新潟南秘匿(山田島、山田、善久)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2015年7月訪問 2021/12更新
撮影年月日1947/08/15(昭22)(USA M411-1 74)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
新潟市西区の山田、善久にあった陸軍秘匿飛行場。
地元では建設地の地名から、「山田島飛行場」、「山田飛行場」、「善久飛行場」と呼ばれていました。
当飛行場につきましては、KIJ-AP-BLDGさんから情報を頂きました。
KIJ-AP-BLDGさんありがとうございましたm(_ _)m
当飛行場については、地元に語り継いでいこうという意思をお持ちの方が大勢おられるようで、
書籍は勿論のこと、自治体、地元新聞等様々なメディアで取り上げられている様子がネット上でも数多くヒットします。
飛行場の規模については、様々な資料で「1,500mx300m」としています。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
これでピッタリ1,500m。
幅も凸凹してますが、これでおおよそ300mです。
当飛行場について取り上げたサイトの中には、
滑走路のあった位置について、具体的な記述や地図を載せたものもあるのですが、
その通りにグーグルアースで計測してみると、1,000m前後しかありません。
もしかすると、「主に使っていたのはこの辺り」という、
実際にヒコーキの発着をご覧になっていた方ならではの情報なのかもしれません。
滑走路の長さには離陸中断時の減速のための余地も残しておかねばならず、
仮に滑走路の端から端までいっぱいに使い切ってやっと離陸するとしたら、現代なら重大インシデントです。
飛行場敷地南側はかなり細くなってますしね。
そして当飛行場に関して様々な資料にあるのが、「正式名称は不明」という点。
これはのぶさんから頂いた情報なのですが、 「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の
陸軍飛行場一覧の中で、新潟県内の飛行場について、「小千谷、八色原(秘匿)、新潟、新潟南(秘匿)、村松」
と記されています。
この一次資料から、新潟県内に陸軍飛行場が秘匿も含めて(少なくとも)5つある事が分かる訳ですが、
この中で「新潟南(秘匿)」だけ、一体ドコにあったのか不明のままになっています。
新潟県内のそれぞれの陸軍飛行場を地図上に落としてみたのが下図です。
「山田島飛行場」=「新潟南」という仮説の元、こうしてプロットしてみると、
新潟県内の他の陸軍飛行場が中越地方までかなり広い範囲にバラけているのに対し、
山田島飛行場だけが新潟飛行場(現・新潟空港)のすぐ南(というか実際には南西ですが)に
位置していることが分かります。
この位置なら「新潟飛行場の南にある飛行場」→「新潟南飛行場」としてもおかしくないと思います。
山田島飛行場は、地元資料でも「陸軍の秘匿飛行場」と紹介されており、
この点も一次資料の陸軍飛行場:「新潟南(秘匿)」と合致しています。
ということで、山田島の正式名称は、「新潟南」である。 という前提で以下話を進めます。
KIJ-AP-BLDGさんから頂いた資料、情報を以下かいつまんで記させて頂きます。
先ずは、当飛行場建設に極めて関係のある部隊長についてご紹介します。
正式名称:陸軍航空輸送部第9飛行隊新潟派遣隊(通称 帥第3401部隊)
隊長: 米澤修中尉
この部隊は、所沢の第9飛行隊において約80名の隊員をもって設立された、夜間特攻訓練を目的とした部隊でした。
練習機を使用した夜間特攻訓練は陸軍にとって最初のものでした。
隊長は約20年のキャリアを持つベテランパイロットでしたが、
他の将校は学徒出陣の特別見習い士官で、訓練も不十分でした。
訓練は満月から月の欠ける周期を利用して実施されました。
昭和20年4月に編成、5月6日に機材が新潟到着。
米澤隊は当初新潟飛行場(現・新潟空港。当時は新潟地方航空機乗員養成所。陸軍系の乗員及び整備士養成所だった)
に駐屯し、米澤中尉が飛行場司令として離着陸管制業務に当たっていたのですが、
後から米澤隊長より2階級上の少佐の部隊が移駐してきました。
飛行場司令の座は上位者に譲ることになるにしても、
先方から何ら儀礼的な挨拶がないことが米澤中尉としては我慢ならず、
とうとう許可を得て近隣に新規飛行場を造って出て行くことになったのでした。
探し回った結果、上山田地区(現・新潟市)から黒埼村(現・黒埼町)善久にかけての信濃川右岸河川敷が適地とされ、
この場所が飛行場に造成されたのでした。
これが新潟南飛行場建設のいきさつです。
一見「感情的な対立」という理由で新規飛行場の建設が始まってしまったかのようですが、
これには航空本部がちゃんと正式に建設許可を出しており、発端はともかくとして、
実際にはもっと何か別の理由があったのではないかと思えてなりません。
以下完全にオイラの私見ですが、何かご意見ありましたら(3月以降)コメント下さいませ。
1.シーレーン防衛
両津市史に当時の新潟港について記されていました。
「新潟港は日本界屈指の港で、満鮮を対象とする唯一の貿易港であり 太平洋岸の諸港が空襲で、港としての機能を失った昭和二十年前後になると、日満航路のみならず、いろいろの船が入港して全国一の重要港となったことも米国は察していたのであろう。昭和二十年ごろの新潟港は、一日の平均荷揚げが八千トンから一万トン、その六割五分は大豆を主とする食糧、三割五分は石炭だったのである。」
当時の日本の食糧需給は、大陸からの輸入に頼っていましたが、
昭和20年3月下旬から始まった米軍による「飢餓作戦」(機雷による海上封鎖)は日増しに強まる一方であり、
米軍の機雷敷設数は、関門海峡が飛び抜けて多いのですが、これを除くと新潟港に最も多く敷設されています。
これに対抗し、日本側は6月に「日号作戦」を発動します。
これは日本海航路が完全に封鎖されてしまう前に、そして本土決戦前に、大陸側から可能な限りの食糧等を輸送する。
というものでした。
新潟港と新潟南飛行場は10kmと離れておらず、
もしかしたら日本海航路の維持のための運用が念頭にあったのかもしれないと思いました。
2.対本土決戦
本土決戦の際、連合軍は九州、そして関東に来襲するとされており、
関東の海岸線で激しい攻防戦が繰り広げられることが予想され、
日本海側の大規模秘匿飛行場の存在は、最後の切り札に成り得るかも。と思いました。
新潟南から関東の海岸線はおおよそ300km圏内なので、当時のレシプロ戦闘機なら最短30分そこそこで到達できます。
机上の計算ですが。
シーレーン防衛と、対本土決戦。
オイラが思いつくのはこの程度のことなのですが、いずれにせよ一隊長の感情のもつれだけが原因で、
特攻機の訓練のためだけにこんな大規模飛行場を、
しかもこんな逼迫した時期に新規建設許可を航空本部が出すとはオイラにはちょっと考えにくく、
他に何らかの尤もな理由があったのではないかと思います。
新潟飛行場は歴史が古く、米軍にバッチリとマークされていたのですが、新潟南は巧妙に秘匿化されており、
新潟飛行場の緊急着陸場等、補完する役割も考えられていたかもしれません。
赤マーカー地点。
国道8号線に沿って滑走路が続いていました。
新潟県・新潟南秘匿(山田島、山田、善久)飛行場跡地
終戦後飛行場造りの日当が支払われたのだそうです
新潟南秘匿(山田島、山田、善久)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:新潟県新潟市西区山田、善久
座 標:N37°51′51″E139°01′11″
標 高:4m
滑走路:1,500m×300m(不定形)
方 位:01/19
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年
6月 着工
7月 15日 地元民を動員しての大規模造成開始
8月 3日 完成
5日 一式双発機着陸
8日 飛行場開き
関連サイト:
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この記事の資料:
「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)(のぶさんから)
両津市史
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