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米子陸軍(米子両三柳)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月訪問 2022/6更新   



無題.png
撮影年月日 1947/10/07(昭22)(USA M515-6 19) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

大正8年 この頃から既にあった

前記事の美保基地の東南東約8.8kmにある米子ゴルフ場と、国道431号線を挟んで南側にある陸上自衛隊米子駐屯地。

かつてこの周辺に「米子飛行場」がありました。

「米子飛行場」がいつからあったのか、ググッてみると、

鳥取県の公式サイト(下記リンク参照)を含む多くのサイト様が、

「昭和13年6月 米子市三柳に『米子飛行場』開港」

としています。

後述しますが、手持ちの資料から米子飛行場の存在は昭和10年まで遡れます。

で、拙ブログでは長いこと「資料から確認できるのは昭和10年~」としていたのですが、

盡忠報國様(下記リンク参照)に頂いた地元市史
 
「新修米子市史 第3巻(通史編 近代)」米子市/2007.2」(以下市史)には、当飛行場についてこうありました。
 
(市史66p)「米子国際飛行場の開設 米子飛行場は、大正八年ごろから陸軍飛行隊の演習に利用されていたが、」
 
大正8年頃から陸軍が利用していたということは、既にその頃にはあったということで、

非常に歴史のある飛行場なんですね(@Д@)

 

昭和8年 陸軍に土地寄附の申し出

盡忠報國様から山陰中央新報(2009/7/10)の関連資料も頂いたのですが、その中では、

1933年(昭和8年)に地元の地主・高木家が陸軍大臣に飛行場敷地寄附願を提出したとあります。

この高木氏の申し出は陸軍に断られてしまい、実を結びませんでした。

国土地理院の地図では、米子飛行場のあった周辺は明治時代まで遡って閲覧できるのですが、

明治から昭和に入るまで、地割はほとんど変化していません。

ということでこの頃まで米子飛行場は、長いこと「地方の小規模飛行場」だったと思うのですが、

高木氏が陸軍に寄附を申し出た翌年以降、当飛行場は時代の激流に巻き込まれてゆくことになるのでした。

 

昭和9年 国際飛行場計画

市史には、「利用されていたが、」に続けてこうあります。

(市史66p)「たまたま昭和九年(一九三四)政府は裏日本における国際空路開発計画をたてたので、市は地元加茂村と協力して当局に陳情、期成同盟会も結成されて、活発な運動が展開され、」

朝鮮、満州との空路開設のため、国際飛行場を誘致する計画が持ち上がったのでした。
 
この計画には隣県の島根県松江市、そして新潟市も名乗りを挙げ、三つ巴の誘致合戦となりました。
 
無題.png
測量年1934(昭9)(108-12-3-4 図名米子) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

昭和9年測量、「国際飛行場候補地」となった頃の米子飛行場です。

ここが飛行場であることを示す文字、地図記号等は特に無いですが、飛行場部分が白抜きになってます。

この地図のドコかに所在地の「加茂村」「両三柳」が書かれてますよ? (o ̄∇ ̄o)フフ

 
 
昭和10年 米子市に決定
 
市史には続けてこの誘致合戦の行方についてこうありました。
 
(市史66p)「松江・新潟両市の競争を抑えて米子市に設置が決定したのである。」

(市史331p) 五 飛行場
 「米子市域には、昭和二〇年八月の太平洋戦争終結を迎えるまで、三柳と大篠津村(昭和二九年から米子市大篠津町)の二か所に飛行場があった。両方とも美保湾・中海・弓ヶ浜の平面に恵まれた広い環境に包まれており、近代の戦時下の国策を時代背景にして完成された飛行場であった。初めに完成されたのが三柳飛行場であった。
三柳飛行場
 米子市北端の三柳にある三柳飛行場の歴史については、昭和一四年刊の『米子自治史』と、昭和四四年刊の『鳥取県史 近代経済篇』とに詳述されている。また、具体的な航空料金等については『なるほど鳥取事始め』に引用もされている。そのうち『鳥取県史 近代経済篇』には次のように大要を紹介している。
 「鳥取県に初めて民間の陸上空港ができたのは、米子の三柳飛行場であった。昭和九年、日・鮮・満を結ぶ航空路の必要が叫ばれ始めた。これを見てとった米子市では三柳に民間飛行場を誘致しようと、遠藤光徳を会長とする期成会を結成し、政府に陳情を始めた。その結果、米子は松江や新潟との競争に勝ち、昭和十年の帝国議会で三柳飛行場の設置が決まった。」

ということで、国際飛行場誘致合戦は米子市に軍配が上がったのでした。

 

防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」

の中に、昭和10年2月当時の当飛行場の資料がありました。

以下引用させて頂きます。

米子両三柳飛行場(昭和10年2月調)
鳥取県西伯郡加茂村大字両三柳

着陸場の状況
高さ 平均水面上約5米。
広さ及形状 拡張計画中の飛行場は弓ヶ浜(夜見ヶ浜)海岸に沿う長さ東
西約1,000米、幅南北約650米の地域なるも現飛行場は其の略北半?中央部の長
さ東西約700米、幅南北約250米の東西に長き約17.8萬平方米の地域なり・
着陸地域は現飛行場内図示の長さ東西約550米、幅南北約100米の東西に細長
き地区なり(付図参照)。
地表の土質 砂礫。
地面の状況 本飛行場は弓ヶ浜海岸に在り・地表は若干の尋常土を混ずる
概ね堅硬なる砂礫地なり・全面に根株大なる雑草類及多少の芝を生ず・現飛行
場の東西両端に在る排水溝及土質の関係上排水良好にして降水長期に亙るも水
溜を生じ又は泥濘と為ることなし・現飛行場の南端より内方約50米迄の地域
一帯は松樹を伐採し其の切株残存せる地域なり此の切株は高さ約15糎内外な
り・着陸地域内は概して起伏及凸凹なき平坦地なるも其の北端の一部に北方に
向け緩除なる傾斜を成す地区あり。
場内の障碍物 着陸地域内にはなし・現飛行場の南端付近に在る切株残存
区域は離着陸滑走上の障碍なり。
適当なる着陸方向 西。
施設 なし。
其の他
本飛行場は米子市営にして両三柳飛行場と呼称す・本場に嘗て(かつて)大朝機大毎機等
離着陸せしことあり。

この頃までは550mx100mの小さな市営飛行場だったんですね。

 
 
 
昭和9年、朝鮮と満州への空路開設に米子市と共に名乗りを挙げた松江市と新潟市(青マーカー)。
 
松江市と新潟市は、具体的にドコを候補地として考えていたのか不明なんですが、
 
それぞれの市内に、当時既にドコか飛行場はなかったか探してみたところ、
 
松江市内には飛行場じゃないですけど、「古志原練兵場」があって、
 
当練兵場では、早くも大正4年には井上陸軍中尉、大正6年にもスミス氏の飛行記録が残っています。
 
また新潟市についてですが、現在の新潟空港は昭和5年に市営飛行場として開場しています。
 
国際飛行場誘致合戦の始まった昭和9年の時点で、両市とも既に飛行可能な施設があり、飛行の実績もありました。
 
上のグーグルマップをご覧の通りで、本土から朝鮮半島へ最短距離で飛ぶとしたら、
 
厳密には福岡県か山口県になるんですが、東京や大阪を経由して行くには、松江市と米子市は好都合の位置に見えます。
 

沿革にもまとめましたが、後に米子が国際飛行場として使用されるようになると、

東京-京城-新京を結ぶ国際線の飛行機が燃料補給を主目的に米子にも飛来し、

「米子」の名は国際航路に載ったのだそうです。

上のグーグルマップでは、当時実際に使用したそれぞれの飛行場をラインで結んでありますが、

東京から新京まで、ほぼ等間隔(おおよそ600km~700km)ですね。

一例ですが、昭和10年頃の陸軍機の航続距離は、足の長さが重要な爆撃機や偵察機でも、
 
800km~1,200km程度でした。
 
なので、東京から新京まで、約600km~700kmごとに中継地があるのは、至極尤もだと思います。
 

一方の新潟は、満州なら場所によっては他の2候補より距離が短くなるかもしれませんが、
 
朝鮮、満州の目的地に直行するには、延々洋上飛行しなくてはなりません。
 
新潟~京城間は1,070km、新潟から朝鮮半島の海岸線までは最短でも860kmあり、
 
横風、向かい風があれば、その分見かけの距離が増えることになります。
 
これでは恐らく、性能ギリギリ、無事たどり着けるかどうかは風次第の冒険洋上飛行になってしまうはずで、
 
お客さんを乗せての定期便としては、余りにリスクが高過ぎです。
 
それではと、危険を伴う長距離の洋上飛行を避け、新潟から途中までは本土の日本海沿岸を飛行するとすると、
 
その分遠回りになって、多分米子辺りで給油が必要になってしまいます。
 
これでは、朝鮮、満州への飛行場をわざわざ新潟に設ける意味が薄れますし、
 
松江、米子と比較すると、なんだか新潟だけ突飛な気がするんですが、
 
余程強引な捻じ込み熱烈なプッシュでもあったんでしょうか??
 
 
 
 
昭和11年 建設開始
 
(市史67p)「総工費二二万円、うち半額国庫補助、県費三万円の補助があり、市は八万円を負担した。この八万円には、灘町の後藤彦三郎、加茂村の高木鉄三、地元加茂村の寄附が含まれている。」
 
市史には建設費用の分担について、総工費22万円のうち、半分が国庫補助とあります。
 
高木氏が登場しますが、これは陸軍に土地の寄附を申し出た高木家と同一かも。
 
但し、市史にあるのは土地の寄附ではなく、お金の寄附についてです。
 
 
蛇足なんですが、現代の地方管理空港も滑走路の建設費の半分は国庫で賄われ、残る半分を地方自治体が負担します。
 
からくりを説明すると長くなってしまうので割愛しますが、
 
この地方自治体負担分も、その大部分は国から補填されます。
 
地元自治体にとっては非常に造りやすいしくみになっており、
 
やけに立派な地方空港がドカドカと作られたのでした(でも維持は大変なので後々苦労する)。
 
 
話を戻します。
 
(市史67p)「十一年七月、起工式が挙げられた。

 飛行場は、総面積七二.八万平方キロメートル、北方海岸に防風林を設け、有効面積四一.七万平方キロメートルに及ぶ広
大なものであった。その整地のため、市内陽田町まで七キロメートルの軽便鉄道が設けられ、ガソリン機関車四両、土運搬車二一〇両が運転され、学童らによる勤労奉仕も行われた。」

(市史331p)「ついで十一年五月一日から工事が始まり、」

いよいよ建設が始まりました。

(市史の面積の表記が若干トンデモナイことになってます^^;)

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6,7コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-松江
区間 大阪-鳥取間 毎日一往復
   鳥取-松江間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  米子飛行場
経営者  米子市
所在地  鳥取縣西伯郡加茂村両三柳
水陸の別 陸
滑走区域 東西約九四六米 南北約七〇三米
備 考  (記載無し)

昭和12年 完成、陸軍による土地買収計画

(市史331p)「翌十二年七月には完成をみた。」

昭和12年に完成したんですね。

ところが米子国際飛行場建設の話は、「完成しました。めでたしめでたし」で簡単に終わりません。

ここまでは地元市史を軸に話を進めたんですが、ここからアジ歴に出てくる陸軍の動きも入ります。

実は飛行場が完成したこの年、陸軍が当飛行場の土地買収を計画し、翌年以降実際に土地買収をしています。

昭和8年に土地寄附の申し出を断った陸軍がなぜ急に土地買収の動きに出たのか、

陸軍が購入したのは具体的にどの部分なのかについては、明確な資料が見当たりません。

それでも、ある程度推測することはできます。

アジ歴で検索しますと、「米子集中飛行場敷地買収の件」という文書がヒットします(下記リンク参照)。

17pから成るこの資料は、陸軍による米子飛行場敷地買収に関わるやりとりについて綴ったもので、

先ず、昭和12年12月2日「米子集中飛行場敷地買収の件伺」が作成されました。

この文書では、

地目 田・畑・山林・原野・墓地・宅地 計94,103坪 国有地1,003坪
買収価格内訳 土地代・家屋移転補償金・墓地移転補償金・桑園移転補償金・水利保証金・村道拡幅保証金
計86,432円075

とあり、以下盡忠報國様の分析なんですが、

次いで昭和13年、昭和14年に実際に土地買収をした際の文書も綴られています。

昭和13年4月30日 米子集中飛行場敷地買収の件報告
買収面積 63,448坪
金額 55,951円70

昭和14年4月17日 米子集中飛行場敷地買収の件報告
買収面積 30,114坪64
金額 28,880円

昭和12年の計画段階の数字と、昭和13,14年実施の数字をそれぞれ合計してみると-

昭和12年の計画段階合計
95,106坪
86,432.075円

昭和13年,14年実施合計
93,562.64坪
84,831.70円

となります。

面積、金額共にほぼ同数であり、辻褄合ってます。

計画段階よりちょっとお安く済みましたね(*´∀`*)

 

ところで陸軍は、前述の通り昭和8年に地元からの土地寄附の申し出を断りました。

ところがそれから僅か4年後には、わざわざお金を出して土地を購入しました。

地元関係者の間では、「あの時素直に受け取っていればね~」なんて話してたりして。。。

寄附の申し出のあった土地が陸軍にとって飛行場適地でなかった可能性もあるのですが、

「昭和12年7月7日に勃発した支那事変の影響が大きかったのではないか」。と盡忠報國様に教えて頂きました。

盡忠報國様によりますと、この時国内の陸軍飛行部隊は臨時航空兵団隷下に編入され北支に展開しますが、

当時は未だ複葉機が主力であり、天候不良などで集結が遅れた経緯があるのだそうです。

「米子集中飛行場敷地買収の件」は、関連する文書を綴ったものだと述べましたが、

昭和12年の計画段階の文書は、

「昭和十二年十月五日 陸支普第五三九號に依り取得を要すべき(土地)」なので購入したい。

という文言で始まり、

昭和14年の買収実施の際の文書も、

「昭和十二年十月五日 陸支普第五三九號に依り取得を要すべき(土地)」なので購入した。

で始まっています(下線はオイラが付けました)。

どうやら陸軍による米子飛行場の土地買収は、

昭和12年10月5日の「陸支普第五三九號」が拠り所っぽいです。

時系列で並べてみると-

昭和12年
7月 支那事変勃発
10月 陸支普第五三九號
12月 米子集中飛行場敷地買収の件伺
昭和13年、14年
土地買収

このように、支那事変以降矢継ぎ早に土地買収の動きが進められてタイミングも合っており、

当初は「寄附されても要らない」という意向だった陸軍が豹変したのは、やはりこの支那事変が大きいのではないかと。

では、陸軍が買収した土地は飛行場のどの部分でしょうか?

残念ながら、「陸軍が購入した土地はここ!」と明示する資料は見つからないのですが、手掛かりは幾つかあります。

先ず、陸軍による土地買収前の飛行場の面積と、陸軍が買収した土地の面積を比較してみます。

盡忠報國様は昭和12年の「米子飛行場平面図」を所有しておられ、その中では説明として、

「飛行場は総面積72万7220平方メートル(22万坪)で、(中略)有効面積41万7530平方メートル(12万6303坪)を整地」

とあります。

対して陸軍が実際に購入したのは、昭和13年、14年合計で9万余坪でした。

飛行場総面積(22万坪)と比較すると、陸軍が購入した土地は半分にも達していません。

次に、陸軍が土地を購入したタイミングと支払い項目について。

支那事変が勃発した昭和12年7月は、奇しくも米子飛行場が完成した月でもあります。

飛行場完成、そして支那事変から5ヵ月後に陸軍が土地買収計画の文書を作成していること、

地目に田畑、墓地等が含まれ、家屋等の移転補償費が計上されていること、

実際の支払いが飛行場完成の翌年以降であったことからすると、

陸軍が買収したのは、既に完成している飛行場敷地そのものではなく、

飛行場敷地に隣接する部分であり、飛行場の拡張こそが陸軍の目的であったと思います。

 

この点についても、盡忠報國様から情報いただきました。

前出の米子飛行場平面図から、陸軍が買収手続きを開始する前の飛行場の形と面積は分かります。

一方、アジ歴「米子飛行場規定(昭和20年作成)」には、

昭和20年当時と思われる米子飛行場の要図があるのですが(下記リンク参照)、

昭和12年完成時よりこちらの方が大きくなっています。

盡忠報國様は、昭和12年当時より広くなった箇所を航空写真等で特定して面積を割り出し、

これが、陸軍が購入した土地の面積とほぼ同じであることを突き止めておられます(@Д@)スゲー

 

余談ですが、10月5日の「陸支普第五三九號」そのものの内容は、いろいろ検索してみたのですが不明です。

それでもアジ歴で「陸支普第五三九號」で検索すると、いくつか関連資料を閲覧することができます。

その中に、

「大邱陸軍集中飛行場敷地買収の件」
「群山飛行場敷地買収の件」

という2つの資料があり、作成時期は昭和12年11月、12月で、これは米子飛行場と同時期です。

内容は、「陸支普第五三九號に関係して同飛行場土地を買収し、陸軍用地に編入せよ」で、これも米子と似ています。

「陸支普第五三九號」遂行のために、米子、朝鮮の大邱と群山の陸軍飛行場の土地買収を実施したことからすると、

「陸支普第五三九號」の目的は、「本土と朝鮮(満州)間の航空輸送を充実するための、陸軍飛行場増強」ではないかと。

支那事変の際発生した航空機の展開もたつきを改善するには、

先ずは運用する航空機の性能向上が必須であり、

性能を向上させた航空機の運用には、それに見合った飛行場の広さが求められます。

飛行機は戦時中に、高速化、大型化の面で長足の進化を続け、それに伴い必要な滑走路の長さも伸びてゆきました。

このため、「必要な滑走路の長さ」は、運用機、時代により変わる相対的なものでした。

戦史叢書97巻50pに、ちょうど昭和12年11月規定の陸軍の飛行場の規格が出ていました。

昭和十二年十一月、陸軍航空本部は「飛行場設備教育規定」を定めた。(中略)滑走路地区は、小型機用500x100メートル、中型機用700x150メートル、大型機用一,000x三00メートルを基準とする。(中略)根拠飛行場は季節の交感を最小限にするため、舗装を必要とするが、経費の関係上これを最小限にとどめる。

一方米子飛行場はといいますと、昭和12年「市営飛行場」として完成した当時は、敷地最大幅910mx700mだったのが、

昭和20年の「陸軍飛行場」の時には、敷地最大幅1,200mx900mまで拡張していました。

そして、東西幅1,200mを確保した上で、滑走地区は、1,000mx70mとしていましたので、

上記規定からすると、陸軍は米子飛行場を大型機用の大きさに拡張したことになり、

朝鮮、満州への空路充実への本気度が伺えます。

長々となってしまいましたが、「陸支普第五三九號」により、本土側だけではなく、

同時に朝鮮側の飛行場も拡充の運びとなったのでした。

(満州側の飛行場をどうしたかについての具体的な資料は見つからないんですけど)



昭和13年 完工式と公告

(市史66p)工事は「支那事変」勃発のため遅れたが、同一三年(一九三八)六月、航空機乗員養成所の開所式とともに盛大な完工式が挙行された(資料四八)。」

(市史331,332p)「やがて十三年六月には七百二十八町歩の飛行場に逓信省の航空機乗員養成所もおかれた。」

昭和11年5月工事開始→7月起工式→昭和12年7月完成→昭和13年6月完工式 という運びだったんですね。

逓信省の施設が置かれたともあります。

昭和8年に高木氏が陸軍に土地を寄附しようとして断られたのは前述の通りなんですが、

実は陸軍に断られた高木氏は、逓信省に対しても同様の申し出をしています。

高木氏が寄附しようとした土地が具体的にドコだったのか、
 
そして国際飛行場建設の際、その土地が使われたのかについては、市史でも特に触れていません。
 
もしかして、逓信省の敷地は高木氏の寄附した土地なのかも(個人の感想です)。  

 

ところで飛行場の所在地についてなんですが。

「市営なんだから、飛行場があるのは当然米子市内なんだろう」オイラはそう思い込んでいました。

ところが水路部資料には所在地として、「鳥取県西伯郡加茂村大字両三柳」とありますΣ(゚Д゚;)

Wiki/米子市 によりますと、「1938年(昭和13年)3月17日 西伯郡加茂村を米子市に編入合併。」

とあり、現在は「米子市内にあった米子飛行場」でスッキリしているんですが、
 
昭和13年3月までは、「米子市の中に加茂村も含んでいる」とかではなく、
 
米子市と加茂村は物理的に別々だったんですね。
 
加茂村内にある飛行場適地を米子市が借り受け、市で運営していた。ということでしょうか。
 
運営する自治体と、飛行場の所在地が異なるケースもあるんですね~。
 
そして完工式が行われた昭和13年6月、官報に公告が出ました(下記リンク参照。情報:盡忠報國様より)。
 
官報. 1938年06月13日
逓信省告示第千八百八十八號
左記飛行場の設置を許可せり
昭和十三年六月十三日
逓信大臣 永井柳太郎
一、設置の目的 
公共用
二、経営者の氏名又は名称及住所
米子市
三、用地所有者の氏名又は名称及住所
米子市
四、陸上、水上又は水陸両用飛行場の別
陸上飛行場
五、設置期間
自昭和十三年六月一日至昭和二十一年六月三十日
 
この年の3月17日に加茂村は既に米子市に編入合併済みですから、
 
経営者、用地所有者はどちらも晴れて米子市です。
 
こうして米子飛行場は、 国際線の運用を最初から意図した市営の公共用飛行場として、改めてスタートしたのでした。
 
しかし市が国際飛行場を運営って、凄いですね。
 
 
前述の通り、市史では当飛行場の歴史は大正8年まで遡れるのですが、
 
鳥取県の公式サイトを含め、多くのサイトが米子飛行場はあたかも昭和13年に出現したかのように扱っており、
 
それ以前については触れていません。
 
「昭和10年、まだ米子に飛行場がなかった頃に~」的な書き方をされているサイト様もあります。
 

それまでは施設もない550mのささやかな規模であり、

昭和10年に当飛行場を紹介している水路部資料の題名も「中国及四国地方不時着陸場」です。

「昭和12年までは未だ飛行場と呼べるレベルではなく、正式に開港したのは、昭和13年である」

という扱いなんでしょうか。


 
昭和14年 逓信省との土地交換と路線開設
 

ここでちょっと米子飛行場の帰属問題について。

ネットでは、米子飛行場の帰属に関して情報が錯綜しているのが現状です。

前述の通り、昭和10年刊行の水路部資料、昭和13年の官報、それに地元市史では、

米子飛行場をハッキリ「市営飛行場」としているのですが、

「米子市営飛行場」等でググっても、ヒットするのは現在の米子空港ばかりで、

「市営」とスッキリ謳うサイトはヒットしません。

昭和13年に逓信省の乗員養成施設も設置されたからなのか、
 
米子を「逓信省の飛行場」として扱っているサイト様が散見される他、
 
「乗員養成所が置かれた米子飛行場」とか、陸軍の飛行場として扱うサイト様も結構多いです。
 
オイラとしては、少なくとも昭和13年までは、米子飛行場は正真正銘市営の飛行場だったと考えているのですが、
 
アジ歴で米子飛行場を検索すると、非常に気になる文書がヒットします。
 
「土地相互管理換の件」という文書で、昭和14年7月作成の陸軍省と逓信省のやり取りを綴ったものです。

この文書の中で、陸軍大臣から逓信大臣に対し、

「米子陸軍飛行場内にある逓信省所管の土地は飛行場用地として必要なので、相互管理換しましょう」

と記されていて、「具体的にこんな感じで交換しましょう」と持ちかけています。
 
逓信省所管の土地 1,063坪53 1,201円78
陸軍省所管の土地 1,064坪53 1,202円91
 
陸軍の側が面積も金額も、ほんの少しだけですが、損する形で提示してますね(*´∀`*)ホッコリ
 
これに対して翌月、逓信大臣から「了承」と返事がきています。
 
わざわざこの文書を取り上げたのは、別にホッコリするためではありません。
 
注目すべきは、陸軍大臣が逓信大臣に対して、ハッキリと「米子陸軍飛行場」と表現している点です。
 
この当時、民間の航空行政は逓信省が管轄していました。
 
前年の昭和13年、逓信大臣名で、「米子飛行場は市営の公共飛行場である」と公告が出ましたから、
 
昭和13年の時点では、米子飛行場は公告通り「市営の公共飛行場」だったのでしょうが、
 
仮に昭和14年時点でも米子飛行場が全面的に「市営の公共飛行場」だったとしたら、
 
土地交換して欲しい陸軍省が逓信省に対し、「米子陸軍飛行場」なんて言い方はあり得ないはずです。
 
前出の通り、昭和12年に陸軍は米子飛行場の土地買収に動き出します。
 
この時の陸軍が作成した文書の中では、「陸軍飛行場」という言葉は用いられておらず、
 
代りに「米子集中飛行場」という名称が頻繁に出てきます。
 
そして予定していた土地の買収が完了し、米子飛行場に陸軍飛行場としての実体が備わったのが昭和14年。
 
ここで陸軍は逓信省に対して件の文書で、「米子陸軍飛行場」という名称を用いています。
 
 
アジ歴に出てくる米子飛行場関連の文書はここまで2つご紹介しましたが、
 
アジ歴で「米子飛行場」、「米子陸軍飛行場」、「米子集中飛行場」で検索すると、
 
以下7つの文書がヒットします。
 
昭和12年12月 米子集中飛行場敷地買収の件→陸軍飛行場という表現なし。「集中飛行場」のみ
昭和14年07月 土地相互管理換の件→陸軍飛行場という表現が用いられる
昭和14年12月 米子集中飛行場内陸軍用地1部無償使用の件→陸軍飛行場という表現なし。「集中飛行場」のみ
昭和15年09月 米子陸軍飛行場土地建造物引継に関する件
昭和15年10月 米子陸軍飛行場拡張並補修其他工事の件
昭和15年11月 米子陸軍飛行場建物使用許可の件
昭和20年06月 米子飛行場規定
 
これらの文書は全て陸軍絡みで、陸軍同士、若しくは陸軍と逓信省、陸軍と大蔵省とのやりとりです。
 
繰り返しになってしまいますが、昭和14年7月の文書で、逓信省に対して堂々と「陸軍飛行場」と書いたのに、
 
その5ヵ月後の昭和14年12月の文書件名は「米子集中飛行場内陸軍用地1部無償使用の件」となっていて、
 
ここでまた「集中飛行場」と出てきます。
 
実は、かなり専門的な2つのサイト様が当飛行場について(根拠は不明ながら)、
 
「昭和16年に陸軍飛行場になった」、「昭和16年に陸軍が徴用した」としています。
 
実は現在の八尾空港、逓信省航空局米子航空機乗員養成所阪神分教場として搭乗員の訓練を行っていたのですが、
 
奇しくも昭和16年に陸軍飛行場になっています。
 
また、
 
・防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日 
・「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧
 
この2つの資料では、昭和20年現在、「米子は陸軍の飛行場」という扱いになっています。
 
こうしたことからすると、米子飛行場は昭和13年までは「市営飛行場」だったものの、
 
土地買収等、徐々に陸軍飛行場としての性格が強まってゆき、昭和16年にはすっかり陸軍飛行場になった。
 
ということなのかも。
 
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、もっと具体的な日付が出てました。
 
「1941年4月11日 陸軍飛行場として収容人員200名」
 
とありました。
 
この時、なにがどうなったのか不明ですが、ともかく昭和16年4月11日に全面的に陸軍飛行場になったのかも。
 
 
 
米子飛行場の帰属問題はひとまず置いといて、市史によりますと、この年いよいよ路線が開設しています。
 
(市史332p)「この飛行場は、大陸への最短コースであったので国際飛行場とされた。
 ついで十四年十月十日以降、米子-大阪間に国内空路が開かれた。時速二百二十キロメートルのビーチクラフト
機は、操縦士のほか四人の旅客と郵便・貨物をのせ、山陰の大空に初の銀翼を輝かせることとなった。」
 

 
 
昭和15年 国際線開設

(市史332p)「さらに十五年四月一日からは、内・鮮間の日本海横断空路が開かれた。そして大日本航空の双発機ダグ
ラスD・C三型二十五人乗りが京城との間を就航した」
 
国際線も開設されたんですね。
 
また、アギラ様から頂いた情報なんですが、
 
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
 
の中で、米子中學校グライダー部が「米子飛行場」を使用していたという記録が残されています。
 
国内線、国際線が飛び、陸軍機、逓信省航空局の養成所もありましたから、訓練機も飛び、
 
更に学生グライダーも飛んでいたんですね(@Д@)
 
 
実はこの昭和15年の情報を最後に、地元市史、アジ歴、ネット情報、手持ちの資料でも、
 
昭和20年まで何の情報も無く、ポッカリと空白期間になっています。
 
翌昭和16年には陸軍飛行場になっていたとすれば、その後の戦局の悪化も相まって、
 
昭和15年頃までが米子飛行場の最も華やかなりし時だったのかもしれません。
 
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/10,000 米子飛行場 がありました。
 
要図は本当にごく簡単なものなので省略。
 
位置
 米子市々役所北方六粁 弓ヶ浜海岸にあり
積量
 約二十七万坪
地表の状況
 砂地の上に三寸―五寸粘土性の土を積土し搗固したるものにして陸軍
 拡張部を除き他は平坦にして固く滑走路以上なり
周囲の状況
 是より東方、西方、南方に特別地区を設定中にして遠からず障害
 物を除去する筈、現在に於ても大型機の離着陸に支障なし
気象
 三月より十一月迄は天候概ね良好一ヶ月平均飛行日数十三日間
 あり 橇を使用せば二十日位は飛行し得 風速最大六十四.五米
山林
 東方及西方の森林は「ダグラス三型」級の離着陸には稍障碍をなす
 も其の他のものには支障なし
交通
 米子駅下車飛行場迄バスあり

 
 
昭和20年 戦後の米子飛行場
 
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  米子
位 置   鳥取県米子市
規 模   要図(東西1,200 南北900 恒風北西)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二〇〇名分
 格納施設 飛行機庫五棟
摘 要   施設官有

 
(市史332p)
 「付記すれば、昭和二〇年八月十五日の終戦を迎えてから一〇日後のことであった。南京政府の最後の
主席陳公博一行を乗せた一機の陸軍MC輸送機が着陸した。米子で亡命の一夜を明かし、翌日は浅津温
泉へ向かった。陳公博一行が再び米子に来訪したのは、一と月ばかり後日の一〇月二日のことであった。
迎えにきた中国機は美保飛行場に到着しており、美保飛行場から中国へ帰国した。二つの飛行場は、国
際的な終戦秘話も伝えている。」
 米子飛行場は終戦後は占領軍に接収されたが、昭和三三年大蔵省へ返還され、次いで三五年に米子市
へ全面返還された。

 

D20_0081.jpg

米子ゴルフ場。

隣接する弓ヶ浜公園から撮りました。


      米子陸軍(米子両三柳)飛行場跡地      

米子陸軍(米子両三柳)飛行場 データ

設置管理者:米子市→逓信省?→陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鳥取縣西伯郡加茂村両三柳(現・米子市‎両三柳‎)
座 標:N35°27′42″E133°19′34″
標 高:5m
着陸帯:550mx100m→1,200m×900m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1919年 この頃から陸軍飛行隊の演習に利用されるようになる
1933年 地元地主の高木氏、飛行場敷地寄附願を陸軍に、次いで逓信省に出す(山陰中央新報)
1934年 政府は裏日本における国際空路開発を計画。米子市、当局に陳情、期成同盟会結成
1935年 帝国議会にて、三柳飛行場設置決定
1936年 5月1日工事開始。7月起工式
1937年 7月完成
1938年 「米子飛行場」開設
     東京-京城(現在のソウル)-新京(現在の長春)を結ぶ国際線が燃料補給を主目的として飛来
     6月、逓信省航空局乗員養成所開設。盛大な完工式。民間パイロットが養成された
1939年 10月10日、米子~大阪間定期便開設。ビーチクラフト機就航(山陰中央新報)
1940年 3月 東京-米子-京城-新京試験飛行(山陰中央新報)
     4月1日、内・鮮間横断空路開設。大日本航空DC3就航
     またこの頃米子中學校グライダー部が当飛行場を使用していた
1941年 4月11日 陸軍飛行場として収容人員200名(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」より)
1945年 7月24,25,28日空襲。三日間で100発以上のロケット弾
     8月 特攻隊が編成され訓練が続く最中終戦。米軍に接収される
1950年 警察予備隊米子部隊発足
1958年 大蔵省に返還
1960年 米子市に全面返還 

関連サイト:
盡忠報國様開設ブログ:大日本者神國也 
官報. 1938年06月13日 / 遞信省 / 第1888号 / 米子飛行場設置 
アジ歴/米子集中飛行場敷地買収の件 
アジ歴/米子飛行場規定 
鳥取県空港港湾課/沿革 
ふるさと米子探検隊 
ブログ内関連記事      

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)
「新修米子市史 第3巻(通史編 近代)」米子市/2007.2
山陰中央新報(2009/7/10)
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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コメント 10

tooshiba

ゴルフ場に転用ってことですか?
軍施設の遊び場としては標準装備の代物ですが>ゴルフ場(国内にも米軍オンリーの施設がまだ残っています)
現在の米子駐屯地も合わせて米軍(GHQ)が接収→米軍(GHQ)がゴルフ場に転用→返還後もゴルフ場のまま
とかでしょうか。
by tooshiba (2012-12-20 15:22) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tooshibaさん
跡地が戦後どうなったかについてですが、
「昭和25年8月、旧逓信省航空機乗員養成所跡地に米子市議会が警察予備隊の駐屯を要請」
という記録しか発見できませんでした。
終戦から5年間、ここがどうなっていたかが不明です。
戦後飛行場は米軍に接収されるケースが多い訳ですが、当跡地については接収されたという記録を見つけることができません。
少し前にtooshibaさんが、跡地に経った病院のサイトに「ここは昔飛行場であった」と詳しく書かれていることを教えてくれましたが、
当ゴルフ場公式サイトにはそうした点が触れられていません。
戦後はしばらくの間ほったらかしだったのかもしれないですね。
by とり (2012-12-21 05:21) 

鹿児島のこういち

警察予備隊を申請ですか?戦後の混乱期にほっておかれましたかね?(^^ゞ
by 鹿児島のこういち (2012-12-21 18:45) 

とり

■鹿児島のこういちさん
そうなのかもしれないですね。
返事が遅れてしまい申し訳ありません。
by とり (2015-04-20 18:21) 

アオキ

鳥取市在住の者です。どうかご教示ください。
陳公博の亡命について調べています。
①彼らが米子飛行場に飛来した際、搭乗していた「МC機」とは双発機の「三菱МC-20輸送機」と理解して良いでしょうか。
②『日中終戦史話』(小川哲雄)には同機は滑走路ぎりぎりで止まったというような記述がありますが、米子飛行場の滑走路は同機の着陸には距離不足と考えてよろしいでしょうか。
以上、よろしくお願いいたします。


by アオキ (2020-06-17 05:41) 

とり

■アオキさん
①そうだと思います。
実際に製造された国産機で"MC"がつくのは、もう1つ、MC-1がありますが、
こちらは1927年に1機だけ競争試作された単発複葉機でした。
終戦時まで残っていたか不明なのですが、残っていたとしても、
超VIPの渡洋輸送には不向きかと。
「三菱МC-20輸送機」は緑十字飛行にも使用されましたので、
恐らく間違いないと思います。

②(МC-20前提ですが)こちらもそうだと思います。
終戦時の米子飛行場は1,200mでした。
これは一般に戦闘機の長さです。
飛行地区を斜めに使用しても、
実質1,300m程度だったはずで、
双発機には相当厳しかったはずです。
by とり (2020-06-17 06:40) 

アオキ

丁寧な回答ありがとうございました。重ねてお尋ねします。
①『日中終戦史話』には、着陸の際「東北角から進入」とありますから、風向きなどを考慮し、かつ滑走路を斜めに滑走して、できるだけ安全に着陸しようとしたと断定して良いでしょうか。
②米子飛行場の滑走路が双発機に不適とすれば、なぜ海軍美保基地を利用しなかったのでしょう。『日中終戦史話』にその辺りを検討したような記述は見当りません。ちなみに陳公博一行を連行するために飛来した中国軍機C-47は海軍美保基地に降り立っています。
③『昭和史の天皇』(読売新聞社)には陳公博一行が米子に降り立った後、МC機が再び南京へ帰ったと書かれています(機影を見ていない。エンジン音のみの描写)。同機は南京から直接米子に来ていますし、終戦後間もない米子飛行場で給油は考えられませんから、私は変だと思います。どうお考えでしょうか。なお、『日中終戦史話』にはそのことは触れられていません。
以上、よろしくお願いします。

by アオキ (2020-06-18 05:48) 

とり

■アオキさん
現在専門家に問い合わせ中ですので、
少々お待ちくださいませ。
by とり (2020-06-18 17:16) 

とり

■アオキさん
お待たせ致しました。
専門家の方(ブログ:大日本者神國也 http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/)
から以下の通り回答頂きましたので、お知らせいたします。

質問コメント、拝見いたしました。
まず①についてですが、『米子飛行場規定』のP13「付図」に「夏」として北東からの矢印が記載されています。
中央の文字(恒◯?)がよく分かりませんが恐らく夏場はこの方向から着陸する指示と思われます。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000218093

②についてですが、確かに美保との検討はありませんが、「たまたま山陰の飛行場なら目立たない」との記載があり、
また一行を誘導した小川哲雄氏(『日中終戦史話』の作者)ですが素性は支那派遣軍總司令部の主計中尉である事から、
当時はまだ連合軍接収前で海軍管理の美保では無く、陸軍管理の米子を選択した事は必然と思います。

③についてですが、「MC機が米子で給油ができないはず」という事でしょうか?
MC20の航続距離は2,000~3,000kmあり、googleで南京-米子飛行場の距離を図ると1,300kmなので、ギリギリ往復できる距離と思います。
また、米子飛行場は陸軍管下にあり燃料補給も可能だったのではと思います。
by とり (2020-06-19 13:57) 

アオキ

とても参考になりました。感謝します。
by アオキ (2020-06-20 03:02) 

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