長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部 [├場所]
2019年10月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
昭和8年に18ホールが完成した「軽井沢ゴルフ倶楽部」。
上の航空写真は終戦から2年後の同ゴルフ倶楽部です。
詳しくは後述しますが、
赤で囲ったIN9ホールは昭和20年8月1日までゴルフ場として使用しており、
青で囲ったOUT9ホールは、終戦まで陸軍が使用していました。
戦後の1946年11月以降、米軍は軽井沢の主だった施設を次々と接収していくのですが、
その中には当ゴルフ場も含まれており、そのままゴルフ場として米軍に利用されました。
上の航空写真は1947年8月撮影ですから、恐らく米兵がゴルフに興じていたはずです。
■「避暑地軽井沢」111pに当ゴルフ場建設のいきさつが記されていました。
新ゴルフ場の建設
昭和四年には南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がった。
徳川圀順や三井辨蔵らが、雨宮家の土地を購入する交渉をはじめた。
大正時代にできた長尾原の軽井沢ゴルフ場は六万坪とせまく九ホールであったために、
十八ホールの本格的なゴルフコースをつくろうというものであった。
昭和五年には三井・近衛・細川・鳩山らが発起人となり「財団法人南丘会」を組織し、
雨宮家所有の約五六万坪の土地に、一八ホールを完備したゴルフ場をつくることを企画し、
その周囲の二〇万坪は別荘地として分譲することになった。(中略)
昭和八年、軽井沢ゴルフ倶楽部の十八ホールは完成した。
新コースはどのコースからも浅間山が見え、
離山、押立山などの丘や遠くアルプスの山々迄望めるという素晴らしいコースであった。
昭和8年のオープンでも相当早いと思うんですが、大正8年開場の軽井沢ゴルフ場という大先輩があり、
軽井沢ゴルフ場が旧ゴルフ場、そして当軽井沢ゴルフ倶楽部が新ゴルフ場と称されるようになりました。
「軽井沢物語」337~338pには、終戦末期の軽井沢ゴルフ倶楽部の様子についてこうあります。
新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)は、
十六年に三百二十二名の会員がいたのだがこの年に二十三名を除名している。
除名されたのは英米人会員だったろう。
翌年には会員二百九十七名で、入場者数三千三百六十人。
つまり、十七年の時点ではかなりの人がゴルフをしていたのだ。
そして、十八年には英米語禁止の命令に対応して、「軽井沢ゴルフ倶楽部」を「軽井沢打球会」、
ゴルフ場を「打球場」と改めた。
また、ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会も十九年に作った。(中略)
そして、この新ゴルフの記録によって、私は瞠目に値する事実を知った。
食糧難によって各地のゴルフ場は閉鎖されて畑と化したのに、
新ゴルフはインの九ホールでプレーを続けていたのだ。
アウトの九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していた。
残っていたイン九ホールを閉鎖したのは、終戦半月前の二十年八月一日であった。
これは敗戦が決定的であり、国民すべてが極限状況にいたにもかかわらず、
ゴルフを楽しんでいる優雅な人たちがいたことを裏付ける。
OUT9ホールが陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸していたとあります。
歴史と格式のある名門ゴルフ倶楽部も戦中はヒコーキとの関わりがあったのですね。
因みに陸軍が使用していたOUTコースの南西約1kmに陸軍の「軽井沢飛行場」がありました。
食料増産にせっせと汗を流す人々のすぐお隣では、
別資料からの受け売りですが、終戦末期の時世などとは無関係に、
お手伝いさんを従えて避暑地でゴルフに興じる特権階級-
これが軽井沢の一面ですね。
終戦と共にゴルフ場は接収されます。
接収されていた時期について、「軽井沢物語」391-392pにはこうありました。
この頃に米軍将校たちがゴルフを楽しんでいたのは新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)である。
第八軍司令官だったアイケルバーガー中将がかなりのゴルフマニアだったのは有名だ。
そんな将校のほかに日本人も交じってプレーしていた。
戦前から米軍接収中の期間、新ゴルフの支配人をつとめた池田忠彦の妻コシナ(八十六歳)が語る。
「米軍が接収したときは草ぼうぼうのありさま。それを米兵が火炎放射器を使って焼き払い、
ゴルフ場に整備したのです。主人は引き続いて支配人をしていましたが、米兵と一緒に
英語ができる地主延之助、白洲次郎といった人たちがプレーしていました。
この頃にまだ戦前の会員はプレーできなかったのです。(中略)
新ゴルフは接収されても従業員は以前と同じ人を雇用し、
また英語がしゃべれる日本人ゴルファーは米軍将校と一緒にプレーできたのである。
白洲次郎は吉田茂と親しく、戦後、GHQと日本政府の中間役の戦後連絡局次長をつとめていた。
地主延之助は、昭和十四年から鳩山秀夫の後任として軽井沢ゴルフ倶楽部の名誉書記となっていた人物である。
旧ゴルフ場は放牧場、一部が飛行場になったのと対照的に、
新ゴルフ場は接収後の米軍によって一流のゴルフ場として維持管理されたのですね。
接収解除後のゴルフ場について、「軽井沢物語」403pにはこうありました。
新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、
翌年四月一日より同クラブに引き継がれた。
「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入れをなし居たため、
引継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」
と会員総会で報告している。
米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。
ということで、終戦と共に放牧場となり、ゴルフ場としては荒れ放題になってしまった旧ゴルフ場とは対照的に、
新ゴルフ場の方は、末期の時期にOUT9ホールが陸軍に使用され、
IN9ホールも終戦の年の8月1日から、恐らく接収後米軍がゴルフ場として使用するまでの間は、
閉鎖されていたのではないかと思いますが、それ以外はほぼ全期間に渡り、
一流のゴルフ場としての運営が続き、現在に至っています。
長野県・軽井沢ゴルフ倶楽部
軽井沢ゴルフ倶楽部 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉3000
座 標:N36°19′43″E138°37′37″
標 高:960m
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1929年 南軽井沢に30万坪のゴルフコース建設の話が持ち上がる
1933年 軽井沢ゴルフ倶楽部18ホール完成
1941年 会員数322。23名を除名
1942年 会員数297。入場者数3,360人
1943年 英米語禁止令に対応
1944年 ゴルフコースを閉鎖するかどうかを検討する特別委員会
末期の時期、アウト9九ホールは陸軍の飛行学校と食料増産のために陸軍航空本部軽井沢作業隊に貸す
1945年08月 1日 イン9ホールを閉鎖。戦後米軍による接収
1951年10月 30日、接収解除
1952年04月 1日、軽井沢ゴルフ倶楽部に引き継ぎ
ブログ内関連記事:
旅行記■
軽井沢の飛行場について■
旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地)■
この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
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