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鳥取県・酒井片桐飛行殉難碑 [├場所]

  2012年10月訪問 2021/7更新  

 

D20_0111.jpg

鳥取県‎東伯郡‎琴浦町の国道9号線「‎八橋‎駅前交差点」を南(駅方向)に進むと、すぐ右手にこんな道があります。

少し上ると、

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見づらくて申し訳ないのですが、酒井片桐飛行殉難碑があります。

碑文があります。

(全文) 昭和七年九月十五日新京ニ於テ日満議定書調印サレ、朝日新聞社ハ此調印式ノ写真ヲ迅速空輸ノ為メブスモス機ヲ特派シ此日一等飛行機操縦士酒井憲次郎操縦航空機関士片桐庄平同乗、午前十時十分新京発直線飛行ヲ以テ勇敢ナル最初ノ日本海横断ヲ決行セリ、然ルニ午後二時廿八分清津、同六時四十分隠岐島通過ノ後ノ難航ニ陥リ機ハ一旦陸岸ニ達シ山岳地帯ニ迫リシモ雲雨益晦冥如何トモスル能ハズ更ニ海上ニ轉廻シテ機ヲ窺ヒシモ風波彌険悪、遂ニ操縦ノ自由ヲ失ヒ壮烈職ニ殉ズルニ至レリ、酒井君ハ一九二八年度ノハーモントロフィーヲ贈ラレタル有数ノ熟練家ニシテ片桐君ハ大正十四年我社ヲ欧州訪問大飛行ニ参加セル四勇士ノ一人タリ、兩春ヲ以テシテ此不幸ニ會ス、當時ノ難航察スベク遺烈炳トシテ永ク世ニ照耀スルニ足ラン、茲ニ碑ヲ建テ両君ノ功績ヲ述ベテ以テ不朽ニ傳フト云爾 昭和八年九月十五日 朝日新聞社

「日満議定書調印」という広く世界にアピールすべき出来事を写真に納め、

いち早く大阪の朝日新聞社に届けようとしたのですが、同様のことを毎日新聞社も行いました。

毎日新聞がこのフィルム輸送に使用したのは当時国内最速のロッキード・アルテア機。

対する朝日新聞社は鈍足のデ・ハビランドDHプス・モス機。

毎日新聞のロッキード・アルテア機は朝日新聞のデ・ハビランドDHプス・モス機と比べて、

航続距離では2倍、速度は1.5倍という性能を誇りました。

ロッキード・アルテア機は朝鮮半島を経由する航路を取りましたが、鈍足のデ・ハビランドDHプス・モス機は

これに対抗する唯一の航路である日本海横断を決行したのでした。

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図にするとこんな感じです。

碑文に出てくる「新京発直線飛行ヲ以テ勇敢ナル最初ノ日本海横断ヲ決行セリ」という一文の裏にはこんな事情がありました。

デ・ハビランドDHプス・モス機は新京飛行場を離陸。19時30分に大阪に到着する予定でした。

ところが予定時間を過ぎても大阪飛行場に到着せず、また本土飛行経路に飛行した様子もなかったため、

日本海上に不時着水したと判断され、舞鶴海軍要港部から駆逐艦が出動し航路海面を捜索する騒ぎとなりましたが、

結局何も発見することができませんでした。

そして9日後の24日午後、現在碑の建っている八橋沖で機体の一部が発見されたのだそうです。

因みに酒井飛行士は、新千歳空港開港のきっかけを作った人物でもあります(下記リンク参照)。

新千歳との深い縁から、「新千歳市史通史編上巻」737pに酒井氏の生い立ちと、事故についての記事がありました。

以下引用させて頂きます。

酒井操縦士
酒井憲次郎は明治三十六年七月十四日、新潟県に生まれた。金津尋常小学校を経て新潟県立長岡工業学校を大正十一年三月に卒業した。その年の八月、航空局の定期航空事業の操縦士養成を目的として陸軍に生徒を依託する航空局陸軍依託第三期操縦生課程に応募し、一〇倍の難関を突破して合格した。十二月、陸軍所沢飛行学校に入校、翌年の七月に卒業した。一等飛行機操縦士技倆証明書を大正十四年に取得している。
酒井が小樽新聞社に入社したのは大正十五年八月、退社は十二月であるからわずか五ヵ月の在社であった。この間、千歳訪問飛行を実施している。
小樽新聞を退社した翌月、昭和二年一月には朝日新聞航空部に入り東西定期航空に従事した。酒井は昭和三年に国内定期航空の操縦士として飛行時間三一五時間あまり、延べ飛行距離四万五三一九㌔に達し国内最高の記録を達成した。この実績から一九二八年度のハーモン・トロフィーを受賞した。ハーモン・トロフィーは国際飛行連盟が各国のその年の最優秀操縦士に贈る栄誉あるものであった。
酒井は小樽新聞社を退社後、昭和六年八月二十四日に一度だけ北海道の空を飛んでいる。昭和二年初の大西洋無着陸横断飛行を成功させたリンドバーグがその婦人とロッキード・シリウス8連絡水上機でアラスカのノームから千島列島伝いに根室落石に到着して国民を狂喜させた時である。酒井は朝日機デ・ハビランドDH-80ブス・モス(プス・モス)通信機を操縦、根室上空でリンドバーグ機を空中取材し、着水地点の根室港に誘導、その日のうちに帰京した。

新聞空中戦と酒井の最期
飛行機を使っての取材合戦を新聞空中戦という。昭和七年九月十五日、日本は満州国を承認し日満議定書に調印その独立を認めたが、その式典の写真を日本本土に送ることで新聞空中戦が起きた。
大阪毎日新聞(大毎)は輸入したばかりの低翼引込脚で国内最速の新鋭機ロッキード・アルテア8D連絡機、朝日新聞はプス・モス通信機で対抗せざるを得なかった。大毎機の最大速度は三一七㌔、航続距離は二六〇〇㌔に対して朝日機はそれぞれ二〇四㌔、一五〇〇㌔と格段に性能が劣っていた。朝日107号・J-BBAAの操縦士が酒井憲次郎であった。満州の帝都・新京から大阪までは直線で一四〇〇㌔、速度で余裕のある大毎機は朝鮮半島を経由することにしたが、性能の劣る朝日機は処女コースである日本海横断飛行を選択せざるを得なかった。機関士は、大正十四年の訪欧機東風搭乗の片桐庄平であった。酒井、片桐ともにベテランであるが搭乗前、緊張で顔が蒼ざめるほどだったと伝えられている。酒井機は午前十一時十分新京飛行場を離陸、三時間の飛行で朝鮮北部の港町・清津を通過し日本海上空に進出、午後七時三十分に大阪飛行場に到着する予定であった。午後から山陰地方は雨となり、次第に激しくなった。予定時刻を過ぎても酒井機は到着しなかった。本土上空を飛行した様子もなく、日本海に不時着水したと判断され、舞鶴から駆逐艦が捜索に出動したが何も発見することはできなかった。二十四日になって、鳥取県東伯やばせ郡八橋町の沖で漁船が機体の一部を発見するに至って遭難が確認された。東伯郡東伯町(現・琴浦町)『東伯町誌』に酒井機遭難の記述がある。後に機の破片が八橋の海岸に打ち上げられたので、八橋沖の海中に墜落したものと見られ、同機に搭乗の酒井・片桐両飛行士の殉難碑が、日本海を見おろす八橋の城山に立てられた。新聞空中戦における初の死亡事故で、このとき酒井は二九歳だった。殉難碑は高さ九・五㍍、幅七・九㍍で昭和十二年に建立された。飛行機が両翼を広げ、尾翼を上にした墜落状でほぼ実機大。胴体に「酒井・片桐飛行殉難碑」と書かれている。朝日新聞社と八橋振興会によって慰霊祭が毎年執り行われている。城山の麓にJR西日本山陰本線八橋駅がある。無人駅舎二階の八橋ふれあいセンターに酒井機遭難の資料コーナーがある。酒井の墓碑は、ふるさとの新潟市秋葉区(旧新津市)古津の広大寺にあり、オベリスク状で陸軍大臣荒木貞夫が揮毫、「故一等飛行機操縦士酒井憲次郎之碑」と刻まれている。千歳航空協会では会長の金山政治ほか東川孝をはじめとする有志が、平成十三年に酒井・片桐飛行殉難碑を、十五年には故一等飛行機操縦士酒井憲次郎之碑を参拝し、酒井の霊を慰めた。

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碑のある丘から。

予定通りならこの上空を通過して一路大阪へ向かうはずだったのですが。。。


      鳥取県・酒井片桐飛行殉難碑      

酒井片桐飛行殉難碑 データ
設置管理者:朝日新聞社
所在地:鳥取県‎東伯郡‎琴浦町‎八橋‎
座 標:N35°30′12″E133°40′22″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1932年09月15日 酒井片桐両士遭難
       24日 八橋沖で機体の一部が発見される
1933年09月15日 碑建立

関連サイト:
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この記事の資料:
新千歳市史通史編上巻


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