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朝鮮・金浦国際空港(旧金浦飛行場、京城第1飛行場) [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  



無題4.png
SkyVector.com

ソウル特別市西端にある「金浦国際空港」。

今でこそインチョン空港が目立ってますが、「韓国の空港」といえば、やっぱり「金浦空港」(オイラ調べ)。

前記事でも書きましたが、「京城飛行場」は水害と障碍物で運用に難があることから、

京城周辺に新たな飛行場を建設することになりました。

サイト「京城飛行場」(下記リンク参照)によりますと、朝鮮総督府は飛行場用地として以下の条件を定めたのだそうです。
1.漢江の常時水位より10m以上の高地にある
2.恒風の関係上、将来拡張する場合北西の方向に延長できる地形である
3.京城より20Km以内の地にあり連絡道路等に便利である
4.電力・電話・水等の供給が容易である
5.飛行場周辺に障害物がない
6.人家の密集地帯ではない

そしてこの条件に従って選ばれたのが、「京城飛行場」の西北西約12kmの金浦でした。

「民間飛行場として東洋一」、「夢の金浦飛行場」と謳われたその余りに立派な規模故と思うのですが、

先輩を差し置いてこちらが「京城第1飛行場」に、そして元祖の方が「京城第2飛行場」となりました。

そして元祖の方が1971年に閉鎖されたのに対し、当飛行場は日本による統治終了後、

朝鮮戦争時は米軍からK-14という符号で使用され、空軍基地を経て現在の「金浦空港」となりました。

国の権限で選定された用地(選定された用地には十数戸の農家があった)が飛行場として申し分なく、

戦後もそのまま大規模飛行場として拡張されるというのは、

内地で散々繰り返されたことですが、ここも(建設に直接関わったのは軍じゃなくて朝鮮総督府ですけど)似たケースですね。

土地選定が1938年、着工が1940年、後述しますが水路部資料によりますと、

1942年9月に一部使用を開始しました。


上のグーグルマップは水路部の地図から作図しました。

滑走路の形は水路部地図にハッキリ出てるし、場所も「金浦空港」=「京城第1飛行場」。ということはすぐ分かりました。

ところが、では朝鮮総督府が携わった滑走路は正確にどの位置にあったか、という資料がなくて途方に暮れたのですが、

飛行場をバイパスするように西側に設けられた水路の形が水路部地図とグーグルマップとでピッタリ一致してました。

水路部の地図通りの形、縮尺で飛行場/滑走路を作図して、

完成した飛行場を試しにこの水路の位置で合わせてグーグルマップにのせてみたら、

北西~南東方向の1,200m滑走路と現行の滑走路のうち北側の1本(14L/32R)がピッタリ重なり、

南東側に張り出した地割もしっくり馴染む感じだったので、多分こんなだったと思います。

日本国内だと国土地理院の航空写真で1947年かそれ以降なら(目ぼしい地域は)ほぼ全域が網羅されていて、

閲覧可能なので、こういう昔の飛行場跡地の作図の際は非常に助かるのですが、

1940年、1950年代の朝鮮半島を網羅した航空写真というのは存在しないのでしょうか。

オイラのネットリテラシーでは現在のところ閲覧可能なサイトが見当たらず、

当時の飛行場位置の根拠である「水路の形がピッタリ」というオイラの考えが正しいのかどうか、確認できずにおります。

水路部の資料によれば、総合庁舎、大日本航空の格納庫は工事中、

南東部に飛び出している部分は拡張地区で、芝張り、道路整備の最中とのことでした。

サイト「京城飛行場」様には、

「1943年には陸軍航空隊が金浦に移ることになり、1500m滑走路の1本が1800mに延長されることとなる。」

という一文があります。

一方、水路部の資料では、最長の滑走路は北西-南東のもので、それでも1,200mしかありません。

南東方向に張り出した地割部分に北西-南東滑走路を延長すると、1,800m滑走路にしてまだ100m余裕があるので、

この飛び出し部分は、滑走路延長のための拡張。ということなんでしょうね。

1943年10月「金浦飛行場」開場。

陸軍航空隊、大日本航空は金浦飛行場に移り、朝鮮航空事業社は汝矣島飛行場に留まりました。

そして日本統治時代の終了。

前述の通り、朝鮮戦争中は重要な航空基地(K-14)として使用され、1958年までは軍用飛行場でした。

「汝矣島空港」閉鎖後は主に民間機向けの国際空港となりました。

2001年「仁川国際空港」が開港すると、同時に国際線は全て同空港へ移転したのですが

現在は日本、中国便の路線があります。


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

金浦飛行場 1047p
 汝矣島飛行場は鮮内随一の重要飛行場であるにもかかわらず、水害と障害物への対応策が得ら
れず、他に適地を求めねばならなかった経緯については前述したが、次の条件を満すところとし
て金浦を選定した。計画原図は上図の通りである。
 (1)漢江の常時水位より10m以上の高地にある。
 (2)恒風の関係上、将来拡張する場合北西の方向に延長できる地形である。
 (3)京城より20km以内の地にあり、連絡道路等に便利である。
 (4)電力、電話、水等の供給が容易である。
 (5)飛行場周辺に障害物がない。
 (6)人家の密集地帯でない。
  建設に当たり特に留意した点は
 (イ)滑走路は四条とし、滑走路の長さは最長1,500m、最短1,000mとする
 (ロ)滑走路は航空機全備重量30tに耐えられる強度を保つこと。
 (ハ)場内排水には特に配慮すること。
 (ニ)飛行場勾配並びに滑走路断面勾配は1/880より1/1000とし、でき得れば総合庁舎より場
  内が見通し得ること。
 (ホ)官庁、航空会社の事務所は総合庁舎に纏めること。
 (ヘ)滑走路と場周との距離は少なくとも100mの間隔を置くこと。
 京城付近は北漢山系の山があるので、京城-仁川間の平野地帯に限定されたが、所有面積70
万坪を確保できた。
 現地は30m乃至50mの丘陵地帯を含めた疎林と畑で、周辺は水田であった。
 家屋は十数戸の農家と数個の墓地もあった。
 設計は内務局京城土木事務所に、土地買収は京畿道に依頼したが、面積が広いので土地買収に
手間取り、現地測量、土量計算、土木設計等に相当日数がかかり、実際に工事に着手したのは昭
和15年春で一応3ヵ年継続工事とすることとし、予算はすべて逓信局で賄ったが、施工は京畿
道内務部京城土木出張所に依頼した。
 総合庁舎は官庁側(飛行場事務所、電信電話局、郵便局、気象台、税関、出入国管理、動植物
検査、警察、建設事務)と会社側(日航、満航の接客、待合室、事務室、手荷物、貨物室、食堂
等)が一ヵ所に入りかつ、水道、暖房設備等も共用することとなるので、官庁相互の予算は無論、
官民合同となると、国有財産法、管財法等の規則があり、これを纏めるのが大変であった。
 建物は地下1階・地上2階、鉄筋、煉瓦造、総坪数2,000坪の予定であったが、物資動員計画
等の関係により500坪に縮小されて昭和19年5月竣功した。
 滑走路は80m幅で東-西、南-北1,000mのもの1本宛。北西-南北1,500m、北東-西南
1,200mのもの4本を作る予定であったが、昭和18年陸軍航空隊が金浦に進出することとなり、
爆撃機編隊の離着陸の為北西-東南線は10m宛左右に簡易舗装をし長さも1,880mとなった。
 昭和15年着工したものの予算と物資が意のままにならず昭和17年の「物資統制令」により工
事の続行が困難となったが、滑走路の大半ができたので昭和18年10月より使用を開始した。一
般土木や総合庁舎などができたのは昭和19年秋から20年春にかけて一応完成したものの、当初の
計画とは相当の隔たりがあった。
 なお軍事費により軍兵舎防空施設等も建設された。
 工事遂行に当たっては前述の基本的な制約のほか、個々に亙り支障続出して非常に困難な工事
であったが、総督府の各局その他関係者の積極的な協力を得て完成することができた。施工に当
たり要点を述べると、
 1)現在のように土木機械が発達していなかったので人海作戦によったが、京畿道では「報国
 青年隊」を結成して1ヵ月交替で参加した。
 2)場内排水には特に留意し、ターミナルを最高として貝殻状のコンタを作り、各盲暗渠、滑
 走路に沿う主幹排水溝に集めた他場面に降った瞬間降雨がノリを破壊しないよう場周に集中溝、
 遊水池を設け、これを200m間隔でコンクリート管に集め場外の排水溝に纏め、最後は漢江に
 放流する勾配をつけた。滑走路は切土に設けられ、場周には幅4mの場周道路が設けられた。
 3)飛行場と京城の間は16.7kmあったが内4kmは漢江堤防を通らねばならなかったので、
 特例として堤防上を公共道路とし、幅員も6m幅の2車線として舗装し、しかも国道に指定した。

■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」

の情報を以下引用させて頂きました。 

第7 京城第1飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮京畿道金浦郡陽西面松亭里。
   (京城府の西方約22粁、北緯37°33′0、東経126°47′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約17米。
広さ及形状
 本場は長さ東西1,500米、南北1,200米及北西-南東2,100米(総面積22.6萬平方米)の略正方形地域なり。
 着陸地域は長さ南北850米、東西900米、北西-南東1,200米及北東-南西1,150米、
 幅各80米の4條の舗装滑走路を使用するを原則とす(付図参照)。
地表の土質
 粘土混り眞砂土。
地面の状況
 滑走路は「アスファルト」乳剤舗装にして日射及季節に因る影響なき平坦且堅硬地なり・
 北側格納庫前に長さ東西458米、幅南北100米の「コンクリート」舗装の整備場あり・
 滑走路以外の地域は概ね整地せる平坦地なるも北側の建物敷地を中心とし南方に向け
 放射状の下り傾斜(1/200)を為す・一面に張芝を施せるも設置後日尚浅き為育成十分ならず且地盤稍軟弱なり・
 排水施設は滑走路側溝及場周に排水溝あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 滑走路方向・無風時は北西又は南東。
離着陸上注意すべき点
 滑走路以外は地盤軟弱為るを以て着陸せざるを可とす。
施設
格納庫及総合庁舎は目下建築中なり・仮事務所内に逓信局出張所、大日本航空株式会社支所・油庫・修理工場・
羅針盤修正台・飛行機計量機あり。
昼間標識 吹流1・境界標識あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
丘陵
 本場は漢江左岸より内方約4.5粁の台地上に在り、西及東方は富平水利組合の灌漑地にして
 極めて広濶なる水田地帯なり・北北東方約3粁に高さ131米の開花山あり平地に屹立するを以て遠望極めて顕著なり・
 南及南東方は稍高き丘陵性台地なるも南進するに従い次第に標高発達せる山地となり遠く高嶺連互す。
樹林
 周囲の丘陵上に樹林あるも障碍となる程度ならず。
河川
 北東方約4.5粁に略北西流する漢江あり付近に於ける唯一の大河にして本場付近は河幅約800米に達し
 帆船の航行極めて頻繁なり、
 (中略)
其の他
本場は昭和17年9月一部使用を開始したるものにして正方形部分の整地及滑走路は完成せるも、
南東部の拡張地区の張芝及連絡道路等は目下工事中にして総合庁舎及大日本航空株式会社所属格納庫
(鉄骨造、間口54米、奥行58米)は目下建設中なり・大日本航空株式会社経営の定期航空路(東京-大連及新京)
の寄港地にして毎日上下3往復の定期旅客機発着す。




     朝鮮・金浦国際空港(旧金浦飛行場、京城第1飛行場)  


・京城第1飛行場 データ(昭和18年4月)
管理者:朝鮮総督府逓信局
位 置:朝鮮京畿道金浦郡陽西面松亭里(京城府の西方約22km)
座 標:N37°33′00″E126°47′00″
種 別:公共用陸上飛行場
標 高:17m
面 積:226,000㎡
広 さ:東西1,500m、南北1,200m、北西-南東2,100m
滑走路:850mx80m(18/36)、900mx80m(09/27)、1,200mx80m(14/32)、1,150mx80m(05/23)
・金浦国際空港 データ(現在)
所有者:国土交通省
運営者:韓国空港公社
空港種別:公共用飛行場
所在地:ソウル特別市江西区果海洞274
座 標:N37°33′29″E126°47′29″
3レター:GMP
4レター:RKSS
運用時間:06:00〜23:00
標 高:18m
滑走路:3,600×45(14L/32R)アスファルト、3,200×60(14R/32L)アスファルト

沿革
1938年    京城飛行場に代わる新たな候補地が金浦に決定
1940年    着工
1942年09月 一部使用開始。当時大日本航空の定期航便(東京-大連、新京)毎日3往復していた
1943年10月 金浦飛行場開場
1945年    終戦。朝鮮戦争中には航空基地となる
1958年    国際空港として運用開始
1971年    汝矣島空港閉鎖に伴い国内線就航
2001年    仁川国際空港開港に伴い国際線は全て同空港へ移転
2002年    日韓サッカーワールドカップを機に、期間限定のチャーター便開設
2003年11月 30日、羽田~金浦が“定期チャーター便”として運航開始
2010年10月 31日、羽田~金浦が“定期チャーター便”から定期便化

関連サイト:
公式サイト  
京城飛行場(リンク切れ)  
Wiki/金浦国際空港 

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」


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朝鮮・京城第2(汝矣島、京城)飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  





ソウル特別市汝矣島。

政治、経済の中心であり、諸施設が整然と並び、大規模な公園が整備されたこの島は、

かつてはポプラやアカシヤといった樹林地帯で、度々水害に悩まされる場所で、

大戦前にはここに「京城第2飛行場」がありました。

汝矣島にあることから「汝矣島飛行場」とも呼ばれました。

「第2」の名の通り「第1」もあるのですが、当飛行場が元祖「京城飛行場」であり、後述しますが、

後に京城の別の場所に完成した「東洋一」とも謳われる規模の飛行場が「京城第1飛行場」となり、

当飛行場は「京城第2飛行場」となりました。

戦後は国際空港、空軍基地となったのですが、1971年には飛行場が閉鎖され、開発が始まりました。

いろいろ当時の島の画像を検索すると、島を東西に方向に大きく滑走路が横たわっており、その南側に誘導路、

諸施設のエリアが見えます。

韓国語版Wiki:「汝矣島空港」によりますと、飛行場跡地開発の際、

「既存の滑走路の位置に5・16広場(ヨイド広場)を作ったのは、有事の際に滑走路に書き込むことができようにするためだったという」

とありました。

加えて概要の項目では、

「汝矣島は、元の不毛の地であり、軍事訓練場で使われたりもした。日本は表面上、民間航路開設に使用するという名分を掲げたが、実際には中国大陸侵略の橋頭堡として、韓半島に有事の際に使用飛行場が必要だったので、汝矣島に飛行場を作った。」

のだそうです(Google翻訳)。

島の中央を貫く公園には「空軍創軍60年記念塔」があり、

グーグルアースで見ると、滑走路のミニチュアと共にC-47が展示してあるのが見えます

(2018年6月16日までの展示らしい)。

韓国のサイトを見てみると、「歴史の中に消えた空港」とか、「韓国初の空港は、なんと汝矣島にあったのです!!」

的なサイトが散見されました。

島から飛行場としての機能がなくなって50年近い歳月が流れ、

冒頭にも記しましたが現在は国の政治、経済の中心地として大きく変貌を遂げましたから、

地元の方にとってもそんな感覚なんですね。

「実は丸の内にはかつて国際空港があった」。みたいな感じなんでしょうか。
 

この飛行場については、ここまでしばしば引用させて頂いているサイト「京城飛行場」(下記リンク参照)の中で、

非常に詳細な資料がありますので、興味のある方はそちらをご覧くださいませ。

以下、同サイト様にある内容を抜粋させていただきます。

元々汝矣島は陸軍の練兵場として使用されており、1916年からその一画を簡易着陸場として使い始めました。


また、1925年にはこんな出来事もありました。


■朝鮮交通史 1038p

 飛行第6連隊にいた西尾三郎大尉は大正14年12月汝矣島に資本金3万円で朝鮮航空研究所を
創設、格納庫を建設、サルムソン1機で飛行訓練や清津沖での魚群探見飛行等を実施し、昭和4
年3月に株式会社に改組し躍進を期したが、当時の奨励金程度の援助では経営を維持することが
できず、ついに閉鎖した。


■朝鮮交通史 1039p
朝鮮航空事業社
 日本で1等操縦士になっていた慎鏞項は藤田武明、金東栄と計り、昭和3年5月5日朝鮮飛行学
校を創設、京城飛行場に格納庫及び事務所を建設、アンリヨ1機、サルムソン2機で乗員養成と
各地への試験飛行を開始し、次第に航空産業へと手を伸ばし、昭和11年9月には朝鮮航空事業
(株)に改組、魚群探見飛行に大成功し、昭和13年には京城←→光州線の定期航空を開始し、他方
航空機製造業にも乗り出す等、朝鮮航空開発のために大活躍した。主な業績は、次の通り。
 (イ)昭和4年京城-咸興-羅南、京城-郡山-木浦、新義州-中江鎮間。昭和6年京城-大邱、
京城-中江鎮、京城-清津間。昭和8年京城-咸興、新義州-中江鎮、京城-木浦間。昭和9年
新義州-中江鎮間の試験飛行をサルムソン機で各地の気象状況調査を主目的とする試験飛行を行
なった。
 (ロ)昭和9年10月、5日間に亙る期間定期航空開発のための試験飛行をサルムソン機により
実施した。京城-新義州-羅南-咸興間、咸興-蔚山-光州間、光州-大邱-京城間、であった
が冬期であり、特に北朝鮮地区の悪気流に悩まされたが、総距離2,200粁を無事翔破した。
 (ハ)昭和13年京城-裡里-光州間定期航空を開始した。
 (ニ)昭和11年より清津付近の魚群探見飛行を開始した。当時北朝鮮沿岸には鰯の大群を発見
するため、清津、咸興、江陵各漁業組合より魚群探見飛行の実施方の要望があったので、当局と
しては飛行機離着陸場を整備する一方、朝鮮飛行学校に白羽の矢を立てた。飛行学校では当初サ
ルムソン機に魚視を乗せ飛行し、魚群を発見すると通信筒で付近の漁船に連絡する方法をとった
が、さらに効果を上げるため後年では瓦斯電機を使用したが、これは大成功で、一時清津付近の
海岸は鰯で埋めつくされるような盛況を示した。

そして1929年、京城飛行場が開場。

日本航空輸送株式会社が週3往復の定期郵便輸送を開始しました。


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

京城(汝矣島)飛行場 1044p
 漢江の河川敷地で陸軍練兵場となっていた汝矣島の一部を、昭和3年より飛行場として使用し
た。
 汝矣島は平坦な草原地であるが750m対600mを滑走地域として整地し、中央に幅25m長さ
600mのコンクリート滑走路を作り周辺には航空照明灯を取付けた。建物としては逓信局事務所
(飛行場、税関、気象、通信関係同居)1棟、日航事務所、格納庫、小修理工場各1棟、朝鮮航
空研究場格納庫1棟、朝鮮航空事業者事務所、格納庫各1棟があった。
 同所は漢江の中州であり、いったん増水すると洪水の真中に取残され、離れ小島となってしま
い、年に数回はこの洪水に見舞われた。数年に1回は長期間使用不能となることがあった。同飛
行場の欠陥としてはこのほかに漢江に架設されていた人道橋、鉄道橋が2,000mの近くにあり飛
行機の離着陸に障害となっていた。飛行機が大型化、高速化するに従い、他の適地に移転せざる
を得なくなり、金浦飛行場が新設されたが、終戦時まで第2京城飛行場として小型機の離着陸及
び防空用として使用された。

当時の雑誌、新聞が盛大な開場式の様子を伝えています。

こうして定期路線の運用が始まったのですが、

汝矣島は漢江の氾濫によって年に数回の水害が発生し、漢江にかかる鉄道橋が離発着の障害となりました。

この障害物のせいで滑走路の延長もできないため、

朝鮮総督府は京城付近に将来の拡張も可能な飛行場を新たに建設することにしました。

こうして1938年に金浦の地が選定され、この頃から金浦飛行場を「第一京城飛行場」、

汝矣島飛行場を「第二京城飛行場」とも呼ぶようになりました。

当初の計画では、1,500m滑走路2本、1,200m滑走路2本、1,000m滑走路2本の、計6本を予定していおり、

民間用飛行場としては、東洋一の規模で、当時の関係者は「夢の金浦飛行場」と呼んでいたのだそうです。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 750  600


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-京城間 毎日一往復
   京城-奉天間 毎日一往復
   奉天-新京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-大連
区間 京城-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 京城-清津
区間 京城-咸興間 毎日一往復
   咸興-清津間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月


■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  京城飛行場
経営者  國
所在地  朝鮮京畿道□□郡□江面汝矣島
水陸の別 陸
滑走区域 東西六〇〇米 南北六〇〇米
備 考  (記載無し)



1943年金浦飛行場開場。

陸軍、大日本航空は金浦飛行場に移り、朝鮮航空事業社は汝矣島飛行場に留まりました。

そして終戦。

GHQによって飛行が一切禁止されたのは日本国内だけの話かと思っていたのですが、朝鮮もそうでした。

ところがこのGHQの命令を知らなかったらしく、朝鮮航空事業社の整備士が練習機の胴体に赤と青の大極旗を描き入れ、

祖国解放を祝福する意味で永登浦の上空を一周しました。

直後に駆け付けた米軍のMPから散々怒られた挙句、練習機の焼却を命られてしまったのですが、

同サイト内の「京城飛行場小史」は次のように結ばれています。

それでも、大極旗が朝鮮の空に飛び立ったことには違いはない。
朝鮮の航空は1913年から始まった。日本が朝鮮を併合してからの出来事である。
しかしこの時を以って、朝鮮の空は朝鮮の人々の手に戻ったと言えるのかも知れない。

Wikiによれば、戦後の1953年、当飛行場は国際空港となりました。

1958年に民間便は金浦国際空港に移転し、

1971年にソウル空軍基地が設置されるまで空軍基地として利用されたのだそうです。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」の中で、

当飛行場についての詳細な資料と図がありました。

先頭のグーグルマップは、同資料の図を元に作成したものですが、明確な起点となるものがほとんどなくて、

「こんな感じかなあ」という程度のものです。

ご了承くださいませ。

サイト「京城飛行場」には、昭和十二年四月の同飛行場の地図が添付されているのですが、

滑走路は同じに見えるのですが、飛行場敷地は滑走路ギリギリまで迫っており、ほぼ正方形です。

昭和18年の水路部の地図では正方形からいろいろはみ出ていますから、

元々正方形だった敷地がその後拡張していったようです。

以下水路部資料を一部引用させて頂きます。

第6 京城第2飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮京畿道京城府汝矣島町。
   (京城府の南西方7粁、北緯37°31′0、東経126°55′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約10米。
広さ及形状
 本場は長さ東西900米、幅北東-南西730米の略四辺形地域なり
 着陸地域は概ね図示の東西及北東-南西方向の滑走路を適当と認むるも風向等に依りては
 場端より内方50米以内の全地域を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 泥及粘土を混ずる砂礫。
地面の状況
 滑走路は「コンクリート」舗装にして長さ東西540米及北東-南西400米、幅各15米の2條あり・
 両滑走路の交会部に羅針儀修正盤あり・
 東西方向滑走路の西端より格納庫前に至る誘導滑走路(「コンクリート」舗装)あり・
 滑走路以外の地域は殆ど全面に芝及雑草密生す・
 排水概ね良好にして乾燥速なるも降雨直後又は解氷期には地表稍軟弱と為る・
 漢江氾濫の際は河水侵入し地表泥濘と為り且処々に不整地を生ず。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 東又は西及北東又は南西。
施設
格納庫
(1)大日本航空株式会社所属3(間口30米、奥行35米、高さ6米、間口30米、奥行25米、
 高さ6米及間口40米、奥行50米、高さ8米各1)あるも逐次取設第1飛行場に移動中なり。
(2)朝鮮航空事業社所属2(間口18米、奥行26米、高さ4米及間口18米、奥行15米、高さ4米各1)。
(3)大日本飛行協会所属1(間口15米、奥行15米、高さ5米)
 朝鮮航空事業社事務所・油庫・発動機試運転場・修理工場、羅針盤修正台及飛行機計量機等あり。
昼間標識 吹流信号柱1・境界標識等あり。
夜間標識 着陸照明燈1あり。

周囲の状況
高地
 本場の所在地たる汝矣島は京城府の南西部即ち漢江南岸の沖積土にして地貌概ね広濶なるも
 北西方約1.2粁に場面よりの高さ約30米の丘陵性高地(汝矣山)あり。
樹林
 北方約600米に高さ10米、東方700米に高さ10米の「ポプラ」樹林地帯あり・
 旧飛行場事務所北方一帯は高さ約6-10米の「アカシヤ」樹林地帯なり。
(中略)
其の他
本場は昭和4年朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして
爾來大日本航空株式会社経営の定期航空路(東京-大連及新京線)の寄航地として使用し来れる
も昭和17年9月本場の北西方約12粁に京城第1飛行場新設後は同場を定期航
空路の発着場として使用し本場は其の補助施設として使用せられつつあり。



■朝鮮交通史 1032p

昭和4年、発足した日本航空輸送株式会社による定期輸送開始

この頃の朝鮮関係旅客運賃表が載せられていました。

京城-東京 90円 (急行)105円
京城-名古屋 73円
京城-大阪 63円
京城-福岡 35円
京城-大邱 14円
京城-平壌 12円
京城-新義州 22円
京城-大連 40円 (急行)45円
京城-奉天 (急行)44円
京城-新京 (急行)65円
京城-咸興 18円
京城-清津 36円


■朝鮮交通史 1033p
表2 鮮内飛行場利用状況より:京城飛行場

    昭和4年度 昭和5年度 昭和6年度 昭和7年度 昭和8年度
航空機
到 着
出 発
235
239
558
552
604
604
612
617
598
596
旅 客
到 着
通 過
出 発
239
42
235
1,057
133
1,009
 819
243
746
 992
499
965
 1,080
699
1,005
貨 物
  kg
到 着
通 過
出 発
175.20
97.70
314.20
594.73
44.13
453.48
 5,158.28
424.21
2,223.48
 1,344.54
2,319.37
1,436.22
 463.76
2,514.96
685.45
郵便物
  kg
到 着
通 過
出 発
304.60
550.90
246.70
2,893.18
722.09
2,467.25
 5,017.50
1,651.15
3,587.17
 10,993.79
3,676.07
8,589.44
 21,635.93
22,248.42
15,435.60
不定期
航空機
到 着
出 発
338
337
397
390
 141
135
 78
72
 75
80

 

■朝鮮交通史 1034p

昭和6年鮮満間航空乗り入れ協定が締結され、
昭和12年満航の新京-新義州、新京-京城乗入れが開始された。
(満航=満洲航空株式会社)

京城-北京 京城-青島線
これより先、日本と大陸を結ぶ緊急連絡航空路の一環として
総督府では昭和12年6月より京城-大連-北京線、昭和13年には京城-青島
線を予算外契約の命令航路を開始した予算額は、次の通りであった。

京城-大連-北京線 補助金

年度 補助金(円)
12 125,000
13 135,000
14 130,000
15 120,000
16 120,000
17 73,000
703,000



京城-青島線 補助金

年度 補助金(円)
13 175,000
14 280,000
15 275,000
16 265,000
17 255,000
18 250,000
19 225,000
1,625,000


大邱-福岡線
朝鮮海峡が敵潜水艦に蹂躙され、海上航行が不安となったので、
航空機に依る連絡の必要性を認め朝鮮と日本を最短距離である
大邱-福岡間に定期航空便を開設することとなり
昭和19年4月より毎日2往復の運航を開始したがさらに毎日3往復に
増便した。補助金は、次の通り要求してある。

京城(ママ)-福岡線 補助金
19年度補助金 1,305,000円
20年度補助金 1,417,000円

■朝鮮交通史 1035p

京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業者による京城-光州線があ
った。
 全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業者をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
 昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。


     朝鮮・京城第2(汝矣島、京城)飛行場跡地     

京城第2(汝矣島、京城)飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:ソウル特別市 永登浦区 汝矣島洞
座 標:N37°31′21″E126°55′24″(Wiki:汝矣島空港によれば、北緯37°31 '33 "東経126°55' 19")
標 高:38m
滑走路:540mx15m(09/27)、400mx15m(04/22)
     (Wiki:汝矣島空港によれば、1,969mx600m)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1916年03月 陸軍練兵場一画を簡易着陸場として使用し始める
1917年05月 アート・スミスによる曲芸飛行。ソウル市民20万人のうち約5万人が汝矣島飛行場に集まる
1922年12月 10日 韓国初の飛行士安昌男が試験飛行
1925年12月 西尾三郎大尉、朝鮮航空研究所創設。飛行訓練や清津沖での魚群探見飛行等を実施
1927年06月 内地・朝鮮・台湾を同一法域とする航空法施行
1928年05月 5日 慎鏞項、朝鮮飛行学校創設
1929年03月 西尾三郎大尉の朝鮮航空研究所、株式会社に改組するも経営を維持できず、その後閉鎖
     04月 1日 京城飛行場開場。定期輸送開始
     09月 10日 東京・大連間、週3往復の定期旅客輸送開始
1931年    夜間照明、無線電信設備、滑走路構築、連絡道路改築、航空気象観測所等整備
1931年    日本航空輸送株式会社と朝日新聞社、京城-龍井村間の試験飛行
1931年    鮮満間航空乗り入れ協定締結
1936年03月 7日 格納庫、海軍機6機、日本航空輸送会社所有2機焼失
     10月 13日 慎鏞項氏経営の朝鮮航空事業社、京城-裡里間にて週1往復の試験飛行実施
       同年、慎鏞瑣氏、京城-裡里郵便連絡飛行実施(上の試験飛行と区別つかず…)
1937年    日本航空輸送株式会社、京城-大連間開設。満航、新京-京城乗入れ開始
1938年夏   金浦が京城の新たな飛行場適地として選定される
     05月 朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間週2往復の定期航空を開始
     10月 京城-咸興-清津線を開設
       総督府、日本と大陸を結ぶ緊急連絡航空路の一環として京城-青島線の命令航路開始
1939年    満州航空会社、京城-新京間開設
       朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間定期航空が月水金の週3往復になる
1940年    工事着手。1941年完成の予定だったが、対米開戦により資材が不足し計画が遅れる
1941年    民間航空機の座席が軍に借り上げられ、一般乗客向けには休航となる
1942年    朝鮮航空事業社の京城-裡里-光州間定期航空はこの年まで続いた
1943年10月 金浦飛行場開場
1944年04月 海上航行が不安となったため、福岡との定期航空便開設。毎日2往復、後に毎日3往復
1945年08月 15日 終戦。25日、GHQによる飛行禁止令
     09月 25日 胴体に赤と青の大極旗を描き入れた練習機が永登浦の上空を飛ぶ
19535年   国際空港となる
1958年01月 民間便は金浦国際空港に移転。空軍基地として利用
1971年02月 空軍は新設のソウル空軍基地に移管。飛行場閉鎖

関連サイト:
京城飛行場(リンク切れ)  
Wiki/여의도공항  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」  


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朝鮮・江陵飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  




無題2.png
SkyVector.com

韓国東岸、江原道江陵市にある江陵(カンヌン)飛行場。

2,743m×46mの舗装滑走路1本を有する韓国空軍の飛行場です。

元々は民間との共用飛行場だったのですが、2002年4月、北北西約42kmに襄陽国際空港が開港し、

当飛行場は軍用となりました。

当飛行場と日本との関連としては(オイラが検索した限りでは)、

当飛行場を離陸した大韓航空のYS-11がハイジャックされた「大韓航空機YS-11ハイジャック事件」、

大韓航空が福岡空港へのチャーター便を運航していたことが挙げられます。

ですがこれだけではなく、この飛行場のルーツを辿っていくと、日本とのもっと深い関わりがありました。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

飛行場名 江陵(不時着場)
所在地  江原道江陵郡城徳面
滑走地帯(東西・南北)m 900  800

■防衛研究所収蔵資料
A:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
B:「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

の2つに当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

飛行場の位置、滑走路との位置関係、縦横比等、不明確な部分が多々あるのですが、

現在手元にある情報ではこれが精一杯でした。

おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。


以下、資料Aの情報を引用させて頂きます。

第5 江陵飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮江原道江陵郡城徳面。
   (江陵邑の東方約5粁、北緯37°45′0、東経128°57′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約7米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西960米、幅300米及長さ北西-南東790米、幅500米の略十字型地域なり。
 着陸地域は長さ北東-南西585米、幅40米の舗装滑走路を最適と認むるも
 其の他の芝敷地区を使用するも支障なし。(付図参照)。
地表の土質
 砂混り粘土。
地面の状況
 滑走路は砕石「マカダム」舗装にして日射及降雨に因る影響なく平坦且堅硬なり・
 其の他の地域は整地の上転圧しあるを以て地盤は概ね堅硬なり・
 一面に良好なる芝及雑草密生す・排水概ね良好なるも降雨後東及南東側の一部に稍軟弱と為る箇所あり・
 場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
 南西側に高さ10米の格納庫あり。
適当なる離着陸方向
 北東又は南西(滑走路方向)。
着陸上注意すべき点
 東側周囲(滑走路方向)に在る高さ1米の堤防は大型機の離着陸上稍障碍と為るを以て注意を要す。
施設
 朝鮮総督府及大日本飛行協会所属格納庫(間口16米、奥行16米、軒高4米)1、
 他に陸軍所属格納庫(50平方米)1・油庫1(陸軍所属)・陸軍假事務所兼倉庫1棟あり。

周囲の状況
山岳及丘陵
 本場は海岸より内方約1粁の?石川の流域に在り、周囲は概ね水田なり・
 東及南西方の河流方向は地貌概ね平坦なるも西方及南方は何れも低き丘陵地帯なり、
 之等の丘陵は内陸に向け次第に発達し約10粁にして高さ800米内外の山岳地帯と為る。
樹林
 南西及東側周囲に松林あるも何れも丈低く障碍となる程度ならず。
堤防
 場の東側周囲に高さ1米の堤防あり。
河川
 北西端に沿ひ南西流する烏山川あり。
河川及湖沼
 本場は?石川及同河の支流に依り形成せる三角地帯の中央に位す即ち西側付近を北流する本流あり、
 東側に同河の支流北流す、此の2川は場の北方約500米に於て合流し日本海に注ぐ、
 何れも小河川にして舟艇の運航なし
・北東方約200米付近の砂浜に大小湖沼3あり顕著なる目標なり。

資料Bにも以下情報がありました。

位置 江原道江陵郡
積量 記載無し
地表の状況 地盤堅硬にして概ね常時使用す
周囲の状況 記載無し
天候気象の交感 記載無し
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
営外者住宅関係 記載無し
飛行場補修費 記載無し
其の他 大出水時稀に浸水することありと云う


ということで、いつ建設されたかについての記載はないのですが、少なくとも昭和18年当時には、

朝鮮総督府逓信局管理の飛行場であり、施設の項目からすると、

朝鮮総督府、大日本飛行協会、陸軍の三者が使用するある程度の規模の飛行場だったことが窺えます。

また、サイト「京城飛行場小史」(下記リンク参照)の中で、

「朝鮮総督府の命令により、朝鮮航空研究所は1929年9月から朝鮮内の航空路の試験飛行を実施した。」とあり、

7路線の中に、「京城・江陵間(1930年10月)」と記され、当飛行場が含まれています。

結局当飛行場からの路線は試験のみで実現は叶わなかったのですが、路線開設の動きはあったのですね。

「朝鮮航空研究所」とは、同サイトによりますと、朝鮮半島初登録の民間航空事業団体で、

設立は1925年12月、創立者は日本陸軍予備役大尉の西尾三郎でした。

そして、水路部資料では1943年までしか遡れなかった当飛行場の歴史ですが、

このサイト様から、少なくとも1930年には存在していたことが分かります。

当飛行場はいつ、どんな目的で建設されたのか、

韓国のサイトを幾つか閲覧してみたのですが、得られた情報は、

1949年2月、小型機によるソウル便開設

1951年10月、朝鮮戦争時に米軍機が展開

ということのみで、大戦中のこと、特に日本が関わっていたことについて触れているサイトは発見できませんでした。

後日別記事でアップしますが、朝鮮戦争当時、当飛行場は米軍から"K-18"という識別符号が付けられていました。

サイトによっては、「当飛行場の歴史は50年前まで遡り…」的な記述もあり、

韓国人が主体となって当飛行場を運用してからの歴史という意味では確かにその位なのかもしれないですが、

実際には(2017年現在で)少なくとも90年近く前から存在する飛行場です。

「行ってみた」的な個人サイトは多数あり、「軍用になったので中に入れなくて残念」。という内容が多かったです。




     朝鮮・江陵飛行場跡地      

・江陵飛行場 データ(昭和18年4月時点)
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮江原道江陵郡城徳面(江陵邑の東方約5km)
座 標:北緯37°45′0、東経128°57′0
標 高:7m
滑走路:585mx40m
方 位:06/24

・江陵飛行場 データ(現在)
設置管理者:大韓民国空軍
運用時間:24時間
空港種別:軍用
所在地:朝鮮江原道江陵市
座 標:N37°45′12″E128°56′37″
標 高:11m
滑走路:2,743×46   コンクリート
方 位:08/26 

沿革
1930年10月 試験飛行実施
1943年    当時、朝鮮総督府逓信局管理の飛行場だった
1949年02月 小型機によるソウル便開設
1951年10月 朝鮮戦争時に米軍機が展開
2002年04月 襄陽国際空港開港に伴い、軍用空港になる

関連サイト:
京城飛行場小史(リンク切れ) 
Wiki/강릉비행장(江陵飛行場)  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮・烏山飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新   




朝鮮京畿道烏山市 烏山川左岸河川敷にあった「烏山飛行場」。

朝鮮総督府逓信局管理の公共用陸上飛行場で、定期航空路の不時着陸場として造られました。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました(所在地が微妙に違う)。

飛行場名 烏山(不時着場)
所在地  京畿道水原郡城古面烏山里
滑走地帯(東西・南北)m 450  --

後述しますが、防衛研究所収蔵資料

A「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
B「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの2つの要図をミックスして作図しました。

資料Bは1/10,000の要図で、主恒風南風、飛行地区 800x320/125 と書き込みがありました。

京釜本線、烏山川、滑走路すぐ南側の道路と、当時の地形がほぼそのまま残っており、

位置特定は非常に楽でした。

飛行場跡地は現在烏山総合運動場、烏山文化芸術会館、烏山保健所等になっています。


資料Aから当飛行場についての部分を以下引用させて頂きます。

第4 烏山飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮京畿道水原郡城湖面烏山里、烏山川左岸。
   (烏山里の北東方約700米、北緯37°9′0、東経127°6′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約20米。
広さ及形状
 本場は総面積16.3萬平方米にして整地地域は長さ北東-南西800米、幅北西-南東平均185米の略長方形地域なり。
 着陸地域は概ね図示の長さ北東-南西650米、幅約100米の狭長なる芝敷滑走地区を最適とす。(付図参照)。
地表の土質
 泥土を若干混ずる砂地。
地面の状況
 場内は殆ど一面に芝及雑草密生し凸凹起伏なき平坦地なり・地盤は概ね堅硬にして降雨後の排水良好なり・
 河川氾濫の際は本地域一帯浸水することあるも砂地なるを以て減水後の乾燥速なり・
 解氷期は地表稍軟弱となることあり・場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北東又は南西。
着陸上注意すべき点
 着陸地域狭小にして而も南東側に近く堤防を控ふるを以て極力着陸速力を低減し
 河川と堤防との略中央部に着陸する如く努むるを要す。
施設
 格納庫なし。
昼間標識 吹流1・場周境界標識あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 本場は烏山里村落の北東隣に位し同村落北側を南西流する烏山川の東岸河原に在り
 河流に沿ふ地域は地貌概ね開濶なるも其の他は一般に山地にして山岳連互す。
樹林
 本場の南西方付近及北方烏山川の對岸に何れも高さ15米の「ポプラ」樹林
存在す。
堤防
 場の南東側に沿ひ高さ4米の堤防あり。
河川
 北西端に沿ひ南西流する烏山川あり。
建築物
 南西端に隣接して高さ約8米の2階建市場あり。
著目標
 京釜本線、烏山川、烏山里村落。
(中略)
其の他
本場は元河川敷の自然の原野なりしも嘗て陸軍機2,3囘、民間機1囘無事不時着陸せしことあり又陸軍機同時に5,6機飛来離着陸せしことある良好なる着陸場たるに鑑み最近朝鮮総督府にて拡張整地工事を行ひ定期航空路の不時着陸場として使用する目的を以て施設せしものなり。


資料Bにも以下の通り情報がありました。

位置 朝鮮京畿道 原郡城湖面烏山里
地表の状況 土質は砂質粘土地にして東側約二〇〇米を除き芝密生
      す地盤堅固なり



     朝鮮・烏山飛行場跡地     
烏山飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮京畿道烏山市烏山洞烏山川左岸河川敷
座 標:N37°09′30″E127°04′33″
標 高:22m
飛行地区:800mx320m/125m
滑走路:650mx100m
方 位:05/23
(座標、標高、方位はグーグルアースから)


この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮・大田飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新  





朝鮮大田広域市にあった「大田飛行場」。

もっぱら陸軍で使用されたとするサイト様もあるのですが、

(少なくとも昭和18年4月に水路部が調べた時点の)資料では、

「朝鮮総督府逓信局管理の公共用陸上飛行場」として紹介されています。

上のマップは、水路部資料と図を元に作図したのですが、とっかかりがほとんどなくて、位置は非常に大雑把です。

ご了承くださいませ。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

の中から当飛行場についての資料を一部引用させて頂きます。

第3 大田飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮忠清南道大徳郡柳川面炭坊里。
   (大田府の北西方約6粁、北緯36°21′0、東経127°23′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約60米。
広さ及形状
 本場は長さ北東-南西最大920米、幅180米及長さ東西900米、幅150米の略三角形地域なり。
 着陸地域は長さ北東-南西760米及東西700米、幅各60米の張芝滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 砂混りの尋常土。
地面の状況
 概ね平坦なるも中央部稍高く周囲に向け緩徐なる下り勾配を為す・
 芝敷滑走路は地盤概ね堅硬にして一面に良好なる芝及雑草密生す・
 排水良好なるを以て普通の降雨の際は影響なきも豪雨連続せる際は軟弱と為る。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北東又は南西、東又は西。
離着陸上注意すべき点
 離着陸は芝敷滑走路を使用するを可とす・南西方約700米に在る高さ50米の丘陵に注意を要す。
施設
 格納庫なし。
昼間標識 吹流柱1・境界標識あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳及丘陵
 本場は丘陵地帯を均土整地せしものにして東方の柳等川流域より約10米高き台地に在り・
 西方は一般に丘陵地帯にして本場面より約50米の高度を有す・
 遥か東及西方は高山多く西方約15粁に高さ800米の山及南東方約20粁に高さ900米の山あり。
樹林
 周囲に松樹林あるも何れも丈低く障碍となる程度ならず。
河川
 東方約1粁に北流する柳等川あり、小河なるを以て舟艇の運航なし。
電線
 南方約400米に略東西に架設せる高さ約10米の電灯線あり。
著目標
 大田府、柳等川、鐡道(湖南本線)、道路、(大田-儒城間)。


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

大田飛行場 1046p
 軍の要請を受け昭和15年大田市より湖南に向かう国道沿いの丘陵地帯に造られたが、非常に
起伏の多いところで、国道の移転も併せ行われた。建設費は最初臨時軍事費で始められ、後で総
督府の予算も合流して作られたのだが、もっぱら軍で使用した。




     朝鮮・大田飛行場跡地       
大田飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮忠清南道大徳郡柳川面炭坊里
座 標:N36°20′44″E127°23′17″
標 高:60m
滑走路:760mx60m(03/21)、700mx60m(11/29)
(座標、方位はグーグルアースから)

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」


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朝鮮・裡里飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新   




朝鮮全羅北道金堤郡にあった「裡里飛行場」。

朝鮮総督府管理の昭和17年7月に設置された公共用飛行場で、

朝鮮航空事業社の京城-裡里線の定期航空路の発着場として使用されていました。

なんか左上のヒコーキのマーカーがやけに目立ってますが、これは昭和16年に廃止になった

「旧裡里飛行場」の推定位置で、当記事の主役は右下の三角です。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

飛行場名 裡里(不時着場)
所在地  全羅北道益山郡五山面南山里
滑走地帯(東西・南北)m 375  315


年代、(不時着場)とあることから、これは「旧裡里飛行場」のようですね。


■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

裡里飛行場 1046p
 栄山江河畔に不時着場として設置されていたのを、京城-光州線定期開設に伴い昭和16年6
万坪に拡張し、さらに45万円をかけて拡張整備を行った。同所は上海線、青島線の寄港地と
して一時使用したこともあった。

■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

の中で当飛行場について資料があり、地図もあったのですが、

現在とは周辺の様子が大きく変わっており、場所特定に非常に苦労しました。

後述しますが、資料内には飛行場周辺にある大きな湖までの方向と距離もあったのですが、

現在の地図で周辺にそれらしいものは、どんなに探しても見当たりませんでした。

同資料内に出てくる緯度経度情報は、秒が全て0なんですよね。

そのため、(大体この辺)ということしか分からず、地図上に出てくる地名(龍池面、長新里、新井里)と併せ、

おおよその絞り込みしか出来なかったのですが、

上の地図上で滑走路の所に線を引いている紫の道路の線形が資料の地図とグーグルマップでピッタリ重なり、

これが決め手となりました。

資料の地図ではこの道路が「飛行場専用道路」と記されていました。

「至裡里」と記されているこの道路が資料の地図で実線で引かれているほぼ唯一の道路。

この道路を基準に資料地図に描かれている滑走路を重ねてみると、

(ここに、こんな形で滑走路があった。ということが分かっていないと見分けられないレベルなんですが)

グーグルマップ上にある集落の形が三角形に浮かびか上がったのでした。


話は変わりますが、今回一連の朝鮮の飛行場を記事化する過程で、

当時の飛行場を随分と検索したのですが、情報が非常に少ないです。

今はネット上でページ丸ごと翻訳も簡単にできるので、飛行場名をハングル文字で入力すれば、

地元韓国のサイトも簡単に日本語で閲覧できるのですが、日本統治下の飛行場についてはほとんど出てきません。

系統立てた情報もなく、せいぜい朝鮮戦争時の米軍が作成した飛行場符号一覧と、

朝鮮の地図にその符号をプロットしたものがある程度でした(調べ方が悪いのかもですが)。

そんな中、「京城飛行場小史」というサイト様(下記リンク参照)に当飛行場について記されていました。

このサイトはすごいです。

それによれば、

1936年1月13日より京城・裡里(イリ)間にて、週1往復の試験運航を開始したこと、
1938年5月からは週2往復に増便して定期運行を開始し、1939年からは月水金の週3往復になったこと、
京城~裡里 所要時間は1時間、運賃は12円であること

等記されていました(このサイト様は今後も登場します)。


■朝鮮交通史 1035p

京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業社による京城-光州線があ
った。
 全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業社をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
 昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。



防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

にあった当飛行場の情報を以下記させて頂きます。

第2  裡里飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮全羅北道金堤郡龍池面。
   (裡里邑の南南東方約9.5粁、北緯35°51′0、東経126°59′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約30米。
広さ及形状
 本場は長さ南北700米、東西700米の二等辺三角形地域なり。
 着陸地域は概ね図示の長さ南北575米、東西600米及北西-南東700米、
 幅各60米の芝敷滑走路を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 主として眞砂土。
地面の状況
 滑走路は植芝密生せる平坦且堅硬地なり・排水設備は地下に盲暗渠を設くるを以て降雨後の乾燥速なり
 ・其の他の地域は整地せる平坦地なるも降雨後は泥濘と為る
 ・冬季は地表凍結し解氷期は軟弱と為る・場周に排水開渠あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 恒風の関係上夏季は西、冬季は北。
離着陸上注意すべき点
 東端より東方約80米に高さ約1米の台地あり。
施設
 格納庫なし・芝敷滑走路3條・事務所(朝鮮総督府逓信局所属)1・転圧機庫1あり。
昼間標識 吹流柱1・場周に境界標識あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
地勢
 本場は付近一帯より稍高き丘陵上に在り周囲は概ね本場と同程度の台地なるを以て障碍と為る山岳及丘陵なし。
樹林
 周囲に針葉樹林あるも何れも丈低く障碍と為るものなし。
湖沼
 本場の周囲に大小湖沼多数あり、最大なるは北西及北東方各約1.4粁に在る南北500米幅約200米の湖水なり。
著目標
 裡里邑、道路(郡山-全州間)、鐡道(湖南本線)。北西方付近の沼。
(中略)
其の他
1. 本場は昭和17年7月朝鮮総督府の設置に係る公共用飛行場にして設置後日尚浅く従って諸施設等も完備せざるも目下朝鮮航空事業社の経営する京城-裡里線の定期航空路の発着場として使用中なり。
2. 本場の北西方約10.5粁に在る萬頃江岸の旧裡里飛行場は昭和16年廃止となれり。




     朝鮮・裡里飛行場跡地       


裡里飛行場 データ
設置管理者:朝鮮総督府逓信局
種 別:公共用陸上飛行場
所在地:朝鮮全羅北道金堤郡龍池面
座 標:N35°51′23″E126°59′17″
標 高:30m
滑走路:575mx60m(18/36)、600mx60m(09/27)、700mx60m(13/21)
(座標はグーグルアースから)


沿革:
1936年10月 13日 
慎鏞項氏経営の朝鮮航空事業社、京城-裡里間にて週1往復の試験飛行実施
1938年05月 朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間週2往復の定期航空を開始
1939年    朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間定期航空が月水金の週3往復になる
1942年    定期航空はこの年まで続いた


関連サイト:
京城飛行場小史(リンク切れ)  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 


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朝鮮・光州飛行場跡地 [└日本統治時代の飛行場]

   2017年7月作成 2022/7更新   




朝鮮半島南西にある光州空港の北東約5kmにかつて「光州飛行場」がありました。


■朝鮮交通史 1041p
昭和14年現在の飛行場 として、以下記されていました。

滑走地帯(東西・南北)m 750  600

■朝鮮交通史 1041p
 日本国内では航空機の進展に順応して、行政機構の設置、関連法令の制定と航空保安施設の整
備が行われていたが、朝鮮では昭和4年の日鮮満を結ぶ定期航空路の開設に伴いようやくこれに
取組むようになったが、しかも急速に整備する必要に追われた。(中略)
 定期航空開始に間に合うようこれの寄航地は次のように準備されたが、朝鮮の飛行場建設に当
たり特に留意しなければならぬ要点は
 (1)冬期に土壌の凍結がひどいこと
 (2)梅雨季には豪雨により地盤が軟弱となったり、飛行場が冠水するおそれがあること
等があったが朝鮮内では適当な候補地を得られないので、これが選定に当たっては相当苦慮させ
られ、施工に当たっても予想以上の困難が伴った。(中略)
 終戦までに整備した飛行場の概況は次の通りである。

光州飛行場 1046p
 京城-光州線定期航空開始に当たり急遽建設することとなり、松汀里、光州との中間に昭和10
年建設されたが、極楽江に沿った水田地帯であったので、昭和13年5月簡易舗装滑走路を作っ
た。


■防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 

に同飛行場の地図があり、それによれば飛行場敷地は水田に囲まれているのですが、

上のグーグルマップをご覧の通りで、現在は都市化が進み、当時の面影も、飛行場の地割も見当たりません。

上のマップの滑走路と飛行場敷地は、同資料の地図から作図しました。

滑走路、敷地の大きさは、同資料内に出てくる数字に正確に合わせてあります。

ただし、川と南東にある雲泉貯水池との位置関係から作図したのですが、川の流れが当時と大きく変わっており、

とっかかりとなる目標がないため、飛行場の位置は、「だいたいこんな感じかなあ」という程度のものです。

ご了承くださいませ。

同資料の地図によれば、菱形の飛行場敷地の北側部分に「拡張予定地」とあり、

敷地東側の角に飛行場諸施設が固まっています。

諸施設のある場所から一本の「誘導滑走路」が滑走路中央部に向け真っ直ぐ連絡しています。

正門も敷地東側の角にあり、正門から22号線雲泉貯水池方向に向かって直線道路が伸びていました。


Wikiによれば、当飛行場は昭和10年に朝鮮航空事業社が京城-光州の旅客航路を開く際に造成し、

日本陸軍が昭和17年より接収したとあります。

朝鮮航空事業社が造成してから陸軍に接収されるまでの当飛行場について、別サイトで次のように記されていました。

13年5月に簡易舗装滑走路とする。
同月、京城-裡里-光州間を週2往復する定期航空を開始。
後に3往復に増加し、17年まで運行された。使用機は瓦斯電の千鳥型、朝鮮航空事業社が運行。

「朝鮮航空事業社」とは、これもWiki情報ですが、

慎鏞頊(シン・ヨンウク)氏が1936年(昭和11年)に設立したものとあります。

(当飛行場は「昭和10年に朝鮮航空事業社が造成」とある一方で、「同社は昭和11年に設立」ともあり、計算合わない)

余談ですが、慎氏は朝鮮で航空会社を発展させる夢を持っており、1946年に大韓国民航空社を設立しました。

この大韓国民航空社が変遷を経て現在の大韓航空となりました。

話を戻します。

Wikiによれば、日本陸軍が昭和17年に当飛行場を接収したとあるのですが、

上記水路部資料(昭和18年4月調)では、

管理者:朝鮮総督府逓信局 とあり、

日本側が管理していることには違いないのですが、

飽くまで管理は朝鮮総督府であり、陸軍ではありません。

種別も(陸)軍用飛行場ではなく、公共用陸上飛行場となっており、施設も「逓信局格納庫」と「朝鮮航空事業社修理工場」

とあります。

水路部資料で見る限り、陸軍的なものは感じられません。

どういうことなのかナゾです。


話は変わりますが、鹿児島県の出水航空基地では、航空要員の大量養成を行っていました。

ところが末期の時期、鹿児島の海軍航空基地には、作戦実施部隊の展開が進められ、

当出水航空基地も実施部隊が展開しました。

そのため、訓練部隊は昭和20年3月に光州飛行場に移転して訓練を続行したのでした。

ということで、光州飛行場がどの組織に属していたのか判然としないのですが、

ともかく末期の時期は海軍機も使用していたことになります。

実は飛行場の燃料庫跡等の遺跡が現在も残り、延世大学校教授らの調査が行われたというサイトがあり(下記リンク参照)、

その中で「日本陸軍の管轄から海軍航空隊の基地に変わった」という一文があります。

朝鮮総督府逓信局が管理しつつも、末期の時期に実際に使用していたのは陸軍だったり海軍だったりした。

ということなのでしょうか。

実はアジ歴で検索したところ、「件名 木浦附近 Ⅲ飛行場及施設」という資料がヒットしました(下記リンク参照)。

作成年月日1950年7月27日  作成者 第一復員局||K.R...  組織歴 陸軍省  

というものです。

以下一部引用させて頂きます。

光州(旧海軍)飛行場
滑走路の質 マカダム厚さ三十糎 整地転圧仕上
九〇〇米(長)-四〇米(幅)北六〇□西方向
一五〇〇米(長)-六〇米(幅)南北方向
格納庫なし
小型機掩体十八個
燃料貯蔵施設 滑走路の南東方二五〇〇米
滑走路拡張の余地ありや、その位置
 ①一二〇〇米-二〇〇米
 ②二〇〇〇米-二〇〇米 に拡張可能

昭和18年の水路部資料では、当飛行場は南北滑走路1本なのですが、当資料内では、滑走路が2本出てきます。

また、「飛行場は現在如何なる状態に在るか」という項目には、

「現状不明なるも一九四五年八月迄の□□□に於て□□した。以下の記載事項は其の当時の記録に依る。」

と記されていて、「不明」以外の部分が全て一本線で消されています。

この資料の組織歴のところで「陸軍省」とあり、当飛行場について「海軍の飛行場」と記載していますから、

やっぱり日本統治時代最終的には海軍の飛行場ということなのではないかと思いました。


■朝鮮交通史 1035p

京城-光州線 朝鮮独自のローカル定期航空路としては朝鮮航空事業者による京城-光州線があ
った。
 全南、全北地方は朝鮮の穀倉地帯といわれ人口密度も比較的多い地区であったが交通の便が悪
かった。同地方出身の慎鏞項氏の希望もあり同氏の経営する朝鮮航空事業者をして京城-裡里-
光州間の定期航空を開発することとした。
 昭和11年10月13日より京城-裡里間の試験飛行を行ない、昭和13年5月より京城-裡里-
光州間週2往復(後に3往復)の定期航空を開始した。使用機は帝国飛行協会より無償貸与を受
けた瓦斯電千鳥号で、乗員1名、乗客2名搭乗できる小型機であった。本路線には試験飛行時代
から奨励金を支給していたが、定期航空になってからは次の奨励金が支給された。本定期航空は
昭和17年まで続いた。



水路部資料の当飛行場についての部分を以下引用させて頂きます。

第1  光州飛行場(昭和18年4月調)
管理者 朝鮮総督府逓信局。
位置 朝鮮全羅南道光山郡極楽面治平里。
   (光州府の西方約6.8粁、北緯35°9′0、東経126°50′0)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約10米。
広さ及形状
 本場は長さ北西-南東550米及北東-南西580米の略正方形地域なり、着陸地域は概ね図示の長さ南北600米、
 幅40米の舗装滑走路を最適と認むるも滑走路の両側幅各40米迄の砂利敷整地地区を使用するも支障なし(付図参照)。
地表の土質
 砂礫を混ずる粘土。
地面の状況
 滑走路は水締「マカダム」舗装にして平坦且堅硬なり・滑走路の両側各40米の地域は砂利敷転圧地なり・
 其の他の地域は芝地にして概ね凸凹起伏なき平坦地なるも降雨後は排水不良のため処々に水溜を生じ地盤軟弱と為る・
 場の東側の建物敷地の前面より前記滑走路に連絡する長さ200米幅20米の舗装誘導路1條あり・
 場周に排水開渠及境界標識あり。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 北又は南。
離着陸上注意すべき点
 芝は処々に稍軟弱なる箇所あるを以て可及的滑走路を主用するを可とす。
施設
 逓信局格納庫(間口18米、奥行18米、高さ4米小型6機収容し得)1・飛行場事務所・朝鮮航空事業社修理工場1・
 油庫1・気象観測所・転圧機庫1・車庫等あり。
昼間標識 協会標識・吹流1・地名標識「コウシウ」あり。
夜間標識 なし。

周囲の状況
山岳
 本場は栄山江支流光州川の流域に位し四周は一帯に平坦なる水田なり
 特に河流方向の北東及南西方は極めて広濶なる平野を成すも東西方向は丘陵に依り狭められ
 東方は約500米にして山麓に達し次第に内方に向け標高発達し約1.5粁にして100米内外の山地と為る・
 西方は稍広き平野を距て約2.5粁にして山地と為る。
樹林
 付近に障碍となる樹林なし。
河川及湖沼
 北西方約300米を南西流する光州川あり、同河は栄山江の支流にして西方約1.6粁付近にて本流と合流す

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
にも情報がありました。
以下引用させていただきます。

位置 全羅南道光州郡 
積量 記載無し
地表の状況 記載無し
周囲の状況 北側に高さ十米の堤防あり
天候気象の交感 雨期解氷期には泥濘化し使用し得ざる部分あり
格納施設 記載無し
居住施設 記載無し
交通連絡 記載無し
其の他 気象観測設備あり




     朝鮮・光州飛行場跡地       

光州飛行場 データ
設置管理者:朝鮮航空事業社→朝鮮総督府逓信局(日本陸軍→海軍?)
種 別:陸上飛行場
所在地:光州広域市西区治平洞
座 標:N35°09′13″E126°50′37″
標 高:26m
滑走路:600mx40m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1935年    朝鮮航空事業社、造成
1938年05月 簡易舗装滑走路とする。
朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間週2往復の定期航空を開始
1939年    朝鮮航空事業社、京城-裡里-光州間定期航空が月水金の週3往復になる
1942年    定期航空はこの年まで続いた。日本陸軍接収?
1945年03月 出水航空隊移転


関連サイト:
韓国・朝鮮の飛行場/光州飛行場  
光州の旧日本軍洞窟実測調査、戦争末期の軍事拠点だった可能性  
アジ歴/木浦附近 Ⅲ飛行場及施設  

この記事の資料:
朝鮮交通史
防衛研究所収蔵資料:「水路部 航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」 
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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朝鮮強化月間開催 [├雑談]

今年2月、市ヶ谷の防衛研究所にて、しこたま資料を撮影してきたのですが、その中に

「航空路資料第9 朝鮮地方飛行場及不時着陸場 昭和18年9月刊行」

という水路部の資料がありまして、序文にこんなことが書かれていました。


1.本誌は昭和13年2月刊行の航空路資料第9を昭和18年4月迄の当部調査
 資料に據り増補改訂し朝鮮地方(要塞地帯を除く)に於ける民間飛行場及
 現状の儘にて使用し得と認むる不時着陸場に就き記載したるものなり、但
 し其の細目に関する記事中には精密なる測量を経ざるものあり。

2.陸軍飛行場に関しては従来航空路資料中に記載し来れるも爾今之等を一括
 転録し陸軍航空基地資料(假稱)として刊行す。

3.本誌中改補を必要とする事項は細大を問わず速に当部へ通報あらんことを
 希望す。

昭和18年9月
 水路部長 阿部 嘉輔



水路部作成の地図をグーグルマップ上に作図することはこれまでもさせて頂いたのですが、

当時の航空写真と比較して、地図にどう考えても辻褄が合わない部分があるのが気になって仕方ありませんでした。

1.の最後のところで、「精密なる測量を経ざるものあり。」という一文があります。

(なんで身内向けの資料なのに改変すんだろ??)なんて思ってたんですが、

測量が精密でない場合もあるんですね~。

この文言を100%額面通り受け取ってよいのかしらん。と勘繰ったりもするのですが、

ともかく水路部長ご本人が「正確でない場合がある」と明言していることが知れたのは、オイラにとって大きかったです。


この水路部資料には各飛行場の地図と、その飛行場の詳細な資料がズラズラと載っているのですが、

1.にある通り、


「朝鮮内の要塞地帯を除く」

という条件付きの民間飛行場と昭和18年時点で使用可能な不時着陸場が全部で14載っています。

で、その14の飛行場をせっせとグーグルマップ上に作図したのでした。

その中には、文字通り非常に簡素な不時着陸場から、

当時の日本本土でもなかなかお目にかかれないような大規模国際空港までバラエティーに富んでおり、

日本統治時代以後現在の至るまでにその飛行場がどんな運命を辿ったかもまた様々でした。


それぞれの飛行場の記事化の過程で、ネットでその飛行場についての情報をあれこれと検索したのですが、

大戦中の朝鮮の様子、日本による統治の様子について、

これまでなんとなくイメージしていたものがガラガラと変わりました。

まあ、元々オイラ、こうした分野に関して(も)かなり無知というのが大きいんですが。

作図の過程で現在の韓国、北朝鮮の様子をグーグルアースで随分と見たのですが、

これまで両国の家一軒レベルまでジックリ眺めることなんてなかったため、

現在の両国についてもイメージが随分変わりました。


来週月曜日以降、順番に14の飛行場記事をアップ致します。

ということで、「朝鮮強化月間」開催です(1カ月もたないけど)。

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アメリカ・ポイントベーカー水上機基地 [├海外の空港、飛行場]

  2017年4月作成(情報は作成時のものです)  


無題7.png
skyvector.com

アラスカ州ポイントベーカーにある「アメリカ・ポイントベーカー水上機基地」。

1961年3月開設の州立の公共用空港で、4000 x 250 ft の離着水エリアが設定されています。

2006年は330機の運航があり、内訳は、エアタクシー91%、ゼネアビ9%でした。

航空会社 / 行先
Taquan Air / Ketchikan


     アメリカ・ポイントベーカー水上機基地      

ポイントベーカー水上機基地 データ
設置管理者:Alaska DOT&PF - Southeast Region
種 別:公共用
3レター:KPB
標 高:0 ft / 0 m
標 点:56°21′07″N 133°37′21″W
離着水エリア:4000 x 250 ft. / 1219 x 76 m
方 位:N/S
表 面:水

関連サイト:
Wiki/Point Baker Seaplane Base  


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アメリカ・プラチナム空港 [├海外の空港、飛行場]

  2017年4月作成(情報は作成時のものです)  


無題6.png
skyvector.com

アラスカ州プラチナムにある「プラチナム空港」。

1947年8月開設の州立の公共用空港で、未舗装滑走路1本を有しています。

ググったらカード会社がいっぱいヒットする空港。

2007年に634人、2008年に1,020人の搭乗がありました。

航空会社 / 行先
Yute Air / Bethel, Goodnews Bay
Grant Aviation / Bethel


     アメリカ・プラチナム空港      

プラチナム空港 データ
設置管理者:Alaska DOT&PF - Central Region
種 別:公共用
3レター:PTU
4レター:PAPM
標 高:18 ft / 5 m
標 点:59°00′41″N 161°49′10″W
滑走路:5000 x 75 ft. / 1524 x 23 m
磁方位:14/32
表 面:砂利/good condition

関連サイト:
Wiki/Platinum Airport  


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