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福知山航空基地(石原飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2012年10月訪問 2021/7更新  


 

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撮影年月日1947/11/03(昭22)(USA M624 191) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

京都府‎福知山市にあった「福知山航空基地(石原飛行場)」。

紫電改を製作する川西航空機が工場建設する際、試験飛行用の滑走路が必要であったこと、

予科練生の訓練用飛行場の必要性、本土決戦用等の用途で建設されたと考えられているのだそうです。

当飛行場滑走路は、中央部分が太く描かれている資料があるのですが、

「海軍福知山航空基地建設工事進捗状況」(昭和20年8月22日現在)によれば、

これは「飛行機待機列線」と説明されています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:福知山 建設ノ年:1944-12 飛行場 長x幅 米:303000㎡ノ内1700x50コンクリート 主要機隊数:中型 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居(1.000㎡)指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、工業場、倉庫(2.200平米) 掩体:中型有蓋30 其ノ他記事:運搬路11100m

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赤マーカー地点。

現在滑走路跡は真っ直ぐな農道になっています。

まず土をならして平坦にして金網を敷き、それからコンクリートを乗せました。

それら物資輸送のため、石原駅からトロッコ線が敷かれたのだそうです。

「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」203pに当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

 1945年7月中旬以降B-29の来襲熾烈になった。
この反撃作戦として第11飛行師団は、B-29の通り道に、待ち伏せの待機空域を京都西方約15kmの上空とした。
ここに技量甲、乙の操縦者の戦闘機を待機させて、攻撃させる。
これらの戦闘機のための着陸飛行場として、三木、福知山、三国の3飛行場が定められた。

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同じく赤マーカー地点にある大きな石碑。

読み取りにくい箇所があり、二ヵ所読み取れませんでした。間違いもあると思います。ご了承くださいませm(_ _)m

耕地復旧碑(全文)
 国を賭しての大東亜戦争は歳を閲するに隨ひ益々熾烈の度を加え国民の緊張も一入なりしが折も折突如我等農村民の生命の糧であり経済生活の根源である美し田ふくよかに繁る枽園何れも飛行場になるといふ事実が眼の前に展開されるに至り殆ど之が完成したのは昭和二十年六月の頃ほ■てあつた斯くして耕作地の殆んどは飛行場となり将来の生活に大きな暗い影を投じたのであつたがかて■加へて昭和十九年同二十年の二回に亘る大洪水は浦島神社付近の堤防を決潰し見るも無惨な姿に変つた美田数十町歩戦争と自然がなしたる業とは言へ朝な夕なにこの現状を眺めながら今後の生活を何によつて拓いて行くかと之れが鍬持つ吾々の脳裏に徹した苦悩の種であつたが如何とも為し得ない事を思ふ時只手を拱いて荒廃その極に達した田面を眺め悲観やるかたなく戦勝の一日も早からん事を希ふと共に早急に之れが復興に着手したき念願に燃ゆるのみであつた時しも八月十五日に詔書の渙発があつて七年の久しきに亘る戦ひも遂に終結を見るに至つた恐愕の心魂も未だ覚めない中に幸いにも耕地は返還され雀躍したものゝ原形の湮滅してゐる状態を見ては茫然として如何ともするとこが出来ずさりとてこのまゝ捨てヽ置く事も出来ず如何にかして之が復旧を企画し以て生業に勤しまんとするや甚だ切なるものがあつた茲に府耕地協合評議員松山幾蔵氏西中筋村長村上賢治氏並に小生等発起人となり耕地整理組合を設立し同士を糾合して施行面積百二十四町九段二畝二十一歩組合員三百二十二名六ヶ年討割総経費実に四百六拾七萬円を以つて実施するの案を立て国費の補助を申請して漸く府の認可を得昭和二十一年五月十一日の鍬入式より今日に至るその間排水溝の開鑿道路の完成假換地後の整地中央滑走路の除去掩体壕誘導路の復旧等指示されたる年次年次の区割を整地して以て現在に及んだが當時の状況と現状とを回想追憶する時感又無量なるものがある殊に障碍となつた滑走路の除去に対しては理解ある當局の盡力によつて竣工を早め得たといふ事は言を俟たない六年の歳月と数万人の力を要した稀有の大事業も遂に昭和二十七年三月十五日を以つて完成の域に達し昔懐かしき美田となり何れもおのがじしの作付をなし黄金の波の漂ふ様を眺めては荒廃の過去と復興の労苦を語り合ひつゝ當時の述懐に時をすごした事幾度か今府道の一角に立つて六星霜の昔を偲びつゝ現在の様相を眺め整然たる道路区割された田畑之れこそ組合員一同の協力一致愛郷の熱意の表象と當局並に役員諸氏の誠意と努力の賜であることを偲び一入感を深くするものである工を竣る當り事業の概要を述べ茲に之れを刻す 昭和二十八年四月一日 前府会議員 福知山市長 田中庄太朗

大変な労力を払い元の畑に戻したのですね。

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青マーカー地点。

図書館の隣に公民館があり、その裏手に掩体壕の一部が残っています。

(因みに「土」は地名です)

土の掩体壕(全文)
 このコンクリート製の構造物は、ここから1kmほど北西の字土の耕作地にあったもので、かつてこの日新地域に存在した旧日本海軍福知山航空基地(石原飛行場)を伝える遺構の一部です。本来は、長10.6m・幅2.1m・高2.5m・厚0.3mを測る鉄筋コンクリート製で、カマボコ形の屋根の上に土を覆いかぶせ、戦闘機の搭乗員が奇襲攻撃などから退避する掩体(覆い隠す)壕でした。福知山航空基地の建設は、当時、最高軍事機密であったため、詳しい資料はほとんど残っていません。ただ、昭和20年8月22日現在の平面図(青写真)や伝聞、戦後の航空写真によれば、滑走路は戸田と石原を結ぶ街道から川北橋南西まであり、推定延長1.7km、幅100~250m程に復元できます。滑走路周辺には砂利敷の誘導路が巡り、これに沿って施設が造られていました。戸田には飛行機の格納庫が造られ、土の段丘には飛行隊指揮所のほか、崖斜面を利用してトンネル状の隧道が網の目状に張り巡られさていました。また佐賀地区には弾薬庫や山上の高射砲台、石原地区には燃料格納庫、前田地区には中央指揮所隧道や飛行機の部品をつくる工場がありました。航空基地は完成を待たずに終戦を迎えることになりますが、90%近くは完成していたようです。戦争終了後、飛行場の跡地は地元に返還されることとなりましたが、この地に広がっていた優良な農地は跡形もなく失われ、硬く叩きしめられた石まじりの地盤とコンクリートとアスファルトでかためられた滑走路を、今見るような緑豊かな農地に戻すことは大変な困難と苦労を極めました。今、当時を偲ぶものは姿を消しつつあります。この地に飛行場があったことは想像もできませんが、その歴史を風化することは決してありません。この掩体壕が、地域の人々の手によって、ここにその一部が保存され、福知山の歴史、特に軍都として栄えた当市の近代史を伝える重要な資料として、また平和教育、人権学習の教材として将来に渡って伝えて行くことが望まれます。平成19年7月31日 福知山市教育委員会


      京都府・福知山航空基地(石原飛行場)跡地     
当飛行場の東側に600mの高津飛行場の建設が進められており、将来的には当飛行場と延長合体する計画だったのだそうですが、完成することなく終戦を迎えたのだそうです。滑走路を耕地に復旧するのは大変な苦労を要し、「蟻が引くようにして」と表現されていました

福知山航空基地(石原飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:京都府‎福知山市‎土‎
座 標:N35°18′18″E135°10′02″
標 高:24m
滑走路:1,700m×50m(「日本海軍航空史」・終戦時 では、1,200mx200mと記載あり)
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年10月 3日。「一帯の農地を航空基地として接収したい」と海軍から住民に説明。同月着工
1945年01月 防空壕用資材として松丸太830本を切り出し運搬。周辺村民が1日何百人も動員される
       誘導路工事開始
    03月 東側の綾部市高津町に高津飛行場着工
    04月 買収された用地に余剰土地が生じたため、各区に分割され希望者が耕作できるようになる
        4月から6月にかけて数百人の人夫、予科練生が誘導路を施工し完成。毎日数機が訓練を行う
    05月 小添水地区で誘導路横断により灌漑水路壊滅。軍より土管、セメントなど資材を受け、灌漑水路設置
    06月 福知山航空基地ほぼ完成 。輸送機着陸
       川西秋津工場設置。紫電が飛行する。工員の宿泊は各農家に割り当てられた
    07月 空襲を受ける
    08月 敗戦を信じない予科練習生が飛行機で離陸しようとして衝突炎上
1946年02月 誘導路設置のため耕作地を潰して灌漑水路を設けていたが、これを元の位置に復旧することになる
       農地復旧のため農道改修
       福知山市西中筋村連合耕地組合設立。飛行場用地は全て地元民により復興することとなる
1952年03月 復旧工事終了
1953年04月 西中筋村連合耕地組合事業完了。完成式典挙行

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文、説明版
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
「海軍福知山航空基地建設工事進捗状況」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


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コメント 7

鹿児島のこういち

叩き固められた地盤、コンクリートにアスファルト。それに二回にもおよぶ洪水。終戦を迎えた後は鹿児島弁で言うところの「ちんっがらっ」だったのでしょうねぇ(ノ_<。)
by 鹿児島のこういち (2012-12-09 11:59) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
>「ちんっがらっ」
調べました。本当に独特な表現ですね~。
地元の方のご苦労は本当に大変なことだったと思います。
by とり (2012-12-10 05:15) 

永井英司

ここは、ほかに航空隊指揮所と呼ばれる建物も残っています。

http://egf.air-nifty.com/forest/2009/08/200988-981c.html
by 永井英司 (2012-12-15 00:06) 

とり

■永井英司さん いらっしゃいませ~^^
情報寄せてくださり、ありがとうございます。
by とり (2012-12-17 06:31) 

梶原 秀明

 石原飛行場の調査と掩体壕の保存運動にかかわった者です。知人からこのサイトを教えてもらいました。掩体壕の保存には署名をとったり、市のいろんな部局と交渉したり、ずいぶん苦労しました。こうしえて紹介していただくと嬉しいです。私も定年退職するので、散在している資料をまとめて本にしたいと思っています。
by 梶原 秀明 (2018-03-20 23:29) 

とり

■梶原 秀明先生
お名前から検索して、季刊「ひろば・京都の教育」第152号
拝見致しました。
簡素な記事にコメント頂き恐縮です。
公民館にお邪魔した際、飛行場に関する資料を頂き、
掩体壕にも案内して頂きました。
これまでもあちこちの飛行場跡地にお邪魔しましたが、
あんなに充実した資料は後にも先にもこれが初めてでした。
これらは先生方のご尽力によるものだったのですね。
本の制作を計画しておられるとのことで、是非購入したいです。
その際は差し支えなければご連絡頂ければ幸いです。

それから図々しいお願いで恐縮なのですが、
季刊「ひろば・京都の教育」にも地名の出ている石原飛行場の東側にあった
「高津飛行場」、「綾部飛行場」について現在調べておりますが、
なかなか情報が集まらず、行き詰まっている状態です。
両飛行場について何か情報がありましたら、是非ご教授いただければ幸いです。
by とり (2018-03-22 06:05) 

とり

■梶原 秀明先生
ご連絡ありがとうございました。
早速連絡とらせて頂きます。
いただいたコメントにはメールアドレスが含まれていたため、
削除させて頂きました。
ご了承くださいませ。
by とり (2019-02-22 05:38) 

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