新島村営場外離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2016年2月訪問 2021/12更新
撮影年月日 1968/04/04(昭43)(KT688Y C1niijima 3)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
終戦から23年。
すっかり開墾された陸軍飛行場跡地。
1956年に「新島空港開設既成同盟会」が結成され、日ペリと話し合いが持たれました。
この中で「1,200mの飛行場ができれば飛ぶ」という協定が成立し、同社技術主任が来島。
上の写真だけ見ると直線的な地割以外にここが飛行場だった面影はなく、
もうここからヒコーキが飛ぶことなど二度とないような気さえしてしまうのですが、
空港建設に向けて具体的な動きが既に始まっています。
滑走路跡地東端にヘリポート(赤矢印)が見えます。
このヘリポートは村営場外離着陸場開設に伴い廃止されました。
ヘリポートができるまでは、夜間には自動車数台を並べ、ヘッドライトで照らすなどしたこともあったのだそうです。
撮影撮影年月日 1975/05/02(昭50)(昭50)(KT752X C2 2)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
開港から5年後の新島村営場外離着陸場。
ほぼ陸軍飛行場跡地を利用する形で開設しました。
「1,200mの飛行場ができれば飛ぶ」という日ペリとの協定がありましたから、
当初は1,200m級を目指したと思うのですが、滑走路の長さは半分の600m。
運航は日ペリではなく、中央航空のピラタス(7人乗り)。
ここに至るまで、きっと語り尽くせぬ紆余曲折があったのでしょうね~。
後に現在の新島空港ができるのですが、空港の滑走路とこの場外離着陸場の滑走路は重なっており、
エプロン、ターミナルが現在とは反対側にあります。
撮影年月日 1978/11/05(昭53)(CKT782 C4 11)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1978年のエプロン部分トリミング。
長閑な雰囲気が伝わってきますね~。
村営場外離着陸場は1971年に運航を開始したのですが、
当時はまだ運輸省による二地点間旅客輸送の運航許可が下りていなかったため、
新島観光協会のチャーター形式による不定期航路として大島に運航したのだそうです。
飛行場は新島村営、そして運航も新島観光協会と、新島が主体となって発足したため、
この規模の飛行場としては非常に立派な格納庫があるのではないかと思います。
陸軍飛行場跡地東端。
多分この辺りにヘリポートがあったのではないかと。
新島村営場外離着陸場時代の滑走路とエプロンを結ぶ誘導路がそのまま残っています。
ここで180°回頭すると-
こんな感じ。
ここにエプロンが広がっていたのですね。
新島村営場外離着陸場当時のエプロンは、自動車教習所を経て現在は交通公園になっているのだそうです。
交通公園南西側の角から滑走路方向。
当時はこの先に格納庫、ターミナルがあり、エプロンが広がってました。
「伊豆諸島東京移管百年史」によれば、
「開港10年近いが未だ簡易飛行場で7人乗り小型機使用。1日平均6便の発着だが、満席の日が多い」
と記されていました。
東京都・新島村営場外離着陸場跡地
設置管理者:新島村
種 別:場外離着陸場
所在地:東京都新島村川原
座 標:N34°22′11″E139°15′59″
標 高:31m
滑走路:600m
方 位:11/29
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1956年 「新島空港開設既成同盟会」結成
1970年12月 25日 村営場外離着陸場開設
1971年01月 中央航空大島不定期便就航。ピラタスPC-6型機
1972年10月 ブリテン・ノーマンBN-2型機(9席)就航
1974年02月 新中央航空が中央航空から事業譲受
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この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド
「伊豆諸島東京移管百年史」
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