つ見つけることができず、
ここに不時着したらと思うと積んでいる水を飲むのも我慢して飛び続ける。
地表に目標を発見し、もう砂漠も大方終わりと思い、思い切って水を飲んでみる。」
「航空随想」では往路の大砂漠飛行ではその広大さにただただ驚嘆する記述があるのですが、
復路で初めて水の心配のことが出てきます。
オイラの思い過ごしかもしれませんが、もしかしたらこういう心配をするだけの余裕が生まれたのかもしれません。
カラチ上空4,000mの機内は日本の五月位の暖かさなのですが、日の当たる手や顔はヒリヒリする程日光が強烈なのだそうで、
地上近くに高度を下げるとまさに灼熱地獄なのだそうです。
空調も与圧も(ある程度)効いていて、優しいCAさんがなんでも持ってきてくれて、
「機内食の米の焚き加減が甘い」とか文句言ってる現代の空の旅とはまったく異なりますね。
経由地では、現地邦人は無論のこと、 邦人がいない土地でもフランス人、イギリス人が親切にしてくれ、
熱帯夜の中、ドライブに誘ってあちこち連れて行ってくれたりもしたのだそうです。
ビエンチャン飛行場(往路第一夜を過ごした飛行場)上空通過の際、
「この前は色々お世話になりました。お陰様で我々は、欧州旅行を終へて本日故国への途を急いでゐます。皆様によろしく」
「お目出度う。我々も君等の成功は確信して居りました。これから先のコースもどうか安全に、無事東京入りを祈って居ります」
というやり取りがあったのでした。
また直接の交信ではないのですが、
「パイロット飯沼、速度○○で当地上空を通過中。そちらに向かっているので宜しく」という送信を受信したりしたのでした。
古き良き時代という感じですね。
いよいよゴールが近づいてきた時の手記はこう記されています。
「前方に台湾の山々が見えてきた。もう日本だ! 高度四〇〇〇、万一発動機が止まったとしても、安全に日本の領土に降りることが出来るのだ。(中略)台北の飛行場に到着すると、誰もが日本語で出迎えてくれる。」
これも時代ですね。
こうして神風は、5月21日、46日ぶりに羽田に着陸したのでした。
宮様方のお迎え、翌22日、天皇陛下に拝謁をはじめ、各宮家、総理大臣の晩餐会、
全国各地で盛大な歓迎報告大会が執り行われたのでした。
「航空随想」を読んで強く感じたのは、欧州は無論の事、その道程様々な場所に日本人がいたのだなぁ。ということと、
オイラのイメージする当時の世界の中の日本の立ち位置と、彼らが実際に各国で受けた歓迎ぶりのギャップでした。
昭和6年(1931年)の満州事変、満州国建国により、アジアの植民地化を進める欧米はもとより世界中から非難を浴び、
昭和8年(1933年)国連脱退。日本は世界中から孤立してひたすら軍備拡張路線を突き進み続けました。
それから4年後に今回の連絡飛行がありました。
更にそれから4年後の昭和16年(1941年)にはABCD包囲陣、真珠湾攻撃があります。
ヨーロッパの飛行家が失敗続きだった直後(直近のものは約2か月前)であること、
人種偏見、加えて当時の日本と欧米の関係を考えると、国家元首との謁見を含めよくこんなに歓待してくれたものだと思います。
「航空随想」では彼らがこの記録飛行中に嫌な目にあったという内容は一切出てきません。
意図的に省いているのかとも思ったのですが、こんなことが書かれていました。
「方法は違うけれどもどこの国でも誠意を見せてくれたのは事実である。
亜欧コースの各飛行場の飛行場長、その他係員がみな実に親切にやってくれた。
飛行場の地盤の硬軟を一々案内してくれるとか、天候のことを説明してくれるとか、
何事によらず実際これ程までにやってくれなくても充分だと思う位親切にやってくれたのである。」
■「神風」号のその後
神風号が亜欧連絡飛行に成功した1937年7月、日中戦争が勃発。
神風号は陸軍に徴用され、飯沼、塚越両名の操縦で天津へ飛行します。
5月21日の帰国から実家でゆっくりすることもできない程の歓迎行事が全国で続き、
息つく暇なくそのまま戦地に赴くことになったのです。
(飯沼操縦士は陸軍の予備役伍長)
「神風」は塗装を変えられ、ここで偵察飛行を行っていたのですが、
10月には海軍の嘱託として福岡~上海の軍用定期航空に従事することになりました。
翌11月、大刀洗飛行場から上海に離陸しようとした時、エンジントラブルから神風号は草地に転覆大破してしまいました。
機体は大改修を受け、翌昭和13年(1938年)3月戦列に復帰しました。
そして記録達成から2年後の昭和14年(1939年)10月6日、欧州戦線のニュースフィルムを搭載した神風号は台北飛行場を離陸。
福岡に向かいました。搭乗員は川崎 一操縦士と小池寿二機関士でした。
途中悪天候のため台湾に戻ることにしたものの、現在地不明になってしまい、
ついに燃料切れを起こして台湾南端に不時着してしまいました。
小池寿二機関士は行方不明になってしまい、捜索が行われます。
13日、飯沼、塚越両名も駆けつける中引き上げが行われます。「神風」はエンジンとプロペラを失う無残な姿に変わり果てていました。
一方、依然行方不明の小池寿二機関士の捜索が引き続き行われていたのですが結局見つからず、
1週間の捜索の末打ち切られてしまいます。
「神風」号は大破してしまっていたため改修はせず廃機することになったのですが、社の会長指示で大阪に運ぶことに。
持ち帰った神風号は外形だけ復元され、生駒山上の航空道場・神風記念館に展示されることになりました。
そして事故からちょうど1年後の昭和15年10月、開所した神風記念館で神風号と資料の展示が行われたのでした。
残っていれば是非見たかったのですがこの神風号、戦後進駐した米軍によって焼却処分となり、
十年足らずの、しかし濃密な生涯を終えたのでした。
こんな固定脚の偵察機、それもハリボテの展示機まで処分する必要があるのだろうかと不思議な気もするのですが、
46日間日本中が飛行の無事を祈り続け、世界的な注目を集めた「陸軍の試作機」もないんじゃないでしょうか。
■2人のその後
昭和15年は皇紀2600年に当たり、国内では様々なイベントが企画されていました。
朝日新聞でもその前年に社内で企画を募集したところ、「東京~ニューヨーク間無着陸親善飛行」という案が出ました。
因みに太平洋無着陸横断飛行は昭和6年(1931年)に米国人飛行家によって達成しています■
これは青森県の太平洋側からからアメリカ西海岸に渡るという、太平洋の端から端への横断でした。
今度は太平洋を越え、アメリカ大陸を越え、一気に東海岸まで行ってしまおうという訳です。
そしてこの案が採用となり、実施に向けて動き出したのでした。
この飛行のために専用のヒコーキを作ることになり、設計は「航研機」の帝大航研に、試作は陸軍に依頼することになりました。
昭和15年(1940年)2月に朝日、陸軍、航研による第一回の合同会議が開かれました。
飯沼、塚越両名もこの会議に参加しています。
そしてこの会議で、機体設計幹事に木村秀政技師、エンジン設計幹事に高月達男技師、
機体製作を立川飛行機、エンジンを中島飛行機に任せることになりました。
このことは会議から3日後の紙面で告知されました。
機名は「朝日」のA、皇紀2600年に因んでA-26と決まりました。
この企画には飯沼、塚越両名も熱心に参加していました。
エンジンは戦闘機用の小型エンジン「ハ-105」(後に改良型のハ-115)を採用した双発機とし、
層流翼、風防に段差のない砲弾型の機首等、先進的なアイデアがいくつも盛り込まれました。
昭和16年(1941年)春、A-26の実物大木型模型完成。
ここでも両名は積極的に意見を述べています。
実は飯沼操縦士は亜欧飛行後、次の大飛行として「ニューヨークに飛んでみたい」と酒の席などで盛んに話していたのです。
高高度飛行となるため、「朝風」を使用しての高高度飛行試験、酸素マスクの試験が順調に進められ、胴体もほぼ完成。
プロジェクトは順調に進められていたのですが、
軍部はアメリカとの有事に備え、各飛行機メーカーに生産機種の整理統合を命じました。
そしてA-26の制作も中止となってしまったのです。
11月3日に予定されていた初飛行も中止。
こうして「ニューヨーク親善飛行」計画は頓挫してしまいました。
当時飯沼飛行士は新型の百式司令部偵察機を南方に空輸する任務に従事していました。
「神風」が九七式司令部偵察機の試作機であったことは前述の通りで、百式はその後継機に当たります。
九七式を開発した三菱が続けて制作した高性能新鋭機でした。
「神風」の性能が、最高速度:500km/h、航続距離:2,500km だったのに対し、
百式の方は、最高速度:630km/h(6,000m)、続距離:2,474km/4,000km(落下タンク装備)
という性能を誇りました。
「この最新鋭機で挑戦したら、ロンドンまで何時間で行けるかしらん」
オイラの勝手な妄想ですが、操縦桿握りながらそんなこと考えていたんじゃないでしょうか。
飯沼飛行士は12月3日に百式で羽田を立ち、各地を経由して7日にハノイ到着。
なんと偶然にも朝日航空部の全操縦士、機関士がハノイに集結しており、その夜は大宴会が催されたのでした。
翌8日、飛行場で真珠湾攻撃の報を受けます。もう「親善飛行」どころではなくなってしまいました。
ニューヨークへの飛行を誰よりも熱望していた飯沼操縦士の心中察するに余りあるものがあります。
塚越機関士は香港へ、飯沼操縦士はサイゴンへ。
これが名コンビと称された両名の今生の別れとなってしまいました。
飯沼操縦士は翌9日、参謀を同乗させてハノイ-プノンペン間往復。
11日にも再びプノンペンを訪れ、ここで地上滑走する飛行機の列の中にフラフラと入ってしまい、
そしてプロペラにはねられて事故死してしまいます。
真珠湾攻撃から3日後。享年29才でした。
A-26の計画推進に誰よりも熱心でその実現を非常に楽しみにしていただけに、
日米開戦の報を聞いてからの氏はとても寂しそうに見えた。当時の彼を知る人々はそう証言しています。
また、事故の起きたプノンペンの12月の最高気温は平均30°を超え、
当日は猛烈な蒸し暑さだったのだそうで、憔悴しきった様子だったとも伝えられています。
塚越機関士は悲報を受けた翌日遺骨を保管しているサイゴンへ、そして事故のあったプノンペンを訪れます。
日米開戦初頭に起きた国民的英雄、「世紀の鳥人」の突然の死は伏せられ、
年明けの昭和17年1月4日の紙面にて知らされたのでした。
雲上で敵弾による致命傷を受け、大量の出血が続き気を失いそうになるも懸命に飛行を続け、
帰還し重要任務を報告し終えたところで絶命したという「血染めの操縦桿」という美談として。
昭和17年(1942年)2月8日、遺骨は塚越機関士の手により帰国したのでした。
米国との有事に備えて開発中止令の出たA-26ですが、
翌年の昭和17年(1942年)6月に陸軍の長距離戦略爆撃機開発の試作機キ-77として制作が再開されました。
この年4月のドーリットル空襲がきっかけとされています。
試験飛行には塚越機関士も関わっています。
昭和18年(1943年)6月30日、 試験飛行も終わり、A-26(キ-77)は同盟国ドイツベルリンへの飛行を行うことになります。
この時の乗員の中に塚越機関士も含まれていました。
そして7月7日に昭南のカラン飛行場を離陸したのを最後に消息不明になってしまいました。
A-26の消息不明については様々な説が飛び交い、真実は未だ謎のままなのだそうです。
国威発揚という軍部の思惑と合致したからこそなのでしょうが、
思えばよくもこの時代に一民間企業が軍を動かしてこんな大きな企画を進めることができたものです。
大記録を打ち立てた「神風」号、名コンビと称された飯沼操縦士と塚越機関士。
三者とも戦争という時代の波に巻き込まれるようにして消えてしまいましたが、当時の人々に強烈な印象を残したのでした。
大海賊飛行時代ですか?( *´艸`)ほんとにそうですね。命がけの飛行だったのですね。
リンドバーグが海賊だったとは・・・・・・(*´▽`*)
by 鹿児島のこういち (2013-05-16 08:50)
飯沼操縦士の最期が悲しすぎます。
そして美談にされてしまったことも。
by Takashi (2013-05-16 22:20)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m
■鹿児島のこういちさん
ふふふ。そう。リンドバーグは実は海賊だったのですd( ̄∇ ̄*)☆\(--
■Takashiさん
戦争に翻弄されてしまいましたね。
美談の件ですが、普段は非常に物静かで温厚な塚越機関士が
軍のやり方に憤慨していたのだそうです。
それはそうですよね。
by とり (2013-05-19 06:34)