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東京陸軍航空学校滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2014年6月、2015年7月訪問 2021/12更新  


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撮影年月日1947/11/14(昭22)(USA R556-No1 74) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

東京都‎武蔵村山市大南。

住宅が立ち並び、公園、学校などがある静かな場所ですが、

かつてここに「東京陸軍航空学校」(後の少年飛行兵学校)がありました。

先頭のグーグルマップの薄い黄色は学校の敷地で、

武蔵村山市立歴史民俗資料館報 第47号の図(下記リンク参照)から作図させて頂きました。

学校の敷地北側には当時滑空場があったとのことで、正確な位置は不明なのですが、

「滑空場は大南2丁目周辺にあった」とする資料があります。

学校の敷地内で大南2丁目周辺、そして上に貼った航空写真を参考にして、

滑空場適地と思える部分を濃い黄色で囲いました。

飽くまでオイラの主観ですのでご了承くださいませ。

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赤マーカー地点。

滑空場があったと思われる辺り。

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紫マーカー地点。

飛行学校本部校舎の跡地。 

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碑の下部(全文):建立の趣旨 ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充要請により、昭和十三年、この地に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校した。終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた戦没者は四千五百余柱を数う。昭和三十八年、ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立し、これを長く後世に伝えるものである。平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

横に設置された説明版(全文):
武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会

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青マーカー地点。

飛行学校正門跡に建立された碑。

説明版全文:武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空併用制のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年の飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をととめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会

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説明版の写真 

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碑の裏側はこんな。

(全文)昭和十三年九月 東京陸軍航空学校(のち東京陸軍少年飛行兵学校)が開校されこの地が正門跡地である 陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第六期生から第二十期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の全てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である 平成十一年四月吉日 武蔵村山市

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碑のすぐ近くにある標識。 

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(暗くてよく分からないですけど)画面左端にあるのが、正門跡碑。

この十字路の手前がシャバ、奥が学校。

手前から学校に入っていくこの道が「東航通り」。

学校正門当時の地割が残っており、不思議な広がりのある交差点です。


      東京都・東京陸軍航空学校滑空場跡地      

東京陸軍航空学校滑空場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:滑空訓練場
所在地:東京都‎武蔵村山市‎大南‎2丁目‎
座 標:35°44'23.0"N 139°24'17.9"E
標 高:107m
着陸帯:700m×240m?
(座標標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1934年    所沢陸軍飛行学校に少年航空兵の一期生入校
1937年10月 熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校開設
1938年08月 村山村中藤(現在の大南3,4丁目)に新校舎完成
    09月 村山村中藤の新校舎に航空学校移転
1943年03月 名称を東京陸軍少年飛行兵学校に変更
1945年04月 村山国民学校(現市立第一小)に対し、将来空襲で校舎が使えなくなった場合の校舎使用申し入れ
    08月 終戦。直後から食糧難に備えて中藤地区の農家等に分割払い下げ
    11月 陸軍少年飛行兵学校令の廃止を受け廃校
1963年    慰霊碑建立
1966年    都営住宅村山団地誕生
2007年07月 武蔵村山市教育委員会、市の文化財に東京陸軍少年飛行兵学校跡地を旧跡として指定

関連サイト:
武蔵村山市立歴史民俗資料館報 第47号    
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多摩の浪人・武井敦

初めまして、東京の多摩地域の歴史について調べている「多摩の浪人・武井敦」といいます。
「東京陸軍少年飛行兵学校」について若干記載させて頂きます。
やや長文なので何回かに区切って送信したいと思います。

「東京陸軍少年飛行兵学校」その1
戦前、戦中にかけて、旧陸軍には、少年飛行兵学校の「基本校」とよばれていたものは三つあり、「東京」、「大津」、「大分」にありました。基本校で1年基礎を学んだ後に「上級校」で2年間の飛行訓練を行い、卒業後に各地の飛行場に配属になりました。

東京陸軍飛行兵学校の上級校は「宇都宮陸軍飛行学校」と「熊谷陸軍飛行学校」の二校です。

陸軍少年飛行兵学校の「上級校、分教場・教育隊・飛行場」は日本各地にありました。
毎年基本校を卒業する生徒は1,400名程度いましたので、高度の飛行訓練を行うためには、各地に分散させる必要がありました。

私は現在、東京の北多摩地域に居住していますので、東京陸軍少年飛行兵学校については、少々知識を得ていましたし、偶然この学校の卒業生の方々と知り合う機会がありましたので、「磐城飛行場」「原町飛行場」等の分教場の存在は分かっていましたが、詳細が把握出来ないでいましたので、「とりさん」の記事を拝見させて頂き、大いに参考になりました。

基本校の生徒の訓練は、午前中は座学が中心、午後は操縦に必要な基礎体力を養う訓練が行われたようです。
また、基本校では、戦闘用練習機(例えば「赤とんぼ」)のような飛行機は無く、飛行訓練はグライダーのみで行われました。
東京陸軍少年飛行兵学校の本部棟の北側に、広い空き地がありましたが、グライダーによる飛行訓練はここでやっていたようです。

ちなみに、旧海軍には「海軍飛行予科練習生」が少年飛行兵の教育機関としてありました。
茨城・霞ヶ浦の「予科練」が良く知られています。

日本軍も昭和初年から1935年(昭和10年)支那事変が始まる頃には、大正時代からの航空機の重要性の認識が更に加速し、飛行兵の育成のため飛行学校の設立や航空機工場の建設に一層力を入れ始めました。
日本の各地に飛行場が建設されたのは、この頃だと思います。

by 多摩の浪人・武井敦 (2020-01-04 08:12) 

とり

■多摩の浪人・武井敦さん
いらっしゃいませ。
知らない事ばかりでした。
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
by とり (2020-01-05 05:38) 

お名前(必須)

とりさんがこんな東京のはずれまで来ていてくれたのには感激の限りです。その2、その3を送信させて頂きます。

「東京陸軍少年飛行兵学校」その2
「東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の100年」等の地域史によると、
東京都北多摩郡村山村(現在の武蔵村山市)に飛行学校が開校したのは、
1938年(昭和13年)8月で、当時の名称は「東京陸軍航空学校(通称・東航(とうこう))」でしたが、
1943年(昭和18年)4月に改編されて「東京陸軍少年飛行兵学校(通称・少飛(しょうひ))」に名称を変更しています。
東京陸軍航空学校は、1937年 (昭和12年)10月まで仮設であった熊谷の陸軍飛行学校が、1937年(昭和13年)9月に村山村に移転し、この場所からさらに南の方角にあった陸軍立川飛行場の射爆場の土地を航空学校敷地に転用したとのことです。

しかしながら、1941年 (昭和16年)太平洋戦争開戦当初から鋼材、燃料など物量は全く足りず、昭和18年頃には、日本軍(陸軍も海軍も)は敗戦を意識していたと考えられます。
そして、特攻作戦もすでに考えられていたと思います。

昭和19年末から昭和20年になると、南方への特攻の他に、各地の飛行場から米軍の戦闘機に向かって体当たりしていく状況を、多くの日本国民が目撃しているのはよく知られています。

陸軍少年飛行兵学校の卒業生は東京・大津・大分の「基本校」3校を合わせると約46,000名ですが、その内の一割弱の約4,500名が戦死しています。
さらに、戦死者のうちの約500名が、特攻隊として命を落としたそうです。

現在、「東京陸軍少年飛行兵学校」の痕跡を残す遺跡は全くありません。
わずかに、通りの名前と、関連する石碑・慰霊碑があるのみです。
武蔵村山市の「大南(おおみなみ)地区」には、通称・東航(とうこう) (東京陸軍航空学校)と呼ばれていた名残の「東航通り」が現在もあります。
また、「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑の二つが大南の町の中にあります。
「揺籃之地」とは、かつての飛行兵学校の本部棟の辺りに建てられています。「国を思い、家族を思って散って言った若者たちがゆっくりと眠って欲しい」という飛行兵OBや遺族たちの思いが込められた石碑です。

さらに、通称・少飛(しょうひ)(東京陸軍少年飛行兵学校)と呼ばれていたことから、「少飛の塔」という飛行兵の慰霊碑が市内「岸(きし)地区」の臨済宗「禅昌寺(ぜんしょうじ)」の境内にあります。
毎年慰霊祭がおこなわれています。第五十七回の慰霊法要は2019年(令和元年)11月10日(日)に執り行われました。縁あって、私も参加させて頂きました。

飛行兵OBの方々は93前後のお歳ですので、年々参加者が減ってきている状況だそうです。

by お名前(必須) (2020-01-05 10:48) 

多摩の浪人・武井敦

「東京陸軍少年飛行兵学校」その3
熊谷飛行場・掛川分教場(埼玉県桶川市)のように多くの当時の施設が多く現存し、市が全面的に修復・保存活動のイニシアチブをとっていることは羨ましい限りです。

旧陸軍の少年飛行兵の母校とも言うべき東京陸軍少年飛行兵学校が存在した、ここ武蔵村山市は、かつて、「村山村」及び「村山町」でしたが、「村史」、「町史」そして「市史」の中には、東京陸軍少年飛行兵学校に関する記述が殆どと言ってよい程ありません。

かろうじて、「少飛会」と呼ばれるOB会の方々が纏めた「陸軍少年飛行兵史」や「写真集 ああ少年飛行兵」の他、OBの方々が個人的に纏めた幾つかの手記が残されているだけです。

武蔵村山市には、「市立郷土歴史博物館」がありますが、「市立郷土博物館分館」が大南地区にあります。「揺籃之地」の石碑からはおよそ200メートルの距離の位置にあります。
この分館には、少年飛行兵の生活の一端をうかがえる写真数枚展示されています。また「陸軍少年飛行兵史」も閲覧できるようにしてもらっています。

この分館は少飛の本部校舎があったことを示す「揺籃(ようらん)之地」の他、「東航正門跡」の記念碑もあるが、少飛のことを知らない住民も多いことから、元少飛校の職員の池谷タカさん(2020年現在93歳)が「学校の歴史を後世に残したい」との願いから建設用地の大半を寄付して出来上がったものです。

池谷さんは武蔵村山市出身で終戦まで2年8カ月、事務員として勤務。戦後は少飛校跡地で農業に従事してきました。
その後、4人の実の娘さんたちと資料館分館の隣に位置する場所で、郷土料理店を開いていましたが、残念ながら、2019年の7月末に閉店してしまいました。池谷タカさんは今も健在で、同じ建物に住んでおられます。

そして常々「多くの犠牲者の上に今の平和があることを若い人に知ってもらうため、ぜひ、来館してほしい」と話しています。
 
現在、東京陸軍少年飛行兵に関する、保存活動や市民への教宣活動をしているグループは幾つかあります。
その中の一つ「陸軍・少飛平和を祈念する会」は、少年飛行兵に関係する資料館として、茨城県の「予科練平和祈念館」、鹿児島県の「知覧特攻平和会館」及び福岡県の「太刀洗平和祈念館」の様に立派な平和祈念館があるのに対し、東京陸軍少年飛行兵に関する記念館がないことを嘆き、祈念館の設立に頑張っています。

もう一つグループ 「少年飛行学校の歴史と平和を考える会」は、少飛会のOBを主体とするメンバーからなり、会長は少飛15期の方が務めています。
この会は、現在の資料館の分館の充実と、現存する資料類の散逸の防止を教育委員会他、市当局に働きかけること、及び、市民のみならず都民、更には多くの国民の皆様に少飛校の歴史と平和を考えて頂きたいと思いを強く持っています。

以上

by 多摩の浪人・武井敦 (2020-01-05 11:01) 

多摩の浪人・武井敦

すみません。少々誤記がありました。
「市立郷土歴史博物館」→「市立歴史民俗資料館」
「市立郷土博物館分館」→「市立歴史民俗資料館分館」
by 多摩の浪人・武井敦 (2020-01-05 14:32) 

とり

■多摩の浪人・武井敦さん
貴重な情報をどうもありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2020-01-06 06:33) 

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