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本田飛行場(本田飛行学校、住吉飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年11月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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1/25000「加治木」昭和7年修正・昭和10.11.30発行「今昔マップ on the web」より作成 

鹿児島県‎霧島市にあった本田飛行場(本田飛行学校、住吉飛行場)。

国分出身の本田稲作氏が大正13年、干潟に造った飛行場です。

子どもの頃、地元でアート・スミスの曲芸飛行を見た本田氏は、

16才で群馬県の中島飛行機に入所します。

そこからのヒコーキ人生について、「南国イカロス記 かごしま民間航空史」77p以降に記されていました。

 大正九年(一九二〇年)一月十六日、国分市の本田稲作が、改称したばかりの中島飛行機製作所
のエンジン運転工として入所した。満十六歳になったばかりの少年工だから、日給わずか五十銭
であった。一日も休まず働いて、月額十五円である。もし操縦練習をするとなると、一分間二円、
一時間百二十円となり、気の遠くなる金額だが、本田稲作もまた小川三郎に負けずに挑戦するよ
うになる。
 本田稲作は、明治三十七年(一九〇四年)十二月八日、国分市中央(中略)、大地主・本田三之助、
栄(えい)の四男として生まれた。
 本田稲作は、中島飛行機製作所に入所したことで、郷里の先輩・小川三郎と懇意になった。ア
ート・スミスの飛行を間近に見学して燃え上がった大空への夢が、共通の願いをひた走る八歳年
上の小川三郎と出会ったことにより、さらに熱を帯びることになる。


「南国イカロス記 かごしま民間航空史」によれば、

この後本田少年は、昼は中島飛行機で勤務し、夜は小川三郎の助手として、「小川式5号機」の製作を手伝いました。

これは破損した中島式1型2号機の骨組みを利用して改良したものでした。

完成した「小川式5号機」の試験の合間に小川氏は本田氏に地上滑走を教えました。

(小川三郎氏については、拙記事 に若干記してあります)

「小川式5号機」の試験を終えた後、機体は貨車で鹿児島に送り、郷土訪問飛行を実施します。

小川氏はそのまま地元に留まり、飛行学校を開設、

郷土訪問飛行を手伝った本田氏は、大正十一年(一九二二年)一月、

友人の横口季則とともに上京し、小栗飛行学校に入学します。

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」108p

 本田稲作が入学したとき、七、八人の練習生が在学していた。飛行機は小栗式A-1号カーチ
ス九〇馬力練習機のほかに、伊藤飛行機研究所に発注して製作した伊藤式恵美第20型小栗号ル・
ローン八〇馬力練習機を所有していた。むろんいずれも堪航(たんこう)証明書を交付された機体
である。
 本田稲作にとって安昌男は師にあたるが、奇妙にウマがあって親友づき合いが続くようになる。
本田稲作は小栗式A-1号に八時間同上練習した後、初単独を許されるのだが、そのころ、つま
り大正十一年夏、安昌男が京城で郷土訪問飛行をすることになり、本田稲作の同行協力を依頼し
た。五月九日付で二等飛行機操縦士になったので、おそらくそれを祝っての訪問飛行であったろ
う。十八歳の本田稲作は、安昌男のために裏方役を引き受け、まめまめしく働いた。朝鮮半島出
身操縦士第1号ということで、朝鮮総督府や東亜日報社が積極的に応援してくれ、盛会であった。
(中略) 
小栗飛行学校の安昌男が、帝国飛行協会主催第四回懸賞飛行競技大会で
二等に入賞してから三か月後の大正十二年(一九二三年)九月一日、関東
大震災が発生した。東京、横浜は火炎に包まれ、人畜の被害がはなはだしかった。
 本田稲作が在籍する小栗飛行学校や、朝日新聞社・東西定期航空会の根拠地である洲崎埋立地
は、震災後津波に襲われて水浸しになったばかりか、真っ先に火の手がのびて焼け野が原になっ
てしまった。とはいいながら、安昌男の中島式5型機はほとんど無傷で生き残った。(中略)
二人で千葉県津田沼の伊藤音次郎を訪ねた。津田沼はほとんど震
災の被害はなかった。二人は伊藤飛行場の使用許可をもらいにいったのだ。伊藤音次郎はこころ
よく承知してくれたので、以後、安昌男の中島式5型で飛行訓練を続け、稲作は三等飛行機操縦
士の免状をもらうことが出来た。
 ある日、伊藤音次郎が、本田稲作が国分の実家にあずけてあるという横廠式ロ号水上偵察機と、
伊藤所有のアプロ式504K型機二機と交換してくれないかといい出した。伊藤門下の井上長一
が運航している堺大浜-四国・徳島間の定期航空に同型機を使っているので、その予備機として
ほしいというのだ。好条件なので、一も二もなく承知した。
 一方、安昌男は日本国粋団員と称する者から、朝鮮独立運動に関係しているだろう、とおどさ
れ、金品をゆすられるようになったので、安だけひそかに東京に帰って身をひそめた。そうする
うち、いつまでもこのまますませられないので、中島式5型機を処分して、京城へ帰りたいとい
い出した。
 すると本田稲作も、いっそのことこれを機会に自分も郷里へ引き揚げ、郷里の空で飛んでみよ
うという気になった。

本田飛行学校
故郷の空を曲芸飛行
大正十二年(一九二三年)の暮れ、東京から引き揚げて郷里の空で飛ぶ決
意をかためた本田稲作は、橋口季則、須藤正信、小野清次らに打ち明け
て、協力してくれ、というと、旧友たちはそろって「いいとも」と答えた。若さがみなぎってい
て、こまかな計算をしている余裕などなかったのだ。そこで伊藤音次郎と交換したアプロ式50
4K型機二機を貨車積みにし、国分の実家へ向けて発送した。
 人間と飛行機が実家に到着すると、取り敢えず一機、組み立てにかかった。するうち東京在住
の佐藤慶三が、ル・ローン一二〇馬力発動機を入手し、それを携えて姿をあらわした。そこで庭
先で試運転をしたところ、初めて間近に見た近所の人たちは大騒ぎをした。
 飛行機の準備をしながら、飛行場の選定をしたが、結局、姶良郡西国分村(現・隼人町)住吉の
海岸とし、格納庫を建設した。
 対外的な事は、従兄の市成二雄と友人の橋口季則が担当し、県、市、郡、町村役場をまわり
協力を求めた。予想以上の好結果に、二十歳になったばかりの本田稲作は、希望がいよいよ大き
くふくらんでいった。
 飛行場開きには、一等飛行機操縦士になった安昌男のほかに、静岡県出身の櫛部喜男(くしべ・
よしお)二等飛行機操縦士も応援にきてくれることになった。櫛部は本田稲作より一つ年下の十
九歳だが、大正十二年七月二十八日、航空局陸軍委託第3期操縦生の課程を卒業すると同時に、
航空局に雇員という資格で勤務していた。大正十三年七月までには、一等飛行機操縦士の免状も
交付されることになっている。本田とは在京中に知り合って親しくなり、本田はよく櫛部家に泊
めてもらったりした。また本田の隣村・蒲生村出身の石神安清も駆けつけてくれることになった。
ずっと後年のことになるが、石神は鹿児島大学のグライダー教官になる人だ。
 本田飛行場開きが行われたのは、大正十三年(一九二四年)十月十七日であった。予定では十六
日に行うつもりであったが、天候の都合で順延になったのである。当日は前日とうってかわって、
朝から晴れわたって青空が底なしに澄んでいた。飛行日和だ、と本田稲作・飛行場主は浮きうき
しながら思った。しかも十七日は神嘗祭(かんなめさい)当日で、各門戸には日の丸の旗がひるが
えり、関係者にとっては、それもまたいかにも飛行場開きにふさわしい好い日和に思われた。
 会場には在郷軍人、青年団員、婦人会員はじめ小学校児童らが大勢つめかけて人垣を築いてい
た。また格納庫前にもうけられた天幕の式場には、あふれるほどの来賓が列席していた。
 まず飛行場主・本田稲作のあいさつがあり、ついで赤塚・蒲生村長、石塚・国分村長のあいさ
つ、来賓側から楠田・郡長の祝辞があって、無事に型どおりの式典を終えて昼食が出された。そ
の間に、アプロ式504K型機が、格納庫から干潮の干潟に引き出されていた。
 公開飛行がはじまったのは午後二時六分だが、飛行の順序や内容については、当時の新聞報道
と本田稲作自身の記録との間に、少しばかりくい違いがある。たとえば報道には『安昌男氏の操
縦飛行中本田場長が翼上に突っ立った放れ業』の写真が掲載されていながら、本文には記載され
ていないなどである。これはどうしても本田稲作の記録に信頼性があるので、それに従って話を
進めることにする。
 一回目は試験飛行で、楠部喜男操縦、須藤正信同乗の上、観衆の頭上すれすれに三回旋回飛行
をし、五分間の飛行を終わった。
 二回目は安昌男操縦、本田稲作同乗で、空中に上がると稲作は座席から出て下翼上に立ち、支
柱につかまりながら翼間を歩いた。しかも観衆の上空一〇㍍の低空飛行で観衆の肝を冷やし、三
回目には縄ばしごにぶら下がって飛び、アッといわせた。

流行した「墜落の歌」
本田飛行場開きの四回目の飛行は、櫛部喜男操縦、石神安清同乗の高等
飛行(曲芸飛行)披露であった。まず高度一〇〇〇㍍から不意に木の葉落
とし(きりもみ)が始まり、地上から一斉に拍手かっさいが起こった。
 高度五〇〇㍍でいったん機首を起こし水平姿勢をとった櫛部は、ふたたび木の葉落としを開始
した。地上から見ていると、二〇〇㍍ほど沖合で、海面すれすれに機首を起こしたように見えた
が、上昇姿勢をとった瞬間、尾部が海面にふれた。すると機は、まるで海中の魔の手に引き込ま
れるように海上に崩れ落ちた。
 観衆は大騒ぎになったが、折から見物中の和船が現場に近づき、沈みそうで沈まないでいる機
体と操縦士二人を救い出した。たまたま来賓の中に居た三人の医師が応急手当を施した上、浜の
市国道筋の古江医院に収容した。もっとも石神は担架だが、櫛部は徒歩で入院した。その櫛部は
次のように陳謝した。
「意義のある開場式当日、このような失敗を演じ、まことに申し訳ありません。原因は私が高
度を誤ったからです。昨日、安氏から、この飛行機の高度器(高度計)はどうも不完全であてにな
らないよ、と注意されていたのですが、きりもみの最中、それを気にしながらもつい計器に頼っ
たのが失敗の因です。要するに高度が低すぎたのですから、一言の言葉もありません」
 機体は滅茶苦茶にこわれていて、使用不能であった。ようやく引き揚げて、格納庫のかたわら
に積み重ねられた。本田稲作・飛行場主は、取りあえず発動機を取り外す作業にかかった。
「お二人の生命に別条がなかったことは何よりでした。先日の暴風雨で一機こわされたとき、こ
ちらの一機は谷山にあったので助かったのですが、なあに、これもあのときこわれたと思えば何
でもありません。機体の整理が出来たらさっそく上京して、新しい機体の購入にとりかかりま
す」
 とショックを押し隠して再起を誓った。気丈といえばいえた。今度は格納庫をつくるにしても、
もっと安全な場所に、台風でもこわれない頑丈なものにしよう、と決心した。方々調べると、長
い杉丸太でないとダメだという。そこで父・三之助に、牧園町妙見にある本田家の山の伐採方を
頼みこんだ。するとこころよく許してくれたので、橋口、小野、渡辺、須藤ら友人の手を借りて
伐採、搬出した。長尺物を素人の手だけで、しかも狭い道路を通って搬出するのだから、たいそ
う骨の折れる仕事だったが、だれも弱音をはかず生き生きと働いた。
 見通しがついたところで、格納庫の完成を待たずに、本田稲作は飛行機購入のため上京した。
ところが適当な機材が見当たらずうろうろしているうちに、霞が浦海軍航空隊で近く払い下げが
あるということを聞きつけた。そこで同航空隊の払い下げ専門店に一か月ほど滞在し、アプロの
機体二機と部品を買いつけ、貨車輸送の手配をして帰郷した。

 格納庫はまだ建設中で、大工とブリキ屋が突貫工事の最中であった。むろん霞が浦から機体が
届く前に完成はした。稲作は毎日、国分の実家から四㌔離れた隼人町の格納庫まで歩いて通い、
アプロ機の整備に専念した。するうち往復の途次、毎日顔を会わせる住吉付近の女学生たちと親
しくなった。ある日「いいものを差し上げます」と彼女たちの一人が含み笑いをしながら、稲作に
一枚の紙片を差し出した。ひろげて見ると次のような歌詞が書いてあった。
 国分の本田どんの飛行機は
 一回、二回は良かったが
 三回目には墜落し
 小島の前で水あびた
  スットトン スットトン
 彼女たちが共同で作詞したものだといい、合唱までして聞かせた。あきれているうちに、いつ
の間にか国分、隼人はおろか郡内至るところで、流行歌なみに歌われ出したものだ。(中略)

落下傘降下に初挑戦
 さて霞が浦海軍航空隊の払い下げ機、アプロ式504型複葉機二機を購入して帰郷した本田稲
作が、一機の組み立てを完成し練習飛行を開始したのは、大正十三年(一九二四年)の暮れであっ
た。本格的な本田飛行学校の開校であった。中島飛行機製作所以来の友人を含め十二、三人の若
者たちが、熱心に国分の空を飛ぶようになった。まだまだ空飛ぶ機械が珍しい時代だったので、
発動機が回り出すと、いつの間にか大勢の見物人が集まって来て、いつまでも見物してあきな
かった。
 大正十四年(一九二五年)春、熊本県主催の共進会が催されたとき、本田飛行場に宣伝飛行の依
頼があった。かつて奈良原式4号鳳号が飛行会を開いた渡鹿(とろく)練兵場で、共進会のビラを
散布しながら練習飛行も兼ね、二週間程滞在した。その期間中に、熊本県出身の友人・須藤正
信の郷土訪問飛行を実施した。出身地の菊池郡泗水(しすい)村からも、大勢かけつけてくれた。
須藤の喜びはひと通りではなかったが、本田稲作は須藤のこれまでの無償に近い厚意に、多少な
りとも報いることが出来たとうれしかった。二週間たって帰郷すると、ふたたび練習飛行に専念
した。
 熊本から帰ってからしばらくして、川内町出身の内門広志が、ガーディアン・エンゼル式落下
傘をもって、本田稲作に会いにきた。落下傘降下をしたいというのだが、まったくの未経験で、
外国映画から得た知識だけで一発あてようというのであった。こちらも未経験なので承諾しかね
ていた。ところが県知事が後援会長になり、軍・官当局もあと押しすることになった。その背
景には、大正十三年六月アメリカの世界一周機四機が、七月イギリスの世界一周機一機が、さら
に十月アルゼンチンの世界一周機一機が、それぞれ鹿児島を経由、何日か滞在していき、官民の
目がともに大きく空に向かって見開かれるようになっていた、という事情もあった。本田飛行学
校では、外国機の出入、滞在の面倒をよく見た。頼まれたわけではなく、空の男同士といった連
帯感から自発的に出た無償の行為であった。ともかく周囲の空気が、落下傘降下に積極的なので
押し切られて、やってみようかという気になった。
 結局、大正十四年五月十五日、鹿児島朝日新聞社主催の落下傘大会が伊敷練兵場で催されるこ
とになった。午前中試験飛行をしながら、模擬落下傘を投下した。問題はない。しかし一回目か
ら内門広志が降下するわけではない。
 一回目、本田稲作操縦、内門広志同乗のアプロは、練兵場を一周して南方に向かい、途中で反
転して練兵場上空に引き返してきたとき、内門は上下翼間に立っていた。ばかりでなく、支柱に
つかまりながら、下翼上を歩いてみせた。ついで北方へ飛び抜け、反転して帰ってきたときは、
内門の姿は上翼上にあった。地上からは見えないが命綱を片手に直立し、地上からの熱狂的な拍
手に残った手をふってこたえた。十三分間の飛行であった。
 三十分後、二回目の種目を行うため、ふたたび二人を乗せたアプロは威勢よく飛び立って行っ
た。今度は、会場上空でゆるやかな旋回をしながら、内門がたれ下がった縄ばしごから降り、最
下部につかまって飛んだ。

木の枝にふわり着陸
大正十四年五月十五日、伊敷練兵場での落下傘大会で本番が実施された
のは三回目の飛行のときである。会場上空を二周した本田稲作三等飛行
機操縦士は、高度五〇〇㍍で機外に出て、待機する内門広志に「一、二、三……」と大声でかけ
声をかけた。内門が宙に飛び出した。
『夕日に映える銀翼をかすめて何ものかがパッと花火玉のごとく散った、と思った瞬間、大傘は
苦もなく開き、最下端にぶらさがる内門君の勇姿が見えた。ヤッタヤッタと万雷の拍手』(鹿児
島新聞)
 ところが落下傘は風に流され、梅ヶ淵山中の木の枝にひっかかった。幸いオートバイで駆けつ
けた人に救われたが、内門はけがひとつしていなかった。
 終わると本田稲作と内門広志は、第十六旅団長・岩崎少将、第四十五連隊長・末松大佐はじめ
県知事や新聞社社長らに招かれて、大いに賞賛の言葉を浴びた。
 一年後の大正十五年(一九二六年)四月、宮崎県小林町(現・小林市)商工会から、小林軍馬育成
所観桜会の宣伝飛行を依頼された。飛行場は、軍馬育成牧場の中に仮設した。このときも、宮崎
県出身の友人・橋口季則の郷土訪問飛行を行うことが出来た。橋口は曲芸飛行までやって見せ、
大成功であった。本田稲作は、ひとつずつ肩の重荷がおりてゆくような気持ちになった。
 橋口の郷土訪問飛行は成功したが、本田が操縦して橋口が同乗し、付近の町村を巡回してビラ
まきをしたとき、事故を起こした。着陸しようとしたとき、防風林にぶつかりそうになり、橋口
が大声で
「急上昇しろ!」
 とどなった。あわてて大きく操縦桿(かん)を引いて機首を上げたとたん、発動機が急停止した。
やむを得ず杉林に不時着した。もっとも若木ばかりの密集地帯なので、少しも機体は損傷しなか
った。するうち牧場の人や見物人が大勢かけつけてきて、お神輿(みこし)もどきに機体を運び出
してくれた。
 約一週間で帰郷し、ふたたび練習飛行がはじまった。離着陸訓練が主で、一日に十数回も上り
下りするのである。たまには本田が単独で飛び立ち、宙返りや木の葉落としの練習をした。とこ
ろがある日、高度一五〇〇㍍でガス欠(ガソリン切れ)のため発動機が急停止し、住吉飛行場には
帰れず、井上海岸の干潟に不時着した。干潮時だったから住吉飛行場に着陸するのと同じことで
無傷であった。あくる日、燃料を積んで飛び立ち住吉へ帰投した。
 そんなころ、前ぶれもなく航空局陸軍委託第1期操縦生出身の中尾純利一等飛行機操縦士(出水
町)が訪ねてきた。三菱航空機((株))の試験飛行係をしているが、郷土訪問飛行をしたいので、ア
ブロを借りたいというのだ。約束が出来、中尾操縦、本田同乗で出水に向かって出発したけれど、
強い雨と悪気流のため、やむを得ず引き返し、それきり中止になってしまった。
 同年夏、半年前に神奈川県鶴見町から千葉県船橋海岸に引っ越した第一航空学校の教官・木下
豊吉二等飛行機操縦士(福岡県)と鹿児島市出身の福留正夫が訪れ、鴨池海岸で落下傘大会を開き
たいので飛行機を貸してくれといった。キチッと条件をつけて貸したのだが、木下が鴨池海岸に
着陸できず、伊志川河口の海岸に不時着し、機体をこわしてしまった。約束通り弁償方を求めた
が、しばらく待ってくれというばかりで埒(らち)があかなかった。飛行機がなくては練習飛行が
出来ない。そこで千葉県津田沼の伊藤音次郎を訪ね、飛行機を借りて練習を続け、二等飛行機操
縦士試験に合格した。
 帰郷後、再起計画を検討したものの資金が思うように集まらず、一応学校の継続を中止して友
人たちもと分かれることにした。以後、親類一同で計画している干拓埋立工事の手伝いをし、三年
後に完成したが、本田家は破産寸前であった。本田稲作は航空界復帰を断念した。
 本田稲作は昭和五十八年十二月八日で満七十九歳になったが、鹿児島市坂元町二四八五番地に
あって、生き生きと青年時代の飛行機人生を語ってくれた。

ここでお詫びを。

2012年11月、現地にお邪魔したのですが、この時のオイラは、

本田飛行場があったのは、先頭のグーグルマップの赤マーカー地点から北西方向に広がる部分だと思い込み、

2013年2月にそんな内容の記事をアップしました。

以来「南国イカロス記 かごしま民間航空史」を読む2020年8月までの7年半の間、

「赤マーカー地点から北西方向に広がる部分が飛行場跡地である」として、この部分を囲った図を掲載していました。

ところが上に引用させて頂いた「南国イカロス記 かごしま民間航空史」の中で本田飛行場について、

「アプロ式504K型機が、格納庫から干潮の干潟に引き出されていた。」

「井上海岸の干潟に不時着した。干潮時だったから住吉飛行場(本田飛行場は住吉にあった)に着陸するのと同じ」

と記されている箇所があります。

本田飛行場は、稲毛飛行場等と同じく、干潟に作られた飛行場だったのです。

実はオイラ、本田飛行場が干潟にあった。ということは知っていたのですが、

「干潟」=「干拓地」と思い込んでおりました。

2020年8月21日現在、当記事の閲覧数は、1,855 です。

飛行場のあった位置について、間違い情報をそのまま信じてしまった方がきっとおられると思います。

大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m 

 

地理院で閲覧可能な当地の最古の地図は、1902年測量のものなのですが、

1902年の地図と、上に貼った昭和7年(1932年)修正の今昔マップの海岸線は、ほぼ同じでした。

本田飛行場は1924年開設ですから、飛行場開設当時の海岸線は、

上に貼った今昔マップとほぼ同じということになります。

今昔マップの赤矢印のところ、破線で囲われてますが、破線は干潟を示しています。

ということは、本田飛行場はこの破線の範囲内にあったということに。

本田飛行場の面積については、 報知年鑑に載っていました。

国立国会図書館デジタルコレクションに「報知年鑑.大正16年」があり、

この中に、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕として27の民間飛行場の一覧がありました。

当飛行場関係箇所を引用させていただきます(下記リンク参照)。

使用者 本田稲作
種類 陸上
位置 鹿児島縣姶良郡西国分村住吉海岸
面積 200,000坪

(「報知年鑑大正15年版」にも同様の記載がありました。下記リンク参照)

面積は200,000坪とあり、これは66.1haに相当します。

今昔マップの干潟を示す破線をレイヤにして、面積を確認しながらシェイプを作って行ったのですが、

先頭のグーグルマップのグレーのシェイプ部分、これでピッタリ66.1haです。

飛行場として使用していたのは、恐らくこんな感じではないかと。

干潟のかなりの範囲を飛行場として登録していたんですね。

D20_0109.jpg

赤マーカー地点のすぐ東側にはこんな石垣になっていて、高低差があります。

おおよそですが、当時はこの石垣の右側が干潟でした。


以下2024年1月撮影

DSC_2201_00001.jpg

赤マーカー地点周辺(以下3枚とも)。

現在は田んぼが広がってますが、当時は干潟でした。

DSC_2202_00001.jpgDSC_2204_00001.jpg

干拓地完成記念碑。

裏面には22年を要した干拓事業について刻まれていました。


      鹿児島県・本田飛行場跡地     
本田飛行場 データ
設置管理者:本田稲作
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島縣姶良郡西国分村住吉海岸(現・霧島市‎隼人町住吉‎)
座 標:N31°42′44″E130°44′05″
面 積:66.1ha
標 高:1.1m
滑走帯:おおよそ870mx830m不定形
(座標はグーグルアースから)

沿革
1920年01月 16日 中島飛行機入所
1924年10月 17日 飛行場開き
     12月 本田飛行学校開校
1925年  春 渡鹿練兵場にて宣伝飛行依頼
     05月 15日 伊敷練兵場にて落下傘大会
1926年04月 宮崎県小林軍馬育成所観桜会の宣伝飛行依頼
      夏 飛行学校中断
1929年?    航空界復帰断念

関連サイト:
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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コメント 4

鹿児島のこういち

天降川(あもりがわ)の隣ですね。
この川、梅雨時期に川が増すと、川岸にすっぽんが頭を‘ひょこひょこ‘出すんですよ(^o^)でも僕が学生の頃の話しだから、結構前の話しかな(^o^)
あと、「はんぎりだし」って漁があって、当時はそれを見ながら離発着したのかもしれないですね(^o^)
by 鹿児島のこういち (2013-02-22 11:36) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
おお、すっぽんが顔を出す川ですか。
見てる分にはかわいらしそうですね^^
by とり (2013-02-23 09:17) 

まご

私のおじいちゃんだ!
by まご (2014-03-26 21:43) 

長谷川

うん十年ぶりにGlider Pilot Flight Logを見ました。
私が大学生の時種子島でのグライダー初飛行での教官が石神安清さんのお名前を記録しておりました。
教官の石神安清さんがネットに出ているか検索したらここへ行き着きました。
3回目の飛行時海に墜落とありました。
こんな凄い人に私はお世話になったのだと感慨深いです。
ネットの力にあらためて感謝です。
by 長谷川 (2021-08-17 04:45) 

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