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中種子町営高嶺(高嶺)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年5月訪問 2021/12更新  

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撮影年月日 1947/09/18(昭22)(USA M488 17)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

種子島の増田飛行場についてアレコレ調べている時、まったくの偶然なのですが、

現在の中種子町福祉の里に「高嶺飛行場」なるものがあった。ということを知りました。

そしてそれ以上の情報がないまま現地をお邪魔して、福祉の里の道路で「ここかなあ」などと思いながら写真を撮り、

帰りがけにたまたま立ち寄った中種子町立歴史民俗資料館では飛行場についての詳しい情報はなかったのですが、

後日送って頂いたFAXによれば、「(高嶺飛行場は)高嶺競馬場跡に滑走路を作った」とありました。

このFAXには、滑走路の長さが3回出てきます。

航空会社側が「400m滑走路を要望」したのに対し、

「450mx25m滑走路」建設が決定し、

「450mx25m滑走路」が完成。

とあります。

長さ問題はともかく、

高嶺飛行場があったのは、「高嶺競馬場跡」、尚且つ現在は「中種子町福祉の里」ということになります。

上の1947年の航空写真、中種子町福祉の里の場所なのですが、いかにも競馬場っぽい地割が残っています。

高嶺飛行場の開通記念日は1954年12月だったので、時期的にもちゃんと合ってます。

 

実は高嶺飛行場の開港年は分かっているのですが、今のところ廃港年がどう調べても出てきません。

それで関係ありそうなところからアレコレと類推しなければなりません。

高嶺飛行場は中種子町の町営飛行場だったのですが、町は飛行場が手狭になったことから、

新たに第三種空港建設計画を進めました。

この空港(旧種子島空港)は1962年7月に開港しました。

そして前述の中種子町立歴史民俗資料館から送って頂いた資料の中で、

この旧種子島空港が開港した頃と思われるタイミングで、

「旧種子島空港」のことが、「島内唯一の空の玄関」と表現されています。

どちらも中種子町が計画した飛行場/空港なので、共存は考え難いのですが、資料もそれを裏付けている形です。

つまり、高嶺飛行場は1954年12月開港。

そして遅くとも旧種子島空港が開港した1962年には廃港したことになります。

ということで、この間の航空写真に滑走路が映っているはず! と思ったのですが…

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撮影年月日 1967/10/15(昭42)(KU6711Y(1) C2 6)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

この場所の航空写真は、1947年の次は一気に1976年まで閲覧出来ず、なんと約30年の空白期が存在するのですΣ(゚Д゚;)

高嶺飛行場が廃港したのは、遅くとも1962年と考えられるのですが、それより更に5年後以降の写真しかありません。

で、その写真をよーく見ても、450mx25mの滑走路らしき地割は発見できません。

その代り、競馬場跡地を斜めに分断する道路がやけに目立っています。

この道路は、高嶺飛行場建設前には存在しなかったものです。

ということで先頭のグーグルマップは、この道路が滑走路だったと仮定して450mx25mの線を引いたものです。

(たまたま撮った場所に無理やり寄せて作図してます^^;)

現在でも競馬場の地割が微妙に残ってますね。

450mの滑走路は競馬場跡の敷地にはとても収まりきれずに大きくはみ出してしまいますが、

この競馬場を左右から挟むように南北に通る既存の主要道を滑走路が飛び出すとはちょっと考えられません。

(この道路が滑走路かも)。というオイラの仮定が正しければ、おおよそこんな感じだったのではないかと。

正確な位置をご存じの方、おられましたら是非教えて頂けると嬉しいです。

 

■「種子島空港50年の歩み」に当飛行場開設のいきさつが出ていました。

内容を要約して記させて頂きます。

昭和29年5月、南日本航空は、「飛行機による離島交通対策に真剣に取り組む必要がある」という趣旨で、

種子島に渡りました。

先ず旧海軍の増田飛行場に向かい調査を行います。

防風林を数本切れば使用はできるが、道(アクセスが悪い)。ということでココは候補から外し、

中種子町を歩き回って見つけたのが高峰競馬場跡地でした。

ここなら整備次第では申し分のない飛行場ができると踏み、当時の中種子町長と直接交渉を行い、

「自社の飛行機を乗り入れるから競馬場跡に400mの滑走路を建設して欲しい」と依頼します。

これに対し町長は、「私の一存ではいかないので、町議会に図る」と応じました。

臨時議会が招集され、中種子町は島の中心で地の利を得ているので、

必ず種子島全島民の福祉と結びつくはずだということから、全員一致で450mの滑走路建設が決まりました。

こうして町民3,100人の自主的な奉仕作業により、昭和29年12月、450mx25mの町営飛行場が完成しました。

最初に種子島から鹿児島に就航したのは昭和30年3月で、

機種はパイパートリペーサー135型こまどり号とセスナ170B型しろはと号でした。 

昭和33年3月、将来の航空事業の進展上町営高峰飛行場が手狭になり、

松原山の町有地に町民の熱意によって1年の歳月をかけ、新しく種子島空港(1,000mx30m)第一期工事として完成。

路線を不定期運航の免許が認可され、島内唯一の空の玄関として、

町営飛行場から第3種空港として認可を受けたのでした。

■「南国イカロス記 かごしま民間航空史」190p以降にも、当飛行場について出てきます。

主役は児島秀綱という人物です。

児島氏は隼人町出身で、初陣は真珠湾攻撃の艦攻乗りという経歴の持ち主です。

 佐多直大・南日本航空(株)支社長から、種子島の旧・増田海軍飛行場を調査するように、という
特命を受けたのは、昭和二十九年秋であった。チンドン仕事の行きづまりが目に見えていること
もあったけれど、飛行機による離島交通対策に真剣に取り組む必要があるのではないか、という
のが趣旨であった。
 児島機長は、さっそく船で種ヶ島にわたった。ちょうど六時間かかった。種ヶ島に住んだこと
はないけれど、妻・克子の実家が中種子島町大平なので、特別な親近感はあった。
 旧・増田海軍飛行場を見に行った。防風林の木を四、五本切れば、使えないことはない、しか
しそこへ行くまでの道が悪く、いうなれば地の利を得ていないと思った。
 ついで中種子町を歩きまわって見つけたのが、高嶺競馬場跡である。これなら整備次第で申し
分ない飛行場が出来る、と踏んだ。そこで川下・中種子町長に会い直接交渉した。
「自社の飛行機で乗り入れますから、ともかく四〇〇㍍の滑走路を一本つくって下さいませんか」
と、町長の表情に希望の色が見えるまで説得につとめた。

種子島線開設に奔走
昭和二十九年(一九五四年)秋、川下・中種子町長と会い、高嶺競馬場跡
に四〇〇㍍の滑走路を建設してほしいと頼んだ児島秀綱機長は、ようや
く川下町長に「一存ではいかないので、町議会にはかる」
 といわせることが出来た。そんな悠長なことは出来ません、なんとか臨時議会を招集していた
だけませんか、とたたみこむと、根負けした町長は二、三日まってくれと答えた。
 臨時議会が招集されたのは三日後だが、その間、児島機長は妻の実家にいて、資料つくりに専
念した。
 臨時議会では、三人の議員が飛行場設置反対を唱えた。その人たちに向かって児島機長は
「中種子は島の中心ですから、もっとも地の利を得ています。ここから鹿児島まで船だと六時間
なのに、飛行機だとわずか一時間しかかからないのです。急患輸送にも大きな力となるはずです。
いずれ大型機も乗り入れるようにしますが、ぜひとも将来のために、まげてご承知いただきたい。
必ずや種子島全島の福利と結びつくはずです」
 と説得した。説得出来るまで退かない覚悟であった。
 ようやく全員一致の賛成が得られ、町民の勤労奉仕で四〇〇㍍の滑走路建設が決まった。
 鹿児島-種子島第一便が飛んだのは、昭和三十年(一九五五年)三月であった。バイパー機の機
長はむろん児島秀綱である。
 以後、セスナ式170型、同180型も導入し、種子島線に投入した。むろんまだ定期航空路
線ではなく、チャーター(貸切)便で、採算面から見るとプラスにはならなかった。しかし児島機
長にも、南日本航空(株)幹部らにも使命感があったし、臨時議会まで招集して決議させた以上、歯
をくいしばっても継続しなければならなかった。
 ところがその年の秋、台風22号に襲われて、鴨池飛行場の格納庫の屋根が落ち、バイパー式P
A-22型トライペーサーもセスナ式170型軽飛行機も全滅してしまった。そのため、南日本航
空(株)は倒産に追いこまれた。
 種子島線が再開するのは昭和三十二年(一九五七年)二月からである。南日本航空(株)はすでにな
く、東亜航空(株)鹿児島支社としての仕事になっていた。児島秀綱機長は二月十日付で同社運航部
勤務となる。種ヶ島線再開第一便も児島機長の役割であった。飛行機は、最初はセスナ式170
型、同180型三機であったが、やがてビーチクラフト式C18S型双発機(乗員二人、乗客七人)、
デハビランド式DH104型ダブ(乗員二人、乗客八~九人)、デハビランド式DH144型ヘロン
(乗員二人、客室乗務員一人、乗客十六人)と大型化していった。
 ともあれ種子島再開後まもなく、子宮外妊娠の女性が飛行場に運ばれてきた。見ると、すで
に瞳孔(どうこう)が開いている。医療施設に恵まれない離島だから、鹿児島まで運ぶしかないわ
けだが、船で六時間では生命の保証もおぼつかない。児島機長は直ちに「緊急発進」をし、患者
の生命を救った。
 昭和三十三年(一九五八年)二月、高嶺の飛行場が手ぜまになって、松原山に新しく種子島空港
が開港したときも、児島秀綱機長はビーチクラフト式C18S型機による第一便を飛んだ。
 児島秀綱機長の離島空路開拓に賭ける情熱は、会社の幹部はもちろん、離島の人たちの心を動
かす原動力になった。
 種子島を皮切りに、喜界島、徳之島に飛行場がつくられ、ついで離島振興法によって、国と県
とが屋久島、奄美、沖永良部、与論と次々に空港を開港するようになる。その第一便は、きまっ
て児島機長が乗務するのだ。いつの間にか不文律のようになっていたのである。その間、馬にけ
られて大ケガをした人、破傷風にかかった人、と急患輸送を数え切れないほどやってきた。児島
機長にとっては、それこそ天から与えられた使命を遂行しているに過ぎない、という思いであっ
た。(中略)

 児島秀綱機長にも、ようやく五十八歳の定年を迎える日が訪れた。誕生日の前日、すなわち昭
和五十二年(一九七七年)三月十九日午後、鹿児島-奄美-喜界島間折り返しの離島便で、最後の
フライトを終えた。
 YS-11型機から降り立った児島機長を、約百人の操縦士、スチュワーデスが拍手で迎え、ス
チュワーデスから花束が贈られた。このフライトで、児島機長の総飛行時間は一万九千四百七十
一時間に達していた。
 三週間後の四月九日、中種子町公民館に百人の島民有志が集まり「児島秀綱氏を送る会」を催
した。児島機長を命の恩人だと思っている人たちも、大勢駆けつけていた。島民代表として、田
代硯市・中種子町長から次のような感謝状が贈られた。
『児島さん、あなたは離島文化の功労者です。末永くご健康で』

DSC_0078.jpg

赤マーカー地点。

福祉の里付近は現在こんな感じ。

資料によれば高嶺飛行場滑走路の幅は25mとあるのですが、現在の道路は歩道まで含めても10m程しかありません。

オイラはここが滑走路と思うのですが。。。



当記事は一連の種子島島内の飛行場記事として最後のものです。

それで、オイラの種子島の飛行場について当初感じていた素朴な疑問について、ここにまとめておきます。

種子島は、南北約58km、巾は5~10km程の細長い島です。

この小さな島に、旧海軍の増田飛行場、高嶺飛行場、安納飛行場、旧種子島空港、種子島空港と、

5つの飛行場/空港が建設されました。

飛行場適地は自ずと限られるはずで、例え一旦廃止したとしても、再びその場所が使われることが多いはずなのですが、

この規模の島に5つもの飛行場/跡地がある。というのが非常に珍しく、

どうしてこんなにたくさん、しかもバラバラに造ったんだろう。というのがオイラの素朴な疑問だったのでした。

この島に最初に建設されたのは、海軍の増田飛行場。

終戦から9年後の時期、戦後初の飛行場建設のため、真っ先に海軍飛行場跡地に赴いたのは至極自然なことと思います。

しかし建設候補地として、純粋に「飛行機の離着陸に支障がないか」の比重が大きい軍用飛行場に対し、

民間飛行場の場合、離着陸に適しているのは勿論なのですが、

果たしてここをお客さんが利用したいと思ってくれるかどうか。

ということも考えなければなりません。

利用客のアクセスがネックでボツになってしまった。

というのは、軍用飛行場と民間飛行場の相違をよく示す例だと思います。

ということで、よりアクセスの良い場所を求め、増田飛行場とは別の場所に飛行場ができました。

その後、高嶺飛行場の後を追うように安納飛行場が新たに建設されます。

島の中央部分に飛行場があるというのに、わざわざ島の北部に新たに民間飛行場が建設されたのは、

「第3種空港を我が町に導きたい。そのために先ずは補助飛行場を」という西之表町の思惑のためでした。

ここでも増田飛行場跡地はスル―されてしまいましたが、そもそも増田飛行場跡地は中種子町にありましたから、

「アクセス云々」以前に西之表町の候補地に入る訳がないのでした。

その後の新旧種子島空港がやはり別々の場所に建設されたいきさつについては、

オイラは明確な資料を何も持っていません。

より大規模な施設の適地を求めて移動したのではないかと想像するのみです。


      鹿児島県・高嶺飛行場跡地     

高嶺飛行場 データ
設置管理者:中種子町
種 別:町営飛行場
所在地:鹿児島県熊毛郡中種子町野間
座 標:N30°31′10″E130°57′15″
標 高:115m
滑走路:450m×25m
方 位:16/34?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1954年05月 南日本航空、中種子町長と直接交渉(南国イカロス記では秋)
     12月 中種子町営高嶺飛行場開通記念日
1955年03月 南日本航空鹿児島便就航(パイパートライペーサー135、セスナ170B)
      秋 台風により運用機全滅。南日本航空倒産
1957年02月 東亜航空により鹿児島便再開。セスナ170、180
1962年07月 旧種子島空港開港
1977年04月 9日「児島秀綱氏を送る会」

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
中種子町立歴史民俗資料館様から送って頂いた資料
「種子島空港50年の歩み」
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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コメント 4

種子島原人

種子島高峰飛行場の動画youtube up作成中です。
画像 記事の利用御許可くださいませ。
by 種子島原人 (2021-05-17 14:43) 

とり

■種子島原人さん
出典明記の上ご利用下さいませ。
by とり (2021-05-18 07:00) 

大木田敏明

動画に画像 記事使わせていた騙した。有り難うございます。
高峰飛行場の歴史 https://youtu.be/SLuP6dY6oE0
初代種子島空港の歴史 https://youtu.be/Ou1tIg47TMM
安納飛行場の歴史 https://youtu.be/obMkq79Pb5k
by 大木田敏明 (2021-05-23 02:47) 

とり

■大木田敏明さん
拝見しました。
ステキな動画ですね。
ご連絡ありがとうございました。
by とり (2021-05-23 07:28) 

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