愛媛県・海軍呉警備隊由利島聴測照射所指揮所跡 [├場所]
2022/1更新(未訪問)

撮影年月日 1948/03/25(昭23)(USA M856 2)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛媛県由利島。
松山空港の沖約16kmに浮かぶ通称"ダッシュ島"に、
戦時中「海軍呉警備隊由利島聴測照射所指揮所」が設置されました。
この情報は、MacとCameraの言いたい放題2 の an-kazuさん から頂きました。
an-kazuさん貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
■「愛媛県の近代化遺産 : 近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書」の中で、
当施設について扱われていました。
以下一部引用させて頂きます。
海軍聴測照射所の設置
呉鎮守府を防衛するため、探照灯や聴音機によって、来襲する敵国航空機を補足する聴測照射所が設置された。
県内では安居島(北条町)、津和知島(神和村)、由利島(神和村)、中島(東中島村)の四ヵ所に置かれ、
呉警備隊が駐屯した。
施設は指揮所、兵舎、発電機室、貯水槽などで構成されていた。
海軍呉警備隊由利島聴測照射所指揮所(松山市)
昭和19(1944)年。呉警備隊の第四砲台群に所属した。
大由利の頂上部に煉瓦造の遺構が残る。
愛媛県・海軍呉警備隊由利島聴測照射所指揮所跡
海軍呉警備隊由利島聴測照射所指揮所 データ
設置管理者:海軍呉警備隊
所在地:愛媛県松山市二神由利島
座 標:N33°51′8″E132°31′50″
標 高:160m?
(座標、標高は地理院から)
沿革
1944年 設置
この記事の資料:
「愛媛県の近代化遺産 : 近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書」
神奈川県・青根防空監視哨跡 [├場所]
2020年2月 訪問
神奈川県相模原市緑区青根に「青根防空監視哨」がありました。
昭和19年にサイパン島が占領され、そこから飛び立ったB29は富士山を目標に北上し、
東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ、という進路を取ったのだそうです。
富士山頂からこの「青根防空監視哨」までは約40km。
そしてその30km程先には、府中、そして調布と続きます。
B29の爆撃時の速度は、様々な要素が加味され一定ではないらしいのですが、
一例として、対地速度400km/h前後という記録が残っています。
仮に400km/hとすると、青根防空監視哨上空を通過してからたった5分程で、
府中、調布上空に達する計算に。
後述する説明版にも含まれているのですが、ここは
京浜方面に向かう編隊が刻々と迫りつつあることを知らせるリレーの一翼を担っていたと思います。
「神奈川県」というと、オシャレな海辺のイメージが真っ先に浮かぶのですが、
ここはぐねぐねの細道が続く山村という感じで、埼玉県民(の中でも特に田舎暮らし)のオイラにとっては、
妙に親近感の湧く場所です。
県道76号線で「相模原市青根地域センター」(旧青根小学校)を目指すと、こんな場所に出ます。

小学校跡を左手に見ながら、案内に従い右折し、無料駐車場への橋を渡ります。
無料駐車場に停めさせて頂き、山登り開始。
要所に案内があるので非常に分かり易いです。
到着。
青根防空監視哨跡(全文)
第二次世界大戦中、昭和16年頃から戦局の拡大に伴い防空態勢が強化され、津久井地域には相模湖・川和(現在の中野)・
青根の3ヶ所に監視哨が設置されました。
この地、青根の風祭と呼ばれる高台にも、聴音壕と呼ばれる探知施設、情報室・仮眠室などの詰所が設置され、厚木監視隊青根監視哨(第3青根監視哨)として活動しました。
監視哨は、敵軍航空機の飛来に際し、すばやく探知・発見し、防空飛行隊・高射砲隊等への通報、都市住民の灯火管制・消防・避難などの防護活動の準備を行うための防空監視施設です。
哨員経験者の話や青根村役場の公文書によると、在郷軍人会員及び青年学校生徒の中から監視を行う哨員が選ばれました。
1組7名体制(副哨長1・哨員6)で一昼夜24時間勤務を行い、当初は3組で3日に1日ごと、後に5組に増員され5日に1日の
勤務体制となった。哨員は2名1組となり、一人が聴音壕での探知役、一人が目視での監視役となり、2時間程度で交代し、仮眠や休息をとった。
24時間、敵味方の区別なく、航空機の爆音がすると飛行方向や編成数を、昼間で視認できる場合は、大きさや飛行高度なども用紙に記入し、厚木監視隊本部に副哨長が電話連絡しました。
その内容は、「監視哨情報通信用紙」によると①監視哨の名称②発見時刻③発見方向④敵・味方⑤機種(大型・中型・小型)⑥機数⑦高度⑧進行方向⑨その他などです。
青根監視哨がいつ設置されたかははっきりしませんが昭和17年に米爆撃機による日本本土初空襲があったことや昭和16年の米・英への宣戦布告などを考え合わせると、昭和16年頃と推測されます。
聴音壕は、深さ2m程の丸穴を掘り、石やコンクリートで固め、雑音を防ぎながら反響音などにより集音しやすくした施設です。
雨をさけるため、上部には1.5m程の高さの屋根がつけられ、四阿風の建物であった。屋根は目立たないように杉皮等で葺いたという。
神奈川県内の防空監視体制の全容ははっきりしませんが、厚木監視隊の他には、横浜監視隊・小田原監視隊が置かれており、青根監視哨はその一翼を担っていました。
津久井まちづくりセンター
神奈川県・青根防空監視哨跡
青根防空監視哨 データ
所在地:神奈川県相模原市緑区青根
座 標:N35°32′40″E139°7′49″
標 高:446m
(座標、標高は地理院から)
沿革
1941年 この頃設置
関連サイト:
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この記事の資料:
現地の案内板
長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部 [├場所]
2019年10月訪問 2022/1更新

撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
昭和8年に18ホールが完成した「軽井沢ゴルフ倶楽部」。
上の航空写真は終戦から2年後の同ゴルフ倶楽部です。
詳しくは後述しますが、
赤で囲ったIN9ホールは昭和20年8月1日までゴルフ場として使用しており、
青で囲ったOUT9ホールは、終戦まで陸軍が使用していました。
戦後の1946年11月以降、米軍は軽井沢の主だった施設を次々と接収していくのですが、
その中には当ゴルフ場も含まれており、そのままゴルフ場として米軍に利用されました。
上の航空写真は1947年8月撮影ですから、恐らく米兵がゴルフに興じていたはずです。
■「避暑地軽井沢」111pに当ゴルフ場建設のいきさつが記されていました。
新ゴルフ場の建設
昭和四年には南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がった。
徳川圀順や三井辨蔵らが、雨宮家の土地を購入する交渉をはじめた。
大正時代にできた長尾原の軽井沢ゴルフ場は六万坪とせまく九ホールであったために、
十八ホールの本格的なゴルフコースをつくろうというものであった。
昭和五年には三井・近衛・細川・鳩山らが発起人となり「財団法人南丘会」を組織し、
雨宮家所有の約五六万坪の土地に、一八ホールを完備したゴルフ場をつくることを企画し、
その周囲の二〇万坪は別荘地として分譲することになった。(中略)
昭和八年、軽井沢ゴルフ倶楽部の十八ホールは完成した。
新コースはどのコースからも浅間山が見え、
離山、押立山などの丘や遠くアルプスの山々迄望めるという素晴らしいコースであった。
昭和8年のオープンでも相当早いと思うんですが、大正8年開場の軽井沢ゴルフ場という大先輩があり、
軽井沢ゴルフ場が旧ゴルフ場、そして当軽井沢ゴルフ倶楽部が新ゴルフ場と称されるようになりました。
「軽井沢物語」337~338pには、終戦末期の軽井沢ゴルフ倶楽部の様子についてこうあります。
新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)は、
十六年に三百二十二名の会員がいたのだがこの年に二十三名を除名している。
除名されたのは英米人会員だったろう。
翌年には会員二百九十七名で、入場者数三千三百六十人。
つまり、十七年の時点ではかなりの人がゴルフをしていたのだ。
そして、十八年には英米語禁止の命令に対応して、「軽井沢ゴルフ倶楽部」を「軽井沢打球会」、
ゴルフ場を「打球場」と改めた。
また、ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会も十九年に作った。(中略)
そして、この新ゴルフの記録によって、私は瞠目に値する事実を知った。
食糧難によって各地のゴルフ場は閉鎖されて畑と化したのに、
新ゴルフはインの九ホールでプレーを続けていたのだ。
アウトの九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していた。
残っていたイン九ホールを閉鎖したのは、終戦半月前の二十年八月一日であった。
これは敗戦が決定的であり、国民すべてが極限状況にいたにもかかわらず、
ゴルフを楽しんでいる優雅な人たちがいたことを裏付ける。
OUT9ホールが陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していたとあります。
歴史と格式のある名門ゴルフ倶楽部も戦中はヒコーキとの関わりがあったのですね。
因みに陸軍が使用していたOUTコースの南西約1kmに陸軍の「軽井沢飛行場」がありました。
食料増産にせっせと汗を流す人々のすぐお隣では、
別資料からの受け売りですが、終戦末期の時世などとは無関係に、
お手伝いさんを従えて避暑地でゴルフに興じる特権階級-
これが軽井沢の一面ですね。
終戦と共にゴルフ場は接収されます。
接収されていた時期について、「軽井沢物語」391-392pにはこうありました。
この頃に米軍将校たちがゴルフを楽しんでいたのは新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)である。
第八軍司令官だったアイケルバーガー中将がかなりのゴルフマニアだったのは有名だ。
そんな将校のほかに日本人も交じってプレーしていた。
戦前から米軍接収中の期間、新ゴルフの支配人をつとめた池田忠彦の妻コシナ(八十六歳)が語る。
「米軍が接収したときは草ぼうぼうのありさま。それを米兵が火炎放射器を使って焼き払い、
ゴルフ場に整備したのです。主人は引き続いて支配人をしていましたが、米兵と一緒に
英語ができる地主延之助、白洲次郎といった人たちがプレーしていました。
この頃にまだ戦前の会員はプレーできなかったのです。(中略)
新ゴルフは接収されても従業員は以前と同じ人を雇用し、
また英語がしゃべれる日本人ゴルファーは米軍将校と一緒にプレーできたのである。
白洲次郎は吉田茂と親しく、戦後、GHQと日本政府の中間役の戦後連絡局次長をつとめていた。
地主延之助は、昭和十四年から鳩山秀夫の後任として軽井沢ゴルフ倶楽部の名誉書記となっていた人物である。
旧ゴルフ場は放牧場、一部が飛行場になったのと対照的に、
新ゴルフ場は接収後の米軍によって一流のゴルフ場として維持管理されたのですね。
接収解除後のゴルフ場について、「軽井沢物語」403pにはこうありました。
新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、
翌年四月一日より同クラブに引き継がれた。
「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入れをなし居たため、
引継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」
と会員総会で報告している。
米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。
ということで、終戦と共に放牧場となり、ゴルフ場としては荒れ放題になってしまった旧ゴルフ場とは対照的に、
新ゴルフ場の方は、末期の時期にOUT9ホールが陸軍に使用され、
IN9ホールも終戦の年の8月1日から、恐らく接収後米軍がゴルフ場として使用するまでの間は、
閉鎖されていたのではないかと思いますが、それ以外はほぼ全期間に渡り、
一流のゴルフ場としての運営が続き、現在に至っています。


長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部
軽井沢ゴルフ倶楽部 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉3000
座 標:N36°19′43″E138°37′37″
標 高:960m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1929年 南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がる
1933年 軽井沢ゴルフ倶楽部18ホール完成
1941年 会員数322。23名を除名
1942年 会員数297。入場者数3,360人
1943年 英米語禁止令に対応
1944年 ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会
末期の時期、アウト9九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸す
1945年08月 1日 イン9ホールを閉鎖。戦後米軍による接収
1951年10月 30日、接収解除
1952年04月 1日、軽井沢ゴルフ倶楽部に引き継ぎ
ブログ内関連記事:
旅行記■
軽井沢の飛行場について■
旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地)■
この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
長野県・佐久市中央図書館 [├場所]
2019年10月訪問
佐久市中央図書館2Fにある「航空図書室」。
郷土出身の元パイロット原野宣喜氏から寄贈されたもので、
文字通り古今東西の航空関連の書籍がビッシリと並んでいます。
オイラはこれまで、こんなにヒコーキ関連の本が並んでいるのを見たことがありません。
飛行原理、戦記ものが充実しています。
ここの蔵書は10,000冊を超えるのだそうで、
新橋にある日本航空協会が運営する、日本で唯一の航空図書館でさえ、所蔵資料は、
単行本10,000冊(洋書4,000 和書6,000)、
逐次刊行物 200種類(洋雑誌45、和雑誌55、資料100)製本雑誌 2,000冊
ですから、これがいかに凄いことか分かろうというものです。
長野県・佐久市中央図書館
佐久市中央図書館 データ
所在地:長野県佐久市猿久保44−1
運用時間:火曜から金曜 午前9時30分から午後6時30分、土日・祝祭日 午前9時30分から午後6時
関連サイト:
公式サイト■
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愛知県・フライト・オブ・ドリームズ [├場所]
2019年10月訪問 2022/1更新
セントレアにある「フライト・オブ・ドリームズ」
北宇のピューマさんにいただいたお写真の使用許可を得ましたので、
以下ずらずらとm(_ _)m
手を触れることはできないんですが、好きなだけ近寄って眺めることができます。
触っちゃいけないんだったら、舐めてもいいかしらんd( ̄∇ ̄*)☆\(--
787の製造には日本も深く関わっている訳ですが、
富士重工業の中央翼、三菱重工業の主翼、それに川崎重工の前部胴体、主脚格納部、主翼固定後縁は、
ここセントレアに集められ、ドリームリフターでボーイングの工場に運ばれます。
セントレアからドリームリフターによる空輸が開始されたのが2007年、
展示機である初号機の初飛行が2009年12月15日、
それからこのヒコーキは525回以上、計1363時間に及ぶテスト飛行を実施したのだそうです。
初号機による飛行試験が終了し、セントレアへのラストフライトが2015年6月22日。
この施設に移動したのは、2017年12月17日。
旅客機としては極めて短い飛行時間でしたが、今は大勢の見学客に見上げられ、見下げられ、
舐められそうになりながら余生を過ごしています(なんか悲惨な表現になってしまった…)。
近寄ってよーく見ると、排気による焼け、汚れがあり、「おおお、ホントに飛んでたんだなあ」と実感します。
2007年に初めてセントレアからシアトルに、ドリームリフターで787の主翼輸送を担当したパイロットは、
その後の初号機初飛行、そしてセントレアへのラストフライトにも関わったのだそうです。
北宇のピューマさんの操縦を後席から見学させて頂いたのですが、
教官役からしょっちゅう「素晴らしい!ヽ( ゚∀゚)ノ」と凄い褒められてました。
離陸上昇から目標とする高度に達した所で水平飛行に移行する訳ですが、
ピタリと狙った高度でスムーズに水平飛行に移るためのやり方(いわゆるレベルオフ操作)について、
専門的な説明が聞けたんですが、ただ水平飛行に移るだけでも大変なことでした(@Д@)
次ヒコーキに乗る機会があったら、しっかりとその瞬間を感じ取ろうと思いました。
着陸の際、車輪を出したり、フラップを下げたりする訳ですが、
こうした操作でも機首が上がったり下がったりするんですねΣ(゚Д゚;)
そのため、車輪を出したりフラップを下げたりした場合、機首が上下するのを見越し、
タイミングを合わせてリードをとる(という表現でいいのか?)ことでスムースな飛行になるのだそうです。
知らなかった~。

愛知県・フライト・オブ・ドリームズ
事業主体:中部国際空港
所在地:愛知県常滑市セントレア1-1
座 標:N34°51′18″E136°49′1″
沿革
2018年10月 12日 開館
2021年12月 23日 リニューアルオープン
関連サイト:
公式サイト■
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