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アラスカ・ジョーンズ・ランディング水上機基地 [├海外の空港、飛行場]

   2018年1月作成(データは作成時のものです)   



無題6.png
SkyVector.com(一番左側の錨マーク)

ここはアンカレッジ空港の北36km程に位置しているんですが、

上のチャート…これまたすんごい飛行場密度のエリアですね(☆Д☆)

アラスカ州ビッグ・レイクにある「ジョーンズ・ランディング水上機基地」。

前記事の「パン・レイク・ストリップ空港」の南約16kmに位置しています。

ややこしいんですが、ビッグ湖の北にある小さな湖に当水上機基地があります。

「ビック・レイク」というのは地名みたいです。

2006年4月開設、STATE OF AK DNR の公共用水上機基地で、

444 x 23 mと、386 x 23 m、2本の離着水エリアが設定されています。


この湖は西側が二股に分かれる形にになっているのですが、

2つの離着水エリアは、どちらも先頭のグーグルマップのヒコーキマーカーの位置が起点になっていて、

ここから西に向かって伸び、二股に分かれるそれぞれに向かって設定されています。

離着水エリアとしては幅が非常に狭いのですが、これはこの湖の形で可能な限りの滑水距離を稼ぐためと思います。

2013年の1年間に160便の運航があり、内訳はトランジットゼネアビ62%、ローカルゼネアビ38%でした。

また、1機の単発機が当水上機基地を定置場にしていました。

グーグルアースでは、開設した2006年以降に取得された何枚かの映像を見る事ができるのですが、

オイラは水上機を確認できませんでした(;´Д⊂)




     アラスカ・ジョーンズ・ランディング水上機基地        
ジョーンズ・ランディング水上機基地 データ
Owner:STATE OF AK DNR
種 別:公共用
FAA Code:L95
標 高:180 ft. / 55 m
標 点:N61°33.29' / W149°56.36'
滑走路:(磁方位、長さ フィート/メートル、表面、状態)
・5/23 1457 x 75 ft. / 444 x 23 m 水
・3/21 267 x 75 ft. / 386 x 23 m   水/excellent condition

関連サイト:
AirNav/Jones Landing Seaplane Base  


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アラスカ・ヴィスノー・レイク水上機基地 [├海外の空港、飛行場]

   2018年1月作成(データは作成時のものです)  



無題6.png
SkyVector.com(中央ちょい右上に並んでいる錨マークのうち、左側の方)

アラスカ州ワシラのヴィスノー湖にある「ヴィスノー・レイク水上機基地」。

前記事の「ビーバー・レイク水上機基地」の東北東約9kmにあります。

STATE OF ALASKA, DNR の公共用水上機基地で、南北方向に1219 x 61 mの離着水エリアが設定されています。

湖の長さが1,900m近いので、余裕のある設定になっています。

2013年の1年間に、週平均30便の運航があり、内訳はローカルゼネアビ90%、トランジットゼネアビ10%でした。

また20機の単発機と2機のヘリが当水上機基地を定置場にしていました。

かなりの規模ですね(@Д@)

その数に違わず、湖のあちこちに水上機が映っています。



     アラスカ・ヴィスノー・レイク水上機基地        
ヴィスノー・レイク水上機基地 データ
Owner:STATE OF ALASKA, DNR
種 別:公共用
FAA Code:T66
標 高:300 ft. / 91 m
標 点:N61°37.14' / W149°40.71'
離着水エリア:4000 x 200 ft. / 1219 x 61 m
方 位:N/S
表 面:水

関連サイト:
AirNav/Visnaw Lake Seaplane Base  


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軽井沢競馬場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2010年5月、2019年10月訪問 2022/1更新  


無題8.png
撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

軽井沢にあった競馬場

戦前の一時期、長野県軽井沢町に「軽井沢競馬場」がありました。

「道路の東側には競馬場がつくられた。昭和六年八月一日に、広さ一〇万坪、一周一六〇〇メートルの軽井沢競馬場の開場式が行われた。(中略)この競馬場は戦争が激しくなると、八丈島から疎開した人々が生活する場と変わっていくこととなる。」(避暑地軽井沢110p)

同書では、この昭和6年のレースは大盛況であり、8年、9年、10年にもレースが開催されたのですが、

集客数、売り上げ的に尻すぼみになってしまい、11年には開催することができなかったとあります。

競馬場の大きさについては「一周一六〇〇メートル」とあるのですが、

他サイト、他資料では、「1周1,000m」となっているものがあり、

一体どちらが正しいのだろうか。と思っていたんですが、上の航空写真からグーグルマップに作図して、

1周の長さを計ってみたところ、ピッタリ1,600mでした。

「軽井沢は霧が深いことが有名で、当時の飛行機にとっては大きな障害となった。昭和九年五月、海軍の飛行機三機が碓氷峠を越えて南軽井沢にさしかかった。ところがそのうちの一機、舘山海軍航空隊の柴山栄作三等兵曹が操縦する「 報国実業学生号」が折からの濃霧のために進路をあやまり、軽井沢飛行場に着陸しようとして旋回したうえ、軽井沢競馬場へ不時着した。競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破したが、操縦者はさいわい無事であった。その後機体は分解して列車で送られていった。」(避暑地軽井沢109p)

「1934年5月21日  南軽井沢飛行場で館山海軍機墜落、消防団出動応援」(軽井沢百年のあゆみ)

「軽井沢飛行場」記事でも触れましたが史料にあります通り、

昭和九年に海軍機が当競馬場に不時着するという一幕がありました。

競馬場は昭和11年の開催を最後にその後閉鎖してしまったんですが、

この競馬場跡地も戦争の影響を受けることとなります。


閉鎖後の競馬場跡地

「昭和十二年には南軽井沢競馬場が教練場となったが、翌十三年四月に国家総動員法が公布されると、南軽井沢一帯は軍事教練場化していくことになった。」(避暑地軽井沢143p)

競馬場のみならず、南軽井沢一帯が軍事教練場化し、軍事色を強めていったんですね。

競馬場跡地は末期の時期、用途が目まぐるしく変わったのでした。

「太平洋戦争が激しくなり、日本本土に空襲が行われるようになると、軽井沢に別荘を持っている家では、年よりや婦人たちを安全な軽井沢へ疎開するようになった。軽井沢は本州の中で海から最も遠い地域にあるために、アメリカ軍の艦砲射撃の砲弾は届かないし、別荘は林の中に建てられていたので、日本中で最も安全な場所と考えられた。
 軽井沢へ疎開した人数がどのくらいの数であったかの記録は少ないが、いくつかの例によって当時の様子をみよう。昭和十九年三月には室井犀生が旧軽井沢の別荘に疎開したのをはじめ、八月には正宗白鳥が六本辻へ、十月には近藤文麿、宇垣一成、来栖三郎などの名前がみられるようになった。別荘は夏ばかりでなく冬にも使われるようになり、本宅を空襲で焼かれた人々にとっては本宅となった。(中略)
 これら二校の児童の家族を考えると数千人が疎開生活をしていることになる。学校の集団疎開も多く、暁星初等学校約三〇〇人がバークホテルを利用したのをはじめ、女子大付属小学校約三〇〇人が三泉寮へ、啓明学園五〇人、興亜館が別荘や寮で学業と生活を続けた。
 学童ばかりでなく、東京帝国大学の地震研究室が第一国民学校の一教室へ、理学部植物学教室は軽井沢集会堂を借りて、創立以来集めた貴重な研究資料を貨車数台で運び込んで大学の分室として研究を続けた。(中略)
 昭和二十年四月に南軽井沢の大観楼へ八丈島から約八〇〇人が集団疎開してきた。八丈島は太平洋戦争の本土を守るために、砲台や無線隊の基地が築かれることになった。八丈島では軍属として島へ残る男たちを除く老人と婦人、子どもは親戚や知人をたよって内地へ移り住んだが、身よりのない人たちは横浜と東京の寺などに疎開した。しかし空襲がはげしくなると群馬県松井田町に移動し、さらに安全な場所を求めて軽井沢へ移動してきたのであった。八丈島の人々は四月五日に南軽井沢の元競馬場あとをアパート式に改築した大観楼へ入った。」(避暑地軽井沢145~148p)

八丈島の島民の方々の疎開先になったんですね。

時間が前後してしまうんですが、疎開地となる直前にはこんな用途にも使用されていました。

「八丈島から、老人・女・子供ばかりで数百人(くわしい人数は、防諜の理由で公表されなかった)の人たちが強制集団疎開で南軽井沢の、もと特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろのことであった。軽井沢の南にある地蔵ヶ原は、わたしが東京から疎開してきていた追分から、徒歩で一時間ぐらいの距離にあった。新聞には、『南軽井沢競馬場あと』としてあり、『つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった』ことは、これも防諜上、匂わしてもいなかったが、地蔵ヶ原の競馬場が、戦争になってから、特攻隊の訓練場に転用されていたことは、隊員の下着の洗濯の奉仕に、大日本国防婦人会の末端組織である追分班の婦人たちも当番で動員され、わたしの妻もいくたびか出かけていって知っていた。」(風間道太郎 暗い夜の記念)と回想されている。特攻隊は大観楼、押立ホテルを宿舎としていたのである。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

競馬場跡が特攻隊の飛行訓練場になっていたのですね。

競馬場跡地が特攻隊の飛行訓練場として使用された時期についてですが、

八丈島からの疎開で元特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、「敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろ」

ですから、1944年12月~1945年1月頃。

更に「つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった」とありますから、

1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場だった。ということになると思います。


競馬場跡地は飛行場として使用されたのか

おおよそその頃まで特攻隊の飛行訓練場だったとして、当ブログ的に気になるのは、

特攻隊の飛行訓練場だった期間、ここが飛行場になったか、そうではなかったのか。

という点です。

前述の通り、昭和9年に当競馬場に不時着した海軍機は、

「競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破」しちゃいましたが、

競馬場はトラック内等基本的に平坦地が多いはずで、

滑走に適した場所と方向さえ間違わなければ、離着陸は十分できたのではないかと。

現在の旅客機はまるで鏡面のように整備された真っ直ぐな滑走路を使用しますが、

当時の軍用機、それも小型機は、それと比べるとビックリする程凸凹な草原でも普通に離着陸していました。


但し、「競馬場は離着陸可能のはずだから、離着陸してたはずである」というのは、

これは飽くまでオイラの仮説でしかなく、

実際に競馬場跡地を飛行場として離着陸があったのかどうなのかについては、今のところ資料が見当たりません。

軽井沢の特攻隊員たちがどんな訓練を行っていたのか、史料は見当たらないんですが、

別の飛行場でどんな特攻訓練を行っていたかの例はあります。

軽井沢の飛行場は、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使用されたんですが、

埼玉県の桶川飛行場も同じく熊谷飛行学校の分教場で、1944年末から特攻隊の訓練が開始されました。

桶川で実施された訓練の内容は、

滑走路近くにある吹流しを目標に、エンジン全開、35度の急角度で降下するというものです。

軽井沢で実施された特攻隊の飛行訓練がこれと同じものをひたすら繰り返すのだとしたら、

二十間道路を挟んで2km程の所に軽井沢飛行場がありましたから、

軽井沢飛行場を離陸→競馬場跡地上空で急降下訓練→軽井沢飛行場に着陸

とすれば、必ずしも競馬場跡地に離着陸する必要はないことになります。

それでも、南軽井沢一帯が軍事教練場と化した中で、特に競馬場跡地を指して「特攻隊の飛行訓練場とした」

と記され、しかも競馬場跡地には特攻隊員の宿舎が設けられていたことからすると、

オイラ個人は、ここを飛行場として訓練を行っていた可能性が高いのではないかと思います。

いずれにせよ競馬場に離着陸したのか、しなかったのか、明示する史料が見当たらないため、

現段階では判断のしようがありません。

今の時点での結論としましては、

競馬場に離着陸しようと思えば出来たが、離着陸しなくてもそれほど支障はなかった。

というところではないかと。

現在競馬場跡地は軽井沢72ゴルフ東コースになっています。

DSC_0148.jpg




     長野県・軽井沢競馬場跡地         


軽井沢競馬場 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町発地
座 標:N36°18′24″E138°38′11″
標 高:940m
トラック:1周1,600m
(座標、標高、トラック長さはグーグルアースから)

沿革
1931年08月 1日、開場式。レース開催
1933年07月 28日から4日間レース開催
1934年   春、秋の2回レース開催
    05月 21日、館山海軍航空隊「報国実業学生号」、当競馬場に不時着
1935年   レース開催
1936年   この年のレースを最後に閉鎖
1937年   教練場となる
1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場
1944年12月~1945年1月頃、八丈島からの疎開者が元特攻隊訓練場の宿舎に入居
1945年04月 5日、八丈島からの疎開者、競馬場跡をアパート式に改築した大観楼に入る

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
避暑地軽井沢
軽井沢町誌
軽井沢百年のあゆみ

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長野県・臨時飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2015年3月訪問 2022/1更新   


無題b.png
撮影年月日1948/09/14(USA M1161 18) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

6番コースから二十間道路へ

前記事からの続きです。

南軽井沢開発史を語る上で決して外せない「二十間道路」ですが、

この道路誕生のいきさつについて、次のように記されていました。

「五、南軽井沢の開発-二十間道路が地蔵ヶ原を変えた-
 南軽井沢は軽井沢駅の南に広がる平地をさすが、明治初期には泥川のつくった湿地が多く、その間をぬうように離山下から境新田を通って入山峠へのぼる道と借宿から馬越原(地蔵ヶ原)をぬけて和美峠へ通じるいわゆる女街道が通っていた。湿地にはたくさんのヨシが生えしげり、ヨシキリが巣をかけてけたたましい声をあげてとびかっていた。その南には馬越と馬取萱の二つの集落があったがさびしい所であった。(中略)
 この広い草原に着目したのが堤康次郎であった。堤は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。大正九年、箱根土地株式会社(現国土計画株式会社)は、地蔵ヶ原一帯の発地の共有地約四二一ヘクタールを買収した。ところが馬越に通じる道は狭く曲がりくねっており、車が通れるような道がなかった。堤は大正一三年に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅二〇間(約三六メートル)長さ二〇町(約二一八〇メートル)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌十四年夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建築して売り出した。」(避暑地軽井沢108p)

南軽井沢開発のため、先ず道路から。ということだったんですね。

終戦とともに長野県軽井沢町をレストセンターとした米軍。

将校以上はヒコーキで軽井沢にやって来たのですが、旧軽井沢ゴルフクラブの6番コースを飛行場としたところ、

事故が起きたため、二十間道路を臨時飛行場としたのでした。

そして戦後、この二十間道路を臨時飛行場として使用したことについては、幾つもの史料に出てきます。

「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」684p(年表)

「米軍兵士たちは三日から一週間の休暇を与えられて、軽井沢にやって来る。常時三百名ほどが交代で滞在したようだ。将校たちは、家族を連れて週末ごとにやって来た。アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し」(軽井沢物語364p)


二十間道路をどのように使用したのか、具体的な記述もありました。

「二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行機の離発着を助けていた。」(軽井沢という聖地102p)

「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。この事故が契機となって昭和二十三年、軽井沢駅から南へ延びる"二十間道路"が臨時飛行場にされた。MPからセスナ機着陸の連絡が入ると、軽井沢事務所から警察へ連絡、飛行場(道路)の両側を遮断、着陸後は警察官が離陸までセスナ機を警備した。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

二十間道路は公道ですから、飛行場とする時は交通を一時遮断する必要がある訳ですが、警察が担当したんですね。

着陸した機体を離陸まで警備するのも警察の担当とあります。

このことから、進駐軍の本拠地である軽井沢駅北側まで飛来機を延々タキシングさせたのではなく、

恐らくは着陸した二十間道路の脇とか、近くに駐機させていたのではないかと思います。


将校は週末ごとに軽井沢にやって来ました。

駐留軍の将校の"週末"って、何日間なんでしょう?

週休二日制だったんでしょうか?

日曜日は軽井沢の教会に行ったんでしょうか?

将校を軽井沢まで運んだヒコーキは、即東京にトンボ返りだったんでしょうか。

それとも有事即応で将校の帰京までそのまま駐機していたんでしょうか。

疑問は尽きないんですが、仮に将校の帰京まで駐機だったとすれば、

それまでの間、地元警察が機体の警備を担当することになりました。

6番コースを使用していた時は、旧ゴルフ場全体が米軍の騎兵師団用の放牧場として接収されていましたから、

機体の警備を地元警察が担当することはなかったはずで、手間が増えましたね。


二十間道路のどこを使用したか

町誌の中に二十間道路のどの箇所を臨時飛行場としていたのか図が添付してあり、

軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場 の一番最後にもこの図が出てました。

その通りの位置を示したのが上のグーグルマップ、航空写真です。

後述しますが、二十間道路は1948年5月~1949年4月頃まで使用していたと考えられます。

上の航空写真は、1948年9月撮影ですから、まさに「臨時飛行場」だった頃のものです。

図によりますと、滑走路に設定された南端部分、ちょっと折れ曲がった先まで滑走路の一部として示されていて、

なんでこんな部分まで範囲になっているのか不思議なんですが、

もしかしたら、到着機の将校様をすぐお乗せできるようジープを待機させたり、

続けざまに複数の飛来機がある時を想定したエプロン代わりとかなんでしょうか(現在でもアラスカでは結構こういう形状ある)。

滑走路の長さは直線部分のみで約470mあり、高低差は5m程度。

6番コースは長さ450m、高低差は(飽くまでグーグルアースの現在の数値ですが)8m程度でしたから、

こちらの方が幾らかマシです。


町誌の図によって初めて二十間道路のドコが臨時飛行場だったのか知った訳なんですが、

図を見てまず思ったのは、(なんでよりによってこの部分??)ということでした。

先頭のグーグルマップを引いて見ていただけれぱ明らかなんですが、

米軍が臨時飛行場に設定した箇所の南側にも北側にも、もっと直線の長い箇所が幾らでもあるのです。

臨時飛行場のすぐ北には1,000mの直線になっていますし、南側には1,900mの直線があります。

但し、南側1,900mの直線の真正面には、押立山がそびえ立っております。


所要時間問題再び

「占領軍は地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって、将校以上は東京から25分で飛んできた」(避暑地 軽井沢155p)

具体的な所要時間が出ていますね。

昭和2年に始まった定期便と比べると、所要時間が半分になっています(@Д@)

「軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場跡地」記事 でも書いたんですが、

「地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって」と、ちゃんとどの飛行場を使ったか明記してあるのに、

実はオイラ、一時期「二十間道路」を使用していた時も所用25分と思い込んでました(///∇///)

そのため「二十間道路のどの箇所を滑走路に使ったか、町誌に図示されてますよ」と教えて頂いたのに、

「こんな標高が高く、しかも短い距離で離着陸するヒコーキがたった25分で東京まで飛ぶなんてあり得ない!」

とその情報を否定し、コメント欄が非常に険悪な雰囲気になってしまったのでした。

この時占領軍がどの機種を使用していたか不明なんですが、以下分からないなりにアレコレ書いてみます。

東京~軽井沢間、直線距離で100kmとすると、平均速度240km/h出せば、25分で到達できる計算になります。

但しこれは単純計算の数字です。


離陸→上昇→増速→巡航→下降→減速→着陸という速度の変化や、飛行距離のロスが計算に入っていません。

恐らく巡航中300km/h弱を維持しないと、25分は達成できません。

これは一例なんですが、1998年式のセスナ172Sは、最大巡航速度233km/h。

これは172の多くの派生型の中でもかなり速い部類に入るんですが、

例えセスナ172Sが最大巡航速度を出し続けたとしても、とても東京まで25分では着けません。

こう考えると、25分というのはそうお気軽に出せるタイムではないことが分かります。

まあ、「速ければヨシ」という話なら、戦闘機等、いくらでも早いヒコーキは当然あるんですが、

史料には「将校たちは家族を連れて」やって来たとあるので、将校とその家族の乗り込みます。

パイロット以外に座席が少なくとも更に数席ある機体でなければならず、当時は恐らく双発機を使用したはずです。


速度と共に、軽井沢特有の問題もあります。

標高が高くなるごとに空気は薄くなってゆくわけですが、

そうなるとヒコーキはエンジンとプロペラと翼の性能が落ちます。

現在国内で最も標高の高い空港は同じく長野県の松本空港の658mで、

その標高からヒコーキの運用には制限がついています。

658mでも運用制限がつくのに、軽井沢の標高はそれを遥かにしのぐ1,000m!Σ(゚Д゚;)

これではエンジンの馬力は上がらず、プロペラ、翼の効率もガタ落ちで、

長く滑走しないと離陸できず、結果として長い滑走路が必要となります。

「東京まで25分」を実現するための性能を備えた(恐らく双発の)機体なら、それだけ余計に長い滑走路が必要で、

とすると二十間道路の「ここが滑走路」と示されている箇所では短すぎて、

「離陸できるはずがなーい!」と思っていたのでした。


でも後になってよくよくいろんな資料を見返してみてたら、

「所用時間25分」と書かれているのは軽井沢飛行場についてのみでした。

6番ホール、二十間道路使用時の所要時間は(オイラの知る限り)どの史料にも出てきません。

それで、6番ホール、二十間道路使用時は短距離離着陸性能の優れた(ちょっと遅い)機体、

軽井沢飛行場に移ってからは、滑走距離長くなるけど快速機に変更したとすれば説明がつきます。


軽井沢飛行場へ

ということで二十間道路を使用することになったんですが、

町誌には、「このように公道を飛行場として使用することは本来無理なことで」とあり、

占領軍の飛行場は、またまたお引越しすることになります。

「アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し、次には戦前に堤が造った南軽井沢飛行場を再建している。」(軽井沢物語364p)

「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。
 やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に伸びる二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行場の離発着を助けていた。現在の軽井沢ではとても信じられないような出来事が当時は普通に行われていたのである。
 ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。(軽井沢という聖地102p)

こうして、6番コース→二十間道路ときた飛行場は、戦前に建設された飛行場に移るのでした。

詳しくは「軽井沢飛行場跡地」記事に書きましたが、

米軍は恐らく1949年4月頃に軽井沢飛行場を復旧させたと思われます。

そのため二十間道路を使用していたのは、1948年5月~1949年4月頃までの1年位だったかと。


D20_0032.jpg
赤マーカー地点。

滑走路南端側から



     長野県・臨時飛行場跡地         
臨時飛行場 データ
種 別:臨時陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町長倉
座 標:N36°19′17″E138°37′47″
標 高:936m
滑走路:470m
方 位:15/33
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1925年夏   二十間道路ほぼ完成
1948年05月 進駐軍が臨時飛行場として使用
1949年04月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
軽井沢物語
軽井沢町誌
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地


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旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) [├国内の空港、飛行場]

   2015年3月訪問 2022/1更新   

無題b.png
撮影年月日1947/08/13(USA M407 176)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

名門ゴルフ場建設

長野県の軽井沢駅北西約2kmにある「旧軽井沢ゴルフクラブ」。

このゴルフ場建設のいきさつについて、次のように記されていました。

 「大正八年にゴルフ場建設の気運がもり上がり、徳川慶久・田中寛・西巴清・ライフスナイダーなどによって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は大隈別荘付近の離山中腹からふもとが候補にあがったが、野沢源次郎が敷地を提供することになって、離山北側の一帯に決まった。(中略)
マニラのプロゴルファーであったニコルスを招いて現地調査をして、赤旗をグリーンに立て、白旗をティーに立てて大体の設計を行った」(田中寛氏の文より) 大正十年七月にサント・グリーンの六ホールと野芝のフェアウェーができあがり、十一年に九ホールが完成した。(中略)
十三年にはクラブハウスが完成しゴルフを楽しむ人が増え、それまでのテニスと野球が中心であった軽井沢のスポーツに新しい時代をもたらした。昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場ができても、いまでも旧ゴルフ場として多くの会員に親しまれている。」(避暑地軽井沢84p)

今でこそ軽井沢にはたくさんのゴルフ場がありますが、このゴルフ場がルーツだったんですね。

GOLF CORSE RANKING CLUBというサイト によりますと、

当ゴルフ場は「大正8年(1919年)開場の旧軽井沢にある名門会員制ゴルフ場」と紹介されており、

「歴史と伝統のある長野県名門ゴルフ場ランキング」で堂々第一位に輝いています。

因みに2位は、上の史料で「昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場」として登場する新軽井沢ゴルフ倶楽部。

1位が1919年、2位が1933年の開場であるのに対し、3位以降は1960年代~の開場です。

「当ゴルフ場は軽井沢のゴルフ場のルーツ」とか書いちゃいましたが、

軽井沢のゴルフ場のルーツどころか、長野県内でも突出して歴史のあるゴルフ場でした(@Д@)

新軽井沢ゴルフ倶楽部も「新」がつきますけど、非常に古いんですね。
 

飛行場化

そんな非常に歴史のあるゴルフ場を2つも擁する軽井沢ですが、

戦後進駐した中将の一言でこの町の情勢が大きく動くことになります。

 「昭和二十一年四月十八日に、県知事の案内で第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に来たのです。町内をあちこち案内した後、前田利為別荘で会食。この席上でアイケルバーガー中将が、ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしようと言ったのです。
 日本を占領した連合軍の主力は、そもそも戦闘部隊であった。長期間にわたって実戦部隊を第一線に送っておくと兵士の士気が低下する。この頃の飛行機はプロペラ機なので米国本土まで時間がかかるし、その輸送経費も高くつく。そのために、将兵を休養させるレストセンターを軽井沢に作ったのだろう。」(軽井沢物語362~363p)

軽井沢が日本駐留米軍の保養地とされたのですね。

こうして軽井沢には常時200~300名の米兵が滞在したのだそうです。

一般の兵士は軽井沢まで列車でやって来たため、軽井沢駅には占領軍専用のRTO(鉄道輸送事務所)が設置され、

改札口も一般乗客とは区別されました。

そしてこの「軽井沢のレストセンター化」は、

軽井沢にあった2つの名門ゴルフ場の運命にも大きな影響を与えることになります。

 
 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し」(避暑地軽井沢154p)

ここで「新旧ゴルフ場を接収」とあります。

これは先程から出ている新軽井沢ゴルフ倶楽部と旧軽井沢ゴルフクラブを指します。
新ゴルフ倶楽部は軽井沢駅の南側に、そして旧ゴルフクラブは駅の北側にありました。

どちらも米軍に接収されてしまったんですが、両者の扱いには大きな差が生じました。

 「新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、翌年四月一日より同倶楽部に引き継がれた。「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入をなし居たため、引き継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」と会員総会で報告している。米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。」(軽井沢物語403p)

新ゴルフ倶楽部の方は接収中に米軍が一流のゴルフコースとして管理していたんですね。

では旧軽井沢ゴルフクラブはというと-

 「旧ゴルフ場は放牧場として利用された。旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。」(避暑地軽井沢154p)

なんと非常に歴史のある名門ゴルフ場が放牧場となり、しかも6番コースが飛行場になったのです(@Д@)

 「この旧ゴルフ場は米軍が接収して、第一騎兵師団の放牧地となっていた。クラブハウスは馬小屋として使用され、グリーンは荒れ果てている。」(軽井沢物語391p)

「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。」(軽井沢という聖地102p)

新ゴルフ場とは極めて対照的に、旧ゴルフ場の方は散々な使われ方をしたのですね。

創立当初のメンバーには貴族、政財界等、当時の上流階級の人々が名を連ね、後の昭和天皇もプレーされました。

そうした方々もきっとご利用になられたであろう超名門ゴルフ場のクラブハウスが、

こともあろうに馬小屋って。。。(;´Д⊂)

 
余談ですが「思い出のアルバム軽井沢」95pには、

商店等がずらりと並ぶ軽井沢本通りを馬に乗って闊歩する騎兵将校の写真が掲載されています。

6万坪の旧軽井沢ゴルフクラブに対し、新ゴルフ倶楽部は30万坪もありました。

米兵さんにとって格式は関係なくて、広々としてる方でプレーしたかった。ということなんでしょうか。


飛行場としての6番コース

旧軽井沢ゴルフクラブが飛行場になるまでのいきさつを概観したところで、

当ブログ的本題である6番コースの飛行場化についてアレコレ考えます。

すっかり長くなってしまいましたが、ここまでは前フリです(キッパリ)。


前述の通り複数の史料の中で、「6番コースが飛行場となった」と繰り返し出てくるんですが、

実は旧軽井沢ゴルフクラブはコースレイアウトの大幅な変更を経ています。

現在は全12ホールで、6番は敷地の最も南東に位置しており、コースは東西方向なんですが、

18ホールだった時代があり、その頃の6番は敷地のずっと北側にあり、コースはほぼ南北方向でした。

また国土地理院の航空写真で年代を追ってコースレイアウトを見てみると、

その後も細かいレイアウトの変更があったように見えます。

一体ドコの6番コースなの?(゚Д゚;≡;゚Д゚) 

という話になっちゃうんですが、

軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)1988年3月31日 394pには六番コース」とあり、

2012年5月1日発行の軽井沢という聖地102pにも現在の六番コース」とあります。

2つの史料にわざわざ「現在の」と付け足されているのは、過去に変更があったという背景を含んでいるんでしょうね。

国土地理院の航空写真で1988年以降のコースレイアウトを見ていくと、現在と大きな変更は見られません。

ということで、文字通り現在様々なサイトで紹介されているコースレイアウトをそのまま使えるのだと思います。


旧軽井沢ゴルフクラブが戦後飛行場になったことは、検索すると幾つかのサイト様がヒットするんですが、

「なんでわざわざここのゴルフ場を飛行場にしたの??」という尤もな疑問が見られます。

旧軽井沢ゴルフクラブは離山の麓にあり、

地形図で確認するとすぐ分かるのですが、三方を山に囲まれており、

素人目にも飛行場にするには窮屈なエリアに見えます。

新軽井沢ゴルフ倶楽部の方がまだ周辺が開けていて、敷地も広々しており、こっちの方がよっぽど飛行場っぽいです。

町誌は「旧ゴルフ場を飛行場とした」ことについては記しているんですが、

「なんでわざわざこっちを??」という素朴な疑問については特に記していません。

ここから先は全くの憶測なんですが、こんな一文があります。

 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し、万平ホテルは第八軍が接収して、専用ホテルとして使用を始めた。別荘も三六軒接収してアメリカ兵が使用した。」(避暑地軽井沢154p)

地元の方にとっては言わずもがななんでしょうが、軽井沢の中心は古くから旧ゴルフ場のあった軽井沢駅の北側であり、

そのため将校や一般兵が接収した別荘やホテル、その他諸施設はいずれも駅の北側に集中していました。

上の史料に登場するホテルも、いずれも駅の北側にあります。

特に進駐軍の使用した重要施設としてしばしば史料に登場する万平ホテルは、

旧軽井沢ゴルフクラブから僅か1.5kmに位置していますから、

東京からヒコーキでやって来た将校は、到着後すぐに最寄りの施設に入ることができました。

ということで、「諸施設のすぐ近くだから」という利便性から旧ゴルフクラブが選ばれたのではないでしょうか

(個人の感想です)。


6番コースがいつ飛行場になり、いつまで飛行場だったのかについて、明記している史料は見当たらないんですが、

「軽井沢をレストセンターにしよう」という話があったのが1946年4月18日。

千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収したのが1946年11月9日。

ということで、6番コースを飛行場化したのは、早くても1946年11月か12月ではないかと。

いつまで飛行場だったかについては、有力な情報があります。

「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)684p(年表)

後述しますが、6番コースでヒコーキ事故が起きてしまったため、

米軍は6番コースの使用を止め、代わりに二十間道路を飛行場として使用します。

昭和23年5月から二十間道路を使用していますから、6番コースの使用はそこまでということに。

ということで、米軍が6番コースを飛行場として使用していたのは、最大でも

1946年11月~1948年5月までの1年6ヵ月間ではないかと思います。


上の写真は1947年8月13日撮影で、おおよそ米軍が飛行場として使用していた頃ではないかと思います。

先頭のグーグルマップは、この航空写真を元に6番コースを作図したものです。

現在とほぼ変わらないですが、当時の6番コースは東端がホテル鹿島の森の敷地まできていたんですね。

端から端まで目いっぱいで約450mの直線がとれる大きさです。

当時のコースにどの程度の勾配があったかは不明なんですが、

グーグルアースで確認してみたところ、現在は西端から東端にかけて、約8mの下り勾配になっております。

因みに18ホール当時の6番コースだと、20~30mもの高低差があり、

この点からもやっぱり現在の6番コースを使用するのが妥当ではないかと思います。


ところで「旧ゴルフ場」の各コースレイアウトを見ると、

6番よりもっと飛行場向きに思えるコース(直線的でより長いコース)があります。

そのため、「どうしてもっとマシなコースを使わなかったんだろう?」

という、これまた素朴な疑問がネット上でも散見されます。

これもオイラの推測なんですが、そもそも旧ゴルフ場は米騎兵師団の放牧場とされ、その一部が飛行場となりました。

放牧場ですから、かつてのゴルフ場では、馬たちが自由に走ったり草を食べたりと、

敷地内の思い思いの場所でのびのび過ごすはずです。

6番コースはゴルフ場全体の敷地の中では、南東の端っこに位置しています。

「ゴルフ場を放牧場とし、その一部を飛行場にしよう」と計画した場合、

ゴルフ場敷地の一角に飛行場施設を押し込めるというのは、安全管理上、理に適っていると言えるのかも。


セスナ問題

東京から飛来してきた将校が使用した機体は「セスナ」であったと、史料にはしばしば「セスナ」が登場します。

「セスナ」といえば、誰しも高翼、単発のいかにも軽快なプロペラ機を連想すると思います。

あの誰しも思い浮かべるであろうプロペラ機、

厳密にはセスナ社が製造した「セスナ172」(現・スカイホーク)のことです。

「空のファミリーカー」をコンセプトに開発したモデル172が爆発的なヒットを飛ばし(ヒコーキだけに)、

これが余りにも有名になり過ぎたが故に、社名の由来は創業者(クライド・セスナ)であるにもかかわらず、

どのメーカーだろうが、高翼単発機全体の代名詞として(なんなら小型機全部ひっくるめて)、

猫も杓子も「セスナ」と呼ばれるようになってしまいました。


「セスナ172」の販売が始まったのは1956年なので、

小型機を見ると、「あ、セスナ!」という現象が始まったのは、特に日本ではこれよりも後ということになります。

軽井沢で進駐軍が飛び回っていたのは1940年代なので、

当時軽井沢の方々が小型機を見ても「あ、セスナ!」現象は起こらなかったはずなんですが、

オイラが軽井沢記事を作るために参考にさせて頂いた書籍のうち、

「セスナ」に触れている本の発行年は全て1970年代以降であり、「あ、セスナ!」以降です。

各書籍の中では、軽井沢進駐軍関連の記述で盛んに「セスナ」が登場します。

米兵が「これはセスナ社のヒコーキだYO!」と教えてくれたのを受けて

「セスナ」と記されているなら間違いないんですが、

資料が何を根拠に米軍機を「セスナ」と称しているのか不明のため、

史料に「将校はセスナで飛来した」と記してあっても、「ソレ、ホントにセスナなん?」

と疑ってかかってしまうという、ちょっと困った問題が生じます(o ̄∇ ̄o)

地元写真店にお邪魔した際、占領当時の米軍機が映っている写真が是非とも見たかったんですが、

残念ながらそういう写真はないそうです。


ヒコーキは標高が高くなるごとにエンジン、プロペラ、翼の性能が落ちてしまい、

結果としてより長い滑走路が必要となります。

当時の6番コース、最大でも長さが約450mしかないので、この滑走路の短さから運用機は、

必然的に大型機ではなく、連絡機等の小型機になるはず(大型になるほど長い滑走路必要)。

セスナ社は1920年代、1930年代には既に現在の「セスナ」に似た高翼、単発機(モデルAとかDC-6とか)

を開発しており、軍用機も数多く制作していました。

それで、軽井沢に将校を運んだヒコーキが本当に「セスナ」であった可能性は大いにあると思います。

ということで、6番コースを飛行場にして将校を運んでいたんですが、

前述の通りそれも長くは続きませんでした。

 
 「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

 「旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故があってから、南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場となった。」(避暑地軽井沢154p)

セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故が発生してしまい、

代わりに南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場として使用されることになったため、

具体的な日付は不明なんですが、ゴルフ場の飛行場は短命に終わることとなります。

この臨時飛行場については次の記事で取り上げます。


6番コースを飛行場にしていたのは、最大でも1年6カ月だったんですが、

6番コースを飛行場として使用するのを止めてから、旧ゴルフ場そのものが程なく接収解除となました。

では返還後の旧軽井沢ゴルフクラブはどうなったのでしょうか。

史料にこうありました。

 「放牧場だった旧ゴルフは、いつから再開できたか。二十三年九月に接収解除となった。(中略)このゴルフコースでプレーしだしたのは二十四年六月二十日。敗戦から四年目の夏に、早くもゴルフを楽しむ一握りの人たちがいたのだ。」(軽井沢物語392p)

 「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足30年から再建に着手し、現在一二ホール。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)685p(年表)

接収解除となった旧軽井沢ゴルフクラブは、再びゴルフ場になりました。

接収解除からプレー再開まで半年以上を要しているのはもしかしたら、

放牧場として荒れ果てた状態からの復旧に時間がかかったからかも。


実は旧軽井沢ゴルフクラブの接収解除時期について、

「軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」354pと、685p(年表)では、
「昭和二四年四月」、「昭和24年4月1日」とあるのに対し、

「軽井沢物語」392pでは、
「二十三年九月」とあり、食い違いが生じています。

但し、「軽井沢物語」の方は、二十三年九月に接収解除したことに続けて、時期は記されていないんですが、

地主がゴルフ場を株式会社として発足させ、次いでプレー再開の運びとなったことを記しています。

改めて町誌685p(年表)を見てみれば、

「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足」

とあり、4月1日は接収解除後、再発足した日とも受け取れます。

そんな訳で、オイラとしましては、

昭和23年9月 接収解除→昭和24年4月1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足→同6月20日 プレー再開

ということなのではないかと。

余談なんですが、進駐軍の軽井沢についての印象が記されていました。

「九月末には日本の地方の農民生活を報道するためにアメリカ陸軍写真班(報道班員)二〇人余が万平ホテルに宿泊した。この時対応した外務省軽井沢出張所の鶴見領事は、アメリカ軍人の軽井沢の印象について
「写真班に与えた印象はすこぶるよい。雄大な浅間高原の風景はカナダによく似ている。まして六〇年来イギリス・アメリカの先輩たちによって開かれた国際都市軽井沢の伝統が現在も清らかに保たれ、知有の外人の多いこと、町民が外国人にすっかり慣れている等、長い戦歴から急転して美しい郷里へ帰った喜びがある」
とアメリカ軍人たちの印象をまとめている。とくに国民学校児童たちの「ジープの兵隊さん」という可愛い歓迎がアメリカ兵を喜ばせた。(避暑地軽井沢154p)

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     長野県・旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース         

旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース データ
設置管理者:米軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町旧道
座 標:N36°21′30″E138°37′22″
標 高:963m
滑走路:450mx45m
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1919年    ゴルフ場建設の気運がもり上がり、建設計画、クラブ規則原案がつくられる
1921年07月 6ホールとフェアウェーができあがる
1922年    9ホール完成
1924年    クラブハウス完成
1946年04月 18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将、軽井沢視察。
    11月 9日、千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収。その後6コースの飛行場化
1948年05月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
    09月 接収解除?
1949年04月 1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足?
    06月 20日、ゴルフ場でプレー始まる

関連サイト:
ブログ内関連記事■       

この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地
軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)
思い出のアルバム軽井沢


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軽井沢の飛行場について [├雑談]



今でこそ「お洒落な高原リゾート」というイメージの軽井沢ですが、

軽井沢には戦前から戦後にかけて幾つもの飛行場が存在していました。

時系列で挙げますと、

①1925年に建設の始まった二十間道路西側の軽井沢飛行場(マップの赤ヒコーキ。後に米軍が再整備して使用)
②戦後、米軍が建設した旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース飛行場(マップの黄色ヒコーキ)
③二十間道路に設定した臨時飛行場(マップの緑色ヒコーキ)

と、3つの飛行場がネット、町誌等、軽井沢関連の書籍に登場します。

今のところオイラが確認できている飛行場はこの3つが全てなんですがこれ以外にも、

④「昭和18年8月24日 軽井沢町滑空場使用条例を定む。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」678p)
⑤「昭和21年3月 第一国民学校校舎東隣りに南原グライダー訓練所の建物を移築し」(同682p)(マップの黒ヒコーキ)

とあり、軽井沢には3つの飛行場に加えて2つの滑空場があったようです。

また軽井沢にあった飛行場について役場の方から話を伺っていた際、

⑥「追分の上の方にも飛行場があったらしい」という話が出てきました(マップ西側の黒ヒコーキ)

そして今年(2018年)に入り、地元土屋写真館で話を伺った際、

⑦1915年に東長倉小学校にて佐藤、岡両大尉による県下初飛来があったことが分かりました(マップの紫ヒコーキ)

更にここから先は「飛行場があったかも」という可能性の話になっちゃうんですが、

⑧戦争末期の時期、軽井沢競馬場跡地が陸軍の特攻訓練に使用されました(マップの灰色ヒコーキ)

また、「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」37pには、山をバックに飛ぶ複葉機の写真があり、

⑨「大正6年8月29日徳川大尉のプロペラ機がはじめて離山上空を飛行する」というキャプションがついています。

大正6年は1917年なので、1915年東長倉小学校の県下初飛来から2年後にも飛来があったことになります。

この徳川大尉の飛来の際に使用された飛行場は不明なのですが、

軽井沢最初の飛行場、そして臨時飛行場になりそうな場所として思い浮かぶ二十間道路の完成は大正14年ですから、

この時はまだありませんでした。

この時も東長倉小学校が使用されたかもしれないんですが、もしかしたら未知の飛行場が使用されたのかも。

これらの9例で使用された飛行場は、二重、三重に被っている可能性が大いにあるんですが、

最大で9つの飛行場(飛来地)があったかもしれず、もしかしたらまだまだ未知の飛行場があるかもしれません。


また、軽井沢への飛来機として、

昭和7年に愛国献納号が軽井沢上空を飛行したという記録がありますし、

「東京航空輸送も昭和10年から「エア・タキシー」と遊覧飛行の営業を開始し、翌年にはエア・ガール2人を採用している。飛行場上空一周(10分・10円)や京浜コースをはじめ、江ノ島、箱根、富士五湖、日光、軽井沢、銚子、水戸などの遊覧コースがあった。」("羽田の空"100年物語)

という情報もあります。

更に、これは飛行場と直接関係はないんですが、「軽井沢物語」338pによりますと、

戦時中に軽井沢ゴルフ倶楽部のアウトの九ホールは、

陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していたのだそうです。

そして、

「1935年(昭和10年)軽井沢飛行場、蜂須賀正、箱根土地株式会社所有の馬越原四〇〇余町歩を臨時飛行機発着場として認可を受ける」

という非常に気になる情報もあります。

大正14年に完成した「軽井沢飛行場」とは別に、昭和10年に馬越原に「臨時軽井沢飛行場」があった。

と受け取れるのですが、これには少々疑問点が。

大正14年に完成した「軽井沢飛行場」と昭和10年の「臨時軽井沢飛行場」は、

名称、位置、広さ、所有者と、共通項が多々あるため、

オイラには、自信を持って「軽井沢飛行場は2つ存在した」と断言するには、ちょっと弱い気がするんですが、

仮にこれがオイラの大きな勘違いで、臨時飛行場が別に存在したのだとしたら、

軽井沢4つ目の飛行場、10番目のヒコーキ関連の場所となります。


軽井沢の飛行場については、2010年5月に(ヒコーキ目的としては)初めてお邪魔して以来、

地元軽井沢図書館、軽井沢町役場、熊谷の埼玉県立図書館、ネットの関連サイトから頂いた情報の他、

拙ブログのコメント欄でも大勢の方から非常に貴重な情報、ご意見を頂きました。

頂いた順ですが、さくさん、あさん、再生おじさん、あるくさん、asamaさん、藤沢オールドボーイさん、

M/Pさん、ジョルノ飛曹長さん、OLDMANさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m


折角大勢の方から情報頂いたのですが、それでもまだまだ不明な点が多く、場所特定もなかなか進まず、

特に町史に登場する2つの滑空場、追分の飛行場については、

「あった」。という以外の情報がまっっったく集まらず、

その点も含めて軽井沢の飛行場関連で不明な点をまとめ、

軽井沢の歴史民俗資料館に長々とした質問を送ったのでした。

今になって改めて自分の書いた質問状を見返してみると、

(マ〇ア怖ェー! ~(・д・川)スス とドン引きするような文面なんですが、

ともかく資料館様はご親切にも県への問合せまでして下さり、8ヵ月もの調査期間を経て頂いた回答は、

「町誌にある以上の情報無し」というものでした。


また、山積する疑問点について文献資料に当ってもサッパリ埒が明かないため、

役場の担当者の方からは別角度からの調査方法として、

明治39年創業の地元写真館をご紹介頂いたのでした(そして東長倉小学校初飛来の件を教えて貰った)。


まだまだ不明な点が多く、場所一つとっても自信を持って「絶対ここにあった!」

と断言できる箇所が少ないというのが現状なんですが、「情報は公開してこそ、集まる情報もある」に期待しつつ、

この8年余でお寄せいただいた情報、集めた情報を整理し、「中間報告」という形で全て出したいと思います。

明日から場所のハッキリしている飛行場跡地、関連する場所を一カ所ずつアップします。

で、軽井沢の飛行場の主役とも言える「軽井沢飛行場」については、過去記事を大幅に書き直して既にアップ済みです。

興味のある方はご覧くださいませ(下記リンク参照)


これは余談なんですが、軽井沢の飛行場についての情報がなかなか出てこないせいで、

結果的に軽井沢関連の本を多分数十冊程(斜めに)読むことになったのですが、

その過程で、戦前から戦中にかけての軽井沢が如何に特異な地であったかについても垣間見ることができました。

例えば「軽井沢物語」には、パブリック・コート(テニスコート)は終戦の年まで一度も閉鎖されず、

プレーする人が絶えなかったこと、

現在のゴルフ俱楽部もアウトの9ホールは軍に貸したのですが、インの9ホールを閉鎖したのは、

昭和20年8月1日であったと記されています。

同書338pにはこう記されていました。

「華族、ブルジョアたちは戦争に関係なく、避暑をし、テニスやゴルフを楽しんでいたことがわかる。若い男性は招集されて徐々に姿を消していったが、政治状況を超越した特権階級が相変わらず何人ものお手伝いさんを従えて避暑を楽しんでいたのだ。」

「戦争末期」と聞いて想像するのとはかけ離れた世界が軽井沢にはあったのでした。



軽井沢のヒコーキ関連の出来事をまとめて載せておきます。

1915年    東長倉小学校にて佐藤、岡両大尉による県下初飛来
1917年08月 29日徳川大尉のプロペラ機がはじめて離山上空を飛行
1920年    箱根土地株式会社(現・プリンスホテル)、地蔵ヶ原の土地買収
1921年07月 6ホールとフェアウェーができあがる(旧ゴルフ)
1925年    夏、二十間道路ほぼ完成。秋、道路西側に軽井沢飛行場完成
1927年08月 16日、東京~軽井沢間定期飛行認可
1928年08月と9月1日~25日 浅間遊覧飛行(軽井沢飛行場)
1931年08月 1日、軽井沢競馬場開場式
1932年07月 17日、軽井沢上空を佐藤中尉が操縦する戦闘機(愛国号献納機)が飛ぶ
1933年    軽井沢ゴルフ倶楽部18ホール完成
1934年05月 21日、海軍機が軽井沢競馬場に不時着
1935年    蜂須賀正、箱根土地所有の馬越原四〇〇余町歩を臨時飛行機発着場として認可受ける
1936年    この年のレースを最後に競馬場閉鎖。東京航空輸送、軽井沢を遊覧コースに設定
1937年    南軽井沢一帯が軍事教練場となる
1943年08月 24日 軽井沢町滑空場使用条例制定
       この年軽井沢飛行場は整備され、熊谷飛行学校訓練所となる
1944年    軽井沢への疎開者増える。陸軍特別航空隊学徒が使用(軽井沢飛行場)
    09月~11月頃まで特攻隊の飛行訓練場として使用される(競馬場)
    12月~1945年1月頃、八丈島からの疎開者が元特攻隊訓練場の宿舎に入居(競馬場)
1945年04月 5日、競馬場跡をアパート式に改築した大観楼が八丈島の疎開者の生活の場となる
    09月 15日、進駐軍初来軽
1946年03月 第一国民学校校舎東隣りに南原グライダー訓練所の建物を移築
    04月 18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将、軽井沢視察。
    11月 9日 千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収。旧ゴルフ飛行場化
1948年05月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
1949年04月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる(軽井沢~東京25分)
    06月 20日、旧ゴルフ場返還されプレー始まる
1952年04月 28日、サンフランシスコ講和条約発効。飛行場接収解除。民間機の利用に移る(軽井沢飛行場)
    09月 16日~1955年9月14日 この間におおとり号、軽井沢にて撮影される
1958年    軽井沢飛行場で遊覧飛行開始(アルバム年表情報)。(1957年という情報もあり)
1962年    夏にグライダー訓練実施(軽井沢飛行場)
1971年07月 72ゴルフ西ホール開業
1972年08月 同東ホール開業



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軽井沢に行った話 [■旅行記]

厳しい寒さが温み、スギ花粉を存分に堪能していた2015年3月某日、

沖縄から高齢のオバーが1人で埼玉のオイラの実家に遊びに来ました。

「土日どこか近場でよさげなホテルに一泊したいから探したまえ。それから運転手もしたまえ」

そう父から仰せつかったのが2日前の木曜日の夜でした。

埼玉県、群馬県、と探したのですが、一気に暖かくなった陽気のせいか、よさげなホテルはどこも満室。

長野県まで捜索の範囲を広げてようやく軽井沢に空室が見つかりました。

やれやれと予約を済ませたのですが、その場所はなんと偶然にも、

かねて行きたいと考えていた滑走路跡地のすぐお隣だったのでした。

いやあ。ホントに偶然だなあ。オイラ、チョービックリ(o ̄∇ ̄o)ニヤ

ということで、オバーと両親と一緒に、ホントに偶然にも軽井沢に行くことになったのでした。

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DSCN0012.jpg
休憩で立ち寄ったSAから雪の残る山が見えました。

沖縄で生まれ育ったオバーはこんなちょっとの雪で大感激。

女学生時代に江戸で生まれて初めて雪を経験し、案内の人が和傘を差し出してくれたのですが、

「雪が肩に積もるのが楽しいから」と傘を断ったのだそうです。

ということで、軽井沢で降りたらホテルに直行する予定だったのですが、

車で行ける所まで雪山に近づいてみることに。


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浅間山。

周辺を探索したところ、斜面に少しだけ雪が残ってました。

ただしその場所は車で直接行けず、ちょっと急な未舗装の坂を徒歩で上る必要があります。

実はオバーは足腰が非常に弱っていて、歩幅もすごく小さいのですが、

「目の前で雪が見られるのなら」と両脇から抱えられるようにして、やっとの思いでその場所へ。


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すっかり固まってしまって、お世辞にもキレイとは言えない状態だったのですが、

「戻ったら親類全員に『雪に触ってきた!』と自慢する。もうこれで思い残すことはない!」

とまで。

「雪」といえば厄介な雪かきしか連想できないオイラとは、雪の見え方からして根本から異なってます。


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ホテル到着。


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翌朝。

「明治天皇縁の泉」と聞いたオバーは、足を引きずりながら、ここまで見に来たのでした。


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道中オバーはいろんな古い歌や詩を口ずさんでいました。

「逓信省の歌」とか「戦の歌」とか、当時は国家に係る歌がたくさんあったんですね~。

おしまい。


 


(ということで明日から軽井沢強化週間デスヨ)


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