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東京羽田飛行場(1931~1939) [├国内の空港、飛行場]

   2016年3月訪問 2022/6更新  

少し前の記事:「三本葭飛行場跡地」に書いた通り、

相羽有氏と玉井清太郎氏は、羽田に「日本飛行学校」を開設し、多摩川対岸に「三本葭飛行場」を設けました。

その後、相羽氏は資金集めの為一時航空界から身を引き、

もう一方の玉井氏(の遺志を継いだ弟照高)も大正10年11月末に横浜市鶴見区生麦の「玉井飛行場」に移転。

こうして羽田はしばしの空白期を迎えることになりました。

 

国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正15年」に、

「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」のページがあります(下記リンク参照)。

ここにこんな情報がありました。

管理人 高木東作
種類 陸上
位置 東京府荏原郡羽田町
面積 (記載無し)

お隣のページには、「本邦民間飛行機操縦術練習所〔大正14・8・1現在〕」があり、

ここにも情報がありました。

名称 大東飛行機自動車学校
所在地 東京府荏原郡羽田町
代表者 高木東作

後述しますが、「玉井飛行場」に移転した大正10年11月から、

羽田を飛行場として買収、着工する昭和5年までの間、羽田で何があったかについては、

これまで情報がなく、「空白期」と思っていたのですが、

「報知年鑑 大正15年版」によれば、少なくとも大正14年8月には、

羽田に高木氏が運営する民間の陸上飛行場と飛行学校が存在していたのですね。

高木氏の飛行場と飛行学校が具体的にドコにどんな大きさであったのか、いつからいつまであったのか等、

これ以上のことは今のところ全く不明なため、高木氏についてはここで話を終わります。

 

昭和4年(1929年)、羽田穴守が「東京国際空港」の適地として目を付けられ、

鴨猟場の北側の埋立地、16万坪を1坪10円で買収し、ここに南北の方向に600m滑走路1本がに完成。

「日本民間航空史話」で相羽氏ご本人が「三本葭飛行場」から身を引いたその後について記しています。

それによれば、相羽氏は資金集めのため、自動車学校創立、出版事業、米車輸入元となり、巨利を得ました。

そしてそんな頃、陸軍の「立川飛行場」が建設され、西半分は草原で遊ばせていたため、

草刈りをする条件で使用許可を得て格納庫を作り、東京府からの公認も得てここに日本飛行学校が再開したとあります。

この頃の立川飛行場の活躍ぶりは、様々な資料で目にします。

すっかり蚊帳の外になってしまったかに見えた羽田ですが、再び転機が訪れます。

「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」

48pにはこんな興味深い記事がありました。

ところで羽田を国際飛行場にせよと主張した、言いだ
しっぺは前にも触れた長岡外史である。この人物は一九
〇九年(明治四二年)、日本で最初の政府機関である臨
時軍用気球研究会の委員長で、わが国最初の飛行場とし
て、所沢陸軍飛行場を建設し、長く帝国飛行協会の副会
長を務めた。 一九二三年(大正一二年)の関東大震災の
あと、帝都復興評議員に推された外史は、一一月一五日
の帝都復興第一回評議員会の席上で熱弁を揮う。
 「所沢と立川は(飛行場として)遠きに過ぎます。少
なくとも羽田付近、青梅街道上の荻窪付近、中山道の赤
羽根付近の三か所に約二〇万坪(約六六万平方m)の飛
行場を設ける必要があり、この他大山街道上の世田谷な
らびに千葉街道国府台付近に一朝事ある場合を考え、臨
時飛行場(不時着陸場)を設ける必要があります。この
飛行場のなかで、どこを国際飛行場にすべきかをいえば、
私は羽田付近を選ぶに躊躇しません。羽田は東京に近く、
交通も便利、しかも国際飛行場として水・陸飛行機の発
着に好条件を備えています」。

 

「日本民間航空史話」に相羽氏が記した続く部分によれば、

昭和4年(1929年)、羽田穴守が「東京国際空港」の適地として目を付けられ、

鴨猟場の北側の埋立地、16万坪を1坪10円で買収し、ここに南北の方向に600m滑走路1本が昭和6年に完成。

そして相羽氏には、「日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だから」ということで特別の承認を得て、

民間飛行学校と土地が割り当てられました。

(「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」によれば、「逓信省航空局が民間用飛行場を開設」とあります)

 

大正6年(1917年)10月の台風で壊滅してしまい、資金集めの為一時身を引いてから、

昭和6年(1931年)の飛行場完成まで、14年の時を経て相羽氏は再び羽田に戻ってくることになったのです。

この時の心情をご本人が「日本民間航空史話」の中でこう綴っています。

「大正五年、三本よしの干潟に発祥してから、拮据経営、実に十五年の歳月であった。あらゆる困難を踏み越え、有為転変の世の中に浮きつ沈みつ、よくもここまで来つるものかと、感慨は無量であった。」

 

無題3.png
撮影年月日 1936/06/11(昭11)(B8 C4 82)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

これが建設された羽田空港。

相羽氏と玉井氏が飛行学校を構えていた場所の北約530mに当たります。

相羽氏は割り当てられた土地に鉄骨格納庫、教室その他を整備。

ここに東京航空株式会社を創立し、フォッカー式や愛知式AB一型の水上旅客機を使い、羽田を拠点として、

伊東-下田-沼津-清水港への定期旅客郵便航空を開始し、政府から補助金を与えられました。

この辺のところは以前の記事 で書きましたが、清水の三保飛行場の根岸氏の話と繋がりますね。

「水路部 航空路資料 関東地方飛行場及不時着場 昭和18.8」の中に「東京飛行場」の詳しい地図がありました。

上の航空写真で飛行場西側にピョコンと飛び出した部分が見えますが、この部分は地図に「水上機滑走台」と記されており、

そこから一列に並ぶ格納庫は、一番西の端から順に、

「航空局第二格納庫」、「東京毎日新聞社格納庫」、「東京航空株式会社格納庫」…と記されています。

ここに水上機を格納してあり、飛行の際は滑走台に移動していたんじゃないでしょうか。

しかし羽田空港に水上機の定期便が飛ぶ時代があったのですね~。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(7コマ) 

経営者 東京航空株式会社
会社創立 昭和三年九月
資本金 八〇〇,〇〇〇円
社長 相羽 有
航空線路 東京-下田
区間 東京-下田間 夏季 毎週六往復

 

 

グーグルマップに落とすとこんな感じ。

横風用B滑走路04エンドのすぐ西側の場所で、

海上保安庁、コンパスエリア、Nスポットのずらりと並ぶNエリアを含む、旧整備場地区に当たります。

ここから現在の羽田が始まったのですね~。

 

この羽田飛行場の面積と滑走路の長さについてですが、

「日本民間航空史話」の相羽氏:「十六万坪、南北の方向に六百メートルの滑走路」
サイト「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」:「面積53haに延長300mの滑走路1本」
「全国空港ウォッチングガイド」:「15万8千坪、滑走路300x15m」

とあります。

まず面積ですが、16万坪≒52.89ha なので、三者ともほぼ同じ広さを記していることになります。

で、滑走路の長さなのですが、これは600mと300mで倍も違っています。

グーグルアースで測ってみると、当時の東京羽田飛行場の敷地の南北方向の長さが610mでした。

そして先頭の1936年の航空写真、南北に白く浮いている部分全体で460m。

ターニングパッドは滑走路に含めないとすると、380mでした。

上の写真の南北に走る滑走路、かなり細いので、当初実はコレ、誘導路じゃないのかしらんとも思っていたのですが、

「全国空港ウォッチングガイド」に「滑走路300x15m」とあり、作図したグーグルマップで幅を図ってみたら、ピッタリ15mでした。

ということで、やっぱりこの白い部分が滑走路ということみたいです。

しかし細いですね(←まだ言ってる)。

沿革にまとめましたが、羽田は続々日本各地を結ぶ定期便が開設されることになり、 国際空港ともなりました。

こうして昭和6年、細っっそい滑走路1本で始まった「東京羽田飛行場」でしたが、日華事変勃発に伴い、

航空機の利用が増加して手狭となりました。

そのため昭和13年に京浜急行電鉄の運動場用地その他を買収し、飛行場敷地を722,000㎡に拡張、

滑走路を2本に増設する工事を行いました。

 

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-札幌
区間 東京-仙台間 毎日一往復
   仙台-青森間 毎日一往復
   青森-札幌間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年四月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-京城間 毎日一往復
   京城-奉天間 毎日一往復
   奉天-新京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-北京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-青島間 毎日一往復
   青島-天津間 毎日一往復
   天津-北京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新潟
区間 東京-長野間 毎日一往復
   長野-新潟間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  東京飛行場
経営者  國
所在地  東京市蒲田区羽田江戸見町
水陸の別 陸
滑走区域 東西六〇〇米 南北六〇〇米
備 考  (記載無し)

しっかり舗装された滑走路の設けてある南北方向はともかく、「東西六〇〇米」ともありますね。

埋立地の飛行可能地区で見れば、東西方向に600mの長さは十分可能に見えます。

風向き次第で東西方向もアリだったのですね。

続きは次の記事で。

DSC_0035a.jpg

DSC_0037.jpg

(2枚とも)旧整備場地区。

関係者以外がウロウロしてよい雰囲気ではありませんが、特に立ち入り禁止等の表示はありませんでした。 


      東京都・東京羽田飛行場     

東京羽田飛行場 データ

設置管理者:逓信省(「全国空港ウォッチングガイド」には「政府が建設」とあり)
所在地:東京市蒲田区羽田江戸見町(現・東京都大田区羽田空港1丁目)
座 標:N35°33′28″E139°45′32″
標 高:10m
面 積:53ha
滑走路:380m×15m? (国立公文書館デジタルアーカイブでは「東西600m、南北600m」ともあり)
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1921年11月 玉井氏、 「玉井飛行場」に移転
1925年08月 この頃、高木氏の飛行学校と飛行場があった
1930年02月 土地買収、逓信省航空局が民間用飛行場着工
1931年04月 1日 東京航空輸送、東京~清水線定期航空便開設
     08月 25日 東京飛行場開場。日本航空輸送の定期便が立川陸軍飛行場から移転
       最初の外国機ユンカース・ユニオールがベルリンから到着
1933年11月 日本航空輸送、東京~大阪間の夜間飛行開始
1935年05月 東西定期航空会、東京~新潟~富山~大阪線開設
1936年10月 日本航空輸送、東京~新潟線、東京~富山~大阪線など開設
1937年04月 日本航空輸送、札幌線の定期便開設
     06月 日本航空輸送、中島式AT型機で東京~福岡~京城~新京(現・長春)線開設
1938年10月 日本航空輸送、北京線開設

関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)  
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「郷土つるみ第58号」
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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