茨城県・JUIDA・GOKOつくば試験飛行場 [├場所]
2018年6月訪問 2022/1更新
茨城県つくば市にある「JUIDA・GOKOつくば試験飛行場」。
電動マルチコプターの試験飛行、操縦者訓練を行うことができます。
茨城県・JUIDA・GOKOつくば試験飛行場
JUIDA・GOKOつくば試験飛行場 データ
管理、運営:JUIDA、ブルーイノベーション株式会社、五光物流株式会社
種 別:電動マルチコプター用試験飛行場
所在地:茨城県つくば市和台17-5
場内面積:0.38ha
座 標:N36°09′50″E140°03′07″
標 高:31m
飛行可能エリア:70mx10m、70mx20m(公式サイトより)
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
2015年05月 18日 開設
関連サイト:
公式サイト■
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真壁(金敷)秘匿飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2018年6月訪問 2023/8更新
郷土史の中で、
「昭和20年1月、金敷に飛行場建設が急ピッチで進められ、地元の本村は勿論、近在の青年・在郷軍人会・常会の人々の勤労奉仕が強制された。この飛行場には、一個中隊の軍隊が駐屯したが、終戦直前に練習機が数回、爆撃機が1、2回位飛行した程度で、終末を告げたと言われる。」
とありました。
先頭のグーグルマップA地点には将門薬師堂があり、立札には一部こうあります。
「この地は、大字大国王字平といい、古代新治郡衙の南に位置し、第二次世界大戦中飛行場が設けられたことからも、その広さが伺い知れる。」
上の航空写真のほぼ中央に将門薬師堂があり、北西~南東方向に滑走路がありました。
地元農家の方によりますと、今でもビニールハウスの支柱パイプを刺すと、
ともかく滑走路だったところは地面が硬く、差がはっきり解るのだそうです。
以上、情報は再生おじさんからいただきました。
また、PUTINさんからも1945.7撮影の米軍情報をいただいておりました。
KADOIの南東2マイル、Yokotsukaの東北東2.5マイル N36-19-30 E140-03-30
4,800ftx160ft 北西~南東
2023/8/27追記:PUTINさんから更に情報頂きました。
PUTINさん大伯父が1945年4月9日から5月18日まで第160野戦飛行場設定隊の指揮下(原隊は第6航空教育隊)に入って同地で設営作業に従事しておられたのだそうです。
詳しくはコメント欄をご覧ください。
再生おじさん、PUTINさん、情報ありがとうございましたm(_ _)m
赤マーカー地点。
薬師堂の立札一部拡大
赤マーカー地点から北西方向
赤マーカー地点から南東方向
青マーカー地点から滑走路方向
茨城県・真壁(金敷)秘匿飛行場跡地
真壁(金敷)秘匿飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県桜川市大国玉
座 標:N36°19′22″E140°03′34″
標 高:47m
滑走路:1,400mx70m?
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年01月 建設
04月 9日~5月18日まで第160野戦飛行場設定隊が設営作業
関連サイト:
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この記事の資料:
郷土史
現地の説明版
中禅寺湖水上機基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2018年6月訪問 2022/1更新
栃木県日光市の中禅寺湖。
戦前の中禅寺湖畔には、各国大使館をはじめ多くの外国人別荘があり、
その数は大正末期には40を超えていたのだそうです。
そしてこの大使館員輸送のため、また遊覧飛行のため、戦前ここに水上機が飛んでいた時期があります。
「フライフィッシング用語辞典」というサイト様(下記リンク参照)の中で、
「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」というクラブについて解説があります。
このクラブは大正14年(1925年)、主に外国の大使などを会員として結成されたもので、
クラブハウスは中禅寺湖畔の西六番に建設され、当時の中禅寺湖では、
大使館員を運ぶ水上飛行艇が旋回していましたが、
14年間続いた同クラブは第2次世界大戦の勃発(1939)とともに消滅したとあります。
「政策・社会の動きからみた日光地域の野外Rec.利用の変遷に関する研究(1931〜1950)」(下記リンク参照)
というサイト様にも中禅寺湖の水上機のことが触れられており、
「1931年には日光にアメリカからの観光団 1月300名 3-4月400名と来訪していた
同年6月22日付は国立公園の指定以前、中禅寺遊覧飛行として15式水上機定員2人乗りが7月1日~10月20日
まで、中禅寺湖に停泊していたと報じられる。(中略)1931(昭6)年6月中禅寺遊覧飛行が計画15式水上機を駐機、
定員2人乗で7月から10月20日までおかれたようだが事業主体目的などは不明である。」
とあります。
最後に『佐原市史』の中で、
「佐原の海野正造の企画により逓信省の許可をえて経営された日光中禅寺湖から奥日光遊覧の水上機」
について取り上げられていました。
中禅寺湖はかなり古い時期から水上機の運用があったんですね。
奥にスロープも見えます。
残念ながら場所が不明なんですが、水上機が飛んでいた頃は、VIPの利用もありましたから、
きちんとした施設があったかも。
6,300mx1,100m程の直線コースがとれ、広さは申し分ないんですが、問題はその標高。
中禅寺湖はナント1,271m!!
現在国内で最も高いのは松本空港の657.5mで、それでも運用制限がつきますから、
下駄ばき機での離水は相当厳しかったのではないかと。
栃木県・中禅寺湖水上機基地跡地
中禅寺湖水上機基地 データ
種 別:水上機用
所在地:栃木県日光市
座 標:N36°44′28″E139°27′33″
標 高:1,271m
滑走帯:6,300mx1,100m
(座標、標高、滑走帯長さはグーグルアースから)
沿革
1925年 東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部結成。大使館員を運ぶ水上機が運用される
1931年 7月1日~10月20日にかけ、遊覧飛行のため15式水上機停泊
1939年 東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部、大戦勃発と共に消滅
関連サイト:
フライフィッシング用語辞典■
政策・社会の動きからみ た 日光地域の野外Rec.利用の変遷に関する研究(1931〜1950)■
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この記事の資料:
佐原市史
東北、関東・4 [■旅行記]
Ⓐ道の駅那須高原友愛の森→(某滑空場)→Ⓑ中禅寺湖水上機基地跡地→Ⓒ真壁(金敷)秘匿飛行場跡地→ⒹJUIDA・GOKOつくば試験飛行場→Ⓔ大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場)跡地→Ⓕ阿見飛行場(廃止後)→Ⓖ香取航空基地跡地→Ⓗ香取航空基地周辺の掩体壕→Ⓘ道の駅あずの里いちはら(車中泊)
4:25 起床
5:05 道の駅那須高原友愛の森出発
実は道の駅のすぐ近くにある某滑空場に向かったのですが、探せませんでした。。。
事前に地図で調べた際、南側から侵入進入できそうだったので、南から入る経路の準備をしていたんですが、
南側は私有地内に畜舎、農家がズラリと並んでいて、日中の時間帯なら敷地の方に許可を得て入って行けるんですが、
現在時刻は朝の5時台のため、とても入っていけるような雰囲気ではありません。
それでもドコか奥に入れる場所はないものかとウロウロしていたら犬に吠えられるし、
牛? にも鳴かれるし、迷惑かけちゃうので撤退したのでした。
自宅に戻って改めてグーグルマップで見てみたら、
北側からなら公道で進入できそうなので、次回再チャレンジすることに。
名前を出すと、せっかく検索で来られても情報が1コも増えないので、
次回ちゃんと撮影できたらまた改めてご紹介させて頂きます。
ここは諦めて、次のポイントに向かうことにしました。
ココはすぐ見つかると思ってたんだけどなぁ(まだ言ってる)。
7:35 中禅寺湖。
まさか飛行場跡巡りでこんなド定番の観光地に来ることになろうとは。。。
いろは坂、上りは7時台からバイクも多くて結構混雑してたんですが、
下りは1台もなし。
おお、ここが須藤兄弟のホームなのか。。。などと思いながら走ったんですが、
残念ながらランエボは1台も見かけませんでした。
彼らが走るのは夜の時間帯だからですね。きっと。
8:20 ガストでボリュームモーニングセット
10:00 仮眠。
栃木県から茨城県に入りました。
ここまで来ると、やっと関東に戻って来たという感じ(栃木県も関東だけど)。
11:45 真壁(金敷)秘匿飛行場跡地
11:50 セイコマでお握り昼食
12:45 JUIDA・GOKOつくば試験飛行場
14:00 大日本飛行協会中央滑空訓練所(石岡飛行場)跡地
15:10 阿見飛行場跡地
16:50 香取航空基地跡地
茨城県の見学ポイントを周り終わり、千葉県に入りました。
17:00 香取航空基地周辺の掩体壕
本日はここで時間切れ(明るさ的な意味で)。
ここから自宅までは、直線距離で110km。
帰りに八潮の珍来に寄っても、今日中に家に戻れます。
でも千葉県の市原市と柏市のあと2カ所、予定していたポイントが残っています。
千葉だったら改めて後日でもすぐ行ける距離だし、もうこのまま帰っちゃおうか。
とも思ったんですが、いろいろと迷った挙句、折角なのでもう1晩車中泊して、
予定していたポイントを全部終わらせることに。
18:10 セブンで幕の内弁当
19:50 道の駅あずの里いちはら
20:20 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:428km
(続きます)
御代田航空基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2018年6月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/10/29(USA R413 24)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福島県郡山市田村町御代田(みよだ)にあった「御代田航空基地」。
ここも分かっていたんですが、なかなか場所特定ができませんでした。
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)の中に当航空基地情報が見つかり、
やっと特定できたのでした。
以下該当箇所を引用させて頂きます。
位置:福島県安積郡守出村
基地名:御代田
最寄駅よりの方位距離粁:東北本線郡山駅S5
建設の年:1945-8
飛行場 長x幅 米:600x60 方向N-S
収容施設:工事中
工場倉庫:〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数:小型
主任務:退避場
隧道並に地下施設:工事中
其の他記事:工事中
先頭のグーグルマップと航空写真、「郡山駅南5km」の位置をマークしてあります。
ちょうどうってつけの平坦地が広がっていますね。
資料では南北方向600mの滑走路。ということになっているんですが、
昭和20年8月時点で付帯施設含め工事中ということで、跡形も見当たりません。
それで、作図は「多分こんな感じ」という程度のものですのでご了承くださいませ。
方面 横須賀
牧場 御代田
滑走路 六〇×八〇〇
縣郡村 福島、田村 □山町
記事 七月末既成
滑走路があったと思われる場所から北西方向ほんの6~700mの所には、
同じく海軍の「第一郡山航空基地」がありますが、
ここは整備士のための施設のみで飛行場はなかったため、バッティングの心配無しです。
ちょっと話がややこしくなるんですが、以前再生おじさんから当飛行場についての情報を頂いておりました。
それによりますと、「土門拳が封印した写真」という書籍の中で飛行場に関する記述があり、
御代田村の小学校に疎開し、避難滑走路や不時着場の造成工事、小学校の裏山で雑木林を伐採し…とあります。
御代田の小学校は先頭のグーグルマップに作図した滑走路の南西約1.6kmに現在もあり、
この周辺は記述にある通り、雑木林です。
この辺りの当時の航空写真をよく探して見ると、確かにそれっぽい地割があります。
ということで、冒頭の水路部資料にある「郡山駅の南5km」の開けた場所ではなく、
もう少し南側の雑木林の中に飛行場があった可能性があり、しかも「避難滑走路や不時着場」という表現から、
御代田には複数の飛行場があった可能性があるのですが、現在のところこれ以上のことは不明です。
情報お待ちしておりますm(_ _)m
赤マーカー地点。
福島県・御代田航空基地跡地
御代田航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:退避
所在地:福島県安積郡守出村(現・郡山市田村町御代田、金谷)
座 標:N37°21′07″E140°23′20″
標 高:230m
滑走路:600mx60m
方 位:18/36
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
福島県・浪江航空基地(候補地) [├場所]
2018年6月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/11/11(USA M640 119)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福島県双葉郡浪江町。
陸軍の「磐城飛行場」(現・福島第一原発)の北約9kmに海軍航空基地の候補地がありました。
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)の中に当航空基地の情報がありました。
以下引用させて頂きます。
位置:福島県双葉郡幾世橋村
基地名:浪江
最寄駅よりの方位距離粁:常磐線浪江駅E4
建設の年:(記載なし)
飛行場 長x幅 米:3,000x200
主要機隊数:中型機
主任務:作戦
隧道並に地下施設:平坦なるも松林の大部を占め抜根工事大、其の他工事諸条件良好
其の他記事:候補地
中型機運用の作戦基地、滑走路は3,000m級ですから結構な規模の航空基地を考えていたんですね。
で、海軍は具体的に浪江のドコにどんな向きで滑走路を考えていたのかが気になるところですが、
具体的な情報は滑走路の長さのみで、滑走路方向の記載がないんですよね。
方向が分かれば位置推測に非常に助かったんですが。。。
ということで、残念ながら限られた情報でアレコレ想像することになりますのだ。
資料にある通り「浪江駅E4」地点をグーグルマップ、航空写真でマークしてみたんですが、
E4地点のすぐ南側は広い河口付近になっているので、飛行場適地はE4地点以北ということになると思います。
E4地点から西北西方向に広い畑地が広がっていて、如何にも滑走路建設によさげです。
このE4地点~畑地は標高1~2mなんですが、上の航空写真の濃い部分は丘になっていて、
標高1~2mから唐突に20~30mになってしまいます。
グーグルアースで標高を見ながらいろいろ線を引いてみたんですが、
E4地点からどの方向に向かっても、直線で3,000mの平坦地を確保するのは難しいように思います。
資料には「平坦なるも松林の大部を占め抜根工事大」とあり、
当初は海岸沿いが松林で、そこに滑走路を計画したのかも。
と考えたんですが、この「松林の大部を占め」は「隧道並に地下施設」の項目にありますので、
滑走路はあまり関係ないのかも。
ともかくオイラには「ここだ!」とビシッと示せるような場所が見つかりませんでした。
ということで、上のグーグルマップは、資料通り3,000x200mだとこんな感じですよという程度のものです。
ご了承くださいませ。
「森林伐採程度はやった」という情報もあり、もしドコを伐採したか分かれば場所特定に有力な情報なんですが。。。
赤マーカー地点。
平坦地はどこまでも平坦なんですが。。。
福島県・浪江航空基地(候補地)
浪江航空基地(候補地) データ
設置管理者:海軍
種 別:作戦基地
所在地:福島県双葉郡幾世橋村(現・双葉郡浪江町)
座 標:N37°29′32″E141°02′05″(E4地点)
標 高:1m(E4地点)
滑走路:3,000mx200m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
寒河江の滑空場跡地(推定位置) [├国内の空港、飛行場]
2018年6月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/11/13(USA M647-A 49)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山形県寒河江市。
■「寒河江高等学校六十周年誌」と「寒河江市史下巻」の中に滑空場についての記載がありました。
大戦末期の時期、旧寒河江中学校(現・寒河江高等学校)傍に建設されたものです。
それによりますと、同校校庭西側畑地への建設案が具体化し、昭和19年4月19日整備作業開始、5月27日開所式。
とのことで、規模は直線滑空コース200m余、巾50mでした。
同校練習生は、滑空場での訓練後、升形飛行場での合同合宿訓練の後、3級滑空士資格試験を受けたのだそうです。
ということで、滑空場の場所として、旧寒河江中学校の「校庭西側畑地」とあります。
西寒河江駅東にある寒河江高等学校公式サイト内の沿革には、
大正10年4月 県立寒河江中学校創立
同11年3月 現在地に移転
昭和23年4月 山形県立寒河江高等学校となる
とありました。
「寒河江高等学校六十周年誌」と「寒河江市史下巻」に登場する「寒河江中学校」=現在の「寒河江高等学校」
ということで間違いないみたいですね。
で、同校の1947年の航空写真を上に貼りました。
グーグルマップと比較すると、校舎等建物は、現在よりも西側(ボーイスカウト会館側)にあったようです。
で、「校庭」の場所なんですが、「ここが校庭だ!」とハッキリする場所が見当たらず、
校舎のすぐ西隣が(オイラが見た感じでは)最も校庭っぽいです。
滑空場の位置は、「校庭西側畑地」ということでしたから、
その校庭の西側ということで、先頭のグーグルマップ、航空写真に示した位置に滑空場があったのではないかと。
現在でこそ左澤線と県道26号線の間は住宅が立ち並び、滑空場を建設するスペースなどほとんどとれそうにないですが、
当時の航空写真で見ると、旧中学校の周辺は更地が多く、滑空場適地がそこここにあります。
先頭のグーグルマップ、線路に沿って滑空場の線を引きましたが、飽くまで一例ですのでご了承くださいませ。
当滑空場の正確な位置情報お待ちしておりますm(_ _)m
山形県・寒河江の滑空場跡地(推定位置)
寒河江の滑空場跡地(推定位置) データ
種 別:滑空場
所在地:山形県寒河江市六供町2丁目
座 標:N38°22′51″E140°16′00″?
標 高:106m
滑走路:200mx50m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1943年09月 20日 寄贈滑空機命名式
11月 23日 滑空査閲
1944年01月 旧寒河江中学校校庭西側畑地への建設案が具体化
04月 19日 整備作業開始。29日滑空場整理作業
05月 27日 滑空場開場式
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「寒河江高等学校六十周年誌」
「寒河江市史下巻」