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陸軍鳥取(市営鳥取)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月、2023年12月訪問 2023/12更新  


無題2.png

撮影年月日1947/09/23(昭22)(USA R507-4 17)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

現在の鳥取砂丘コナン空港の南側にあった「陸軍鳥取飛行場」。

沿革にまとめましたが、航空機メーカーの福田軽飛行機が試験用滑走路として設置したのが始まりで、

その後日産輸送機、陸軍の飛行場となり、終戦を迎えました。

■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

に「鳥取飛行場要図」があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

上に貼った終戦から2年後の航空写真では、"ダンベル"の中に滑走路が斜めに収まっているように見えますよね?

ところが「要図」では、滑走路がちゃんと"ダンベル"の真ん中に行儀良く収まって描かれていますΣ(゚Д゚;)

航空写真と「要図」で肝心の滑走路の位置関係が大きく食い違っているため、

作図の際、どちらの資料を優先すべきか迷ったんですが、2つの理由から航空写真の地割を優先しました。

以下その理由を。

 

1つ目の理由は、「要図が正しいとする地割が乏しい」ということです。

実は終戦の年(1945年)に勧業建設が当飛行場を継承し、英軍の不時着場として使用しています。

終戦と共に国内のほとんどの飛行場はその役割を終えましたが、

ここは戦後も飛行場(不時着場)として使用していたんですね。

「要図」を含む資料の日付は「昭和二十年九月十七日」で終戦の翌月です。

それで「要図」の滑走路の位置が正しいとすれば、終戦の頃まで滑走路は"ダンベル"の真ん中にありました。

終戦の年の5月~8月までは、「宮崎県木脇飛行場から全員こちらに移動して訓練を続けていた」

という記録もありますので、そんな時期に滑走路の向きを変える工事をしていたとは尚更考え難いです。

この頃の航空写真があればこの点はハッキリするんですが、

残念ながら国土地理院で終戦前、もしくは終戦直後の当地の様子を航空写真で確認することができません。

閲覧可能な終戦から直近の航空写真は、上に貼った1947年9月のものです。

ということは、要図と写真のどちらも正しいとするなら、

終戦から2年以内に滑走路の向きを変更する工事が行われたことになり、

ほんの2年前まで使用していた滑走路の地割がまだ生々しく残っていてもおかしくないはずです。

防衛研究所の資料では、陸軍当時の滑走路は、1,000mx100mとあるので、

その大きさの地割が残っていないだろうかと じっくりと航空写真を眺めてみました。

航空写真で見る限り、"ダンベル"内は、

斜めに収まっている滑走路以外の部分がほぼ畑に埋め尽くされているようです。

飛行場を畑とすることは終戦直後の食糧事情から全国で一斉に行われた訳ですが、

未舗装ではあっても滑走路部分は地盤を頑丈なものとするため、

石を敷き詰め、転圧し…と様々な地盤改良工事が行われました。

当飛行場もご多分に漏れず同様であり、 資料によれば(後で出てきます)、

滑走路は「砂地の上に約二十糎の赤土□若干の石炭□□敷て転圧」とあります。

また、飛行場敷地の中で滑走路のみ転圧がなされ、カッチカチになっています。

元の滑走路の地割を完全に消して畑にすることは勿論可能なんですが、

飛行場を畑に変えようとする場合、滑走路部分が非常に面倒な訳で、

これが滑走路の地割が残りやすい原因となります。

当飛行場の場合、滑走路が"ダンベル"内に行儀良く収まっているっぽく見える地割も一部あるんですが、

滑走路の向きを変えたことを窺わせるような地割が全体としては乏しいように映ります。

滑走路を畑に変えるには先ず滑走路の地盤改良を崩さねばならず、

新たに滑走路を造る際には、先ず地盤工事が必要です。

"ダンベル"内でちょこっと滑走路の向きを変えることに、

そこまで大変な労力を費やす必然性があるとはとても思えません。

 

2つ目の理由は、「横風成分」です。

これも後で出てきますが、当飛行場の「飛行場記録」によれば、当地の風向きは南風か北風であることが多く、

風向きが滑走路と平行になることは極めて少なかったとあります。

このため、軟弱な地盤と相まって風向きが悪いことについて注意喚起が付されています。

で、仮に滑走路の向きが元々は"ダンベル"の真ん中に行儀良く収まっていて、

戦後その向きを変えたのだとすると、それは横風成分がより強くなる方向にわざわざ変えたことになります。

ということで、オイラの壮大な勘違いかもしれませんが、

「地割が乏しい」、「横風成分」の2つから、わざわざ滑走路の向きを変えた可能性は低いのではないかと。

 

「要図」には長さのデータが記されており、「転圧区域」(滑走路)は前述の通り、1,000x100 とあり、

"ダンベル"は1400x200 とありました。

作図してから測ってみたところ、滑走路は1,050x95、

"ダンベル"は1,470x205 でした。

また、グーグルマップの「兵舎(日産会社室の宿舎)」(青マーカー)、「日産会社」(水色部分)は、

どちらも「要図」に記載されているものです。

「要図」によりますと、飛行場以北の日本海側全面、そして飛行場以南~山陰線の間は、

兵舎と日産会社以外の部分が砂丘として描かれています。

今ではとても想像つきませんが、当時この周囲一帯は、現在の鳥取空港も含め、砂丘に囲まれていたんですね。

飛行場建設の際のご苦労が偲ばれますm(_ _)m 

上記資料内には「要図」の他に「鳥取飛行場記録」がありましたので、以下引用させて頂きます。

判決 自重四頓以下(軍偵級)の飛行機の使用に適す

飛行地区
滑走地区 一〇〇〇x一〇〇(砂地の上に約二十糎の赤土□若干の石炭■■敷て転圧)
舗装路 なし
土質 砂地
地表面の状況 滑走地区にのみ転圧しありて地耐力■■ 他は不可なり
周辺障碍物の有無 飛行場東方に約+50□の砂丘あり

付属地区
誘導路 未完成のまま
宿営 日産会社室の宿舎三棟(約四五〇名収容可)
夜間着陸設備 なし
動力線 なし(日産会社にあり)
電灯線 施線しあり
給水 水道なし 給水極めて不便にして水質も不良

其田
風向 北若は南 (滑走路に平行なる事極めて少し)
   当飛行場使用に当りては地面軟弱且風向悪く注意を要す

資料は直筆なんですが、達筆過ぎてオイラには解読不能な箇所(■部分)が幾つかあります。とほほ(;´Д⊂)


無題3.png
撮影年月日 1964/05/16(昭39)(MCG647X C1 9) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前述の通り、陸軍の鳥取飛行場は戦後勧業建設が継承し、英軍不時着場として使用されていたのですが、

その後1957年に「市営鳥取飛行場」となりました。

そして1964年11月に当飛行場の北500mに現在の「鳥取空港」を建設する許可申請が提出されました。

そして申請提出の翌月、当「市営鳥取飛行場」は廃止となりました。

上の航空写真は現役の市営飛行場当時のもので、廃止まであと7カ月という時期のものです。

また、その上のグーグルマップは陸軍時代と市営飛行場当時のそれぞれの滑走路比較用のもので、

赤が陸軍時代の滑走路跡、黄が市営飛行場の滑走路です。

滑走路中心線はそのままで、東側に少しズラしたんですね。

オイラの作図が正しければ、滑走路は陸軍時代より50m短くなって、1,000mになりました。

このテの空港移転の際は、新空港開港と同時に旧空港閉鎖。というのが自然な流れだと思うのですが、

ここの場合は、1964年12月に「市営鳥取飛行場」を廃止して、「県営鳥取空港」供用開始は1967年7月ですから、

約2年半の間、空白期間があったようです。

DSC_1645_00001.jpg
赤マーカー地点。

陸軍当時はここから奥に向って滑走路でした。

DSC_1646_00001.jpg
黄マーカー地点。

市営鳥取飛行場当時はここから奥に向って滑走路でした(2023/12撮影)。


      鳥取県・市営鳥取飛行場跡地     
鳥取飛行場 データ
設置管理者:福田軽飛行機→日産輸送機→陸軍→勧業建設→鳥取市
所在地:鳥取県‎鳥取市‎湖山町北‎4丁目‎
座 標:N35°31′27″E134°10′39″
方 位:07/25
標 高:12m
滑走帯:陸軍:1,050m×95m  市営飛行場:1,000mx95m
(座標、方位、標高、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1942年    福田軽飛行機が試験滑走路設置(750x30m)
1944年    日産輸送機が継承。陸軍練習機飛行場となる
1945年    勧業建設が継承。英軍不時着飛行場として利用
1957年01月 鳥取市営飛行場設置申請書を運輸大臣に申請
     07月 市営鳥取飛行場(960mx30m)開場
1964年11月 鳥取県営鳥取空港設置申請書を運輸大臣に申請
     12月 市営鳥取飛行場廃止 
1965年02月 旧飛行場の北約500mの現在地に県営鳥取空港の設置許可
1967年07月 県営鳥取空港供用開始(1,200mx30m)

関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日


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コメント 2

tooshiba

県「1964年12月で廃止します!新しい場所に移転します!」→移転先近くの住民「空港要らね!(反対運動が激化)」とかかな?と思ったのですが、運輸大臣への申請が遅かったから工事着工も開港も遅れたのでしょうか。

申請自体が遅いような気がするのは、上記の近隣住民の反対運動?あるいは当時の県知事(県議会)の方針?
by tooshiba (2012-12-28 11:10) 

とり

■tooshibaさん
コメントありがとうございました。
返事が遅くなって申し訳ありません。
by とり (2015-04-20 21:49) 

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