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鹿児島県・徳之島空港(徳之島子宝空港) [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1978/07/24(昭53)(CKU777 C11 7) 新滑走路(1期1,200m)供用開始まであと約3ヵ月
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撮影年月日1985/01/22(昭60)(KU844X C2  5) 2,000m滑走路供用開始から約5年
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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鹿児島県徳之島にある徳之島空港(徳之島子宝空港)。

徳之島の北部西海岸に位置しており、サンゴ礁を埋め立てて建設された空港です。

現行の滑走路は、需要増、ジェット化に対応するため、

それまでの滑走路から若干位置と角度を変えて新たに建設されたものです。

1978年、第一期として1,200mの新設滑走路で供用開始し、

1980年、第二期では更に800m延長して2,000mとし、ジェット化を果たしました。

これは鹿児島県内の離島空港としては初のことでした(奄美空港のジェット化は1988年)。
 

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建屋の奥にもデッキが続いています。


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建屋の横を通り、奥の展望デッキへ。


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奥のデッキはこんな感じ(上2枚とも)。


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金網が張られており、覗き窓は無し。


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     鹿児島県・徳之島空港(徳之島子宝空港)         

    ビュー:☆☆★★★  
屋上に広々とした無料展望デッキあり。
滑走路側は、空港としては非常に珍しい金網に囲われ、覗き窓無し。ベンチ、双眼鏡等無し


    施設:☆☆☆★★  
ターミナル前に無料駐車場あり
レストラン、土産品、売店あり


    マニア度:☆★★★★  
ターミナル北側にある運動公園が撮影スポットに向いている(らしい)


    総合:☆☆★★★  
空港について公式に扱っているサイトは、国交省、鹿児島県の「県内の空港」のみ。地元自治体や空港独自のサイトは見当たらず


徳之島空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター: TKN
4レター:RJKN
所在地:鹿児島県大島郡天城町
標 点:北緯27度50分11秒東経128度52分53秒
標 高:2.3m
面 積:52.6375ha
着陸帯:2,120m×150mC級
滑走路:2,000m×45mLA-2
方 位:01/09
誘導路:270.6m×23m,144.7m×18m
エプロン:120m×85m,110m×70m(SJ-2,プロペラ-2)
駐車場 214台
照明施設 進入灯,進入路指示灯,夜間着陸用灯火一式
無線施設 VOR/DME,LOC,RAG
運用時間 8時30分~19時30分(11時間)
(主に県サイトから)

沿革
1975年10月 18日 空港施設変更許可(R/W2,000m×45m)
1978年11月 3日 空港施設変更供用開始(1期R/W1,200m×45m)
1980年06月 1日 空港施設変更供用開始(2期R/W2,000m×45m)
        航空灯火変更供用開始(夜間照明)
        東亜国内航空、DC-9型機就航、新空港ターミナルビル完成
1981年06月 15日 航空灯火変更供用開始(進入灯)
1983年12月 東亜国内航空からの路線移管により日本エアコミューターが奄美線開設(Do228型機)
1989年06月 7日 航空灯火変更許可(R/W灯等)
1990年07月 1日 航空灯火変更供用開始(RCLL,TWCL)
1991年06月 1日 航空灯火変更供用開始(RTHL,REDL,RCLL)
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI,RAI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI,RAI)
1995年07月 日本エアコミューター、伊丹線開設(サーブ340型機→休止)
1999年06月 24日 航空灯火変更許可(地上型灯器型式変更)
2001年07月 12日 航空灯火変更供用開始(地上型灯器型式変更)
2002年10月 1日 運用時間延長(8時間→10時間)
2009年06月 20日 第一航空、那覇線開設
     09月 11日 中華航空、台北便運航(初の国際チャーター)
2012年02月 26日 開港50周年記念式典に合わせ、「徳之島子宝空港」の愛称を制定
2019年10月 27日 運用時間延長(10時間→11時間)

関連サイト:
鹿児島県/徳之島空港 
国交省/徳之島空港(40コマ) 
ブログ内関連記事

この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド

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鹿児島県・沖永良部空港(えらぶゆりの島空港) [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1977/10/18(昭52)(CKU778 C5B 9) 開港から8年。1,200m滑走路
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下3枚とも)
(音が出ます。揺れが酷くてすみません。着陸は5:12~)


鹿児島県沖永良部島の北東に位置する沖永良部空港(えらぶゆりの島空港)。


■全国空港ウオッチングガイド
エアポートレビュー 1969年の開港から長らく1,200メートル滑走路とYS-11のコンビネーションで運用されてきた沖永良部空港だが、1998年度からサーブ340型機のペイロード制限緩和のためとDHC-8型機就航に備えた滑走路舗装強度強化が実施され、2005年度には1,350メートル滑走路が供用を開始した。日本エアコミューターの最後のYS-11運航は2006年9月30日、沖永良部発鹿児島行き3806便だった。

■福岡管区気象台要報(福岡管区気象台, 1982-03) 209p~
沖永良部空港 沖永良部測候所
SW風:山越え気流のため、風下側に弱いTURBが発生することがある。
台風や冬期の季節風の強風時を除けば、離着陸困難となった例はほとんどない。

地形および気象の概要
ア.空港は隆起サンゴ礁からなる平坦な島の北端に位置し、海抜28mである。
 空港の南西方になだらかな丘陵がひろがり、丘陵の高いところは246mである。
イ.気候は海洋性で、風向や気温の日変化は極めて小さく、風の局地性はほとんどない。


■沖永良部空港 回顧誌(昭和61年12月発行)

沖永良部空港の沿革
 沖永良部島は鹿児島から南に535kmの南西洋上に浮ぶ孤島(49.3km,面積94.51平方㎢)
年の平均気温22度、島の交通は海路にのみ頼る外ない状態でこれらの解消には航空路を開設、本
土との時間差を短縮し、島の発展を高めようと当時の町長、武田恵喜光氏の日夜献身的な御努力と国
頭地区住民の空港立地に対する絶大なる御理解と御協力をいただき、奄美群島振興特別措置法に基
づく事業として整備事業が進められた。
 又、島民御一同様の空港立地に対する意欲的な願望が適えられた。

昭和40年度空港立地調査開始
昭和41年3月14日 飛行場設置許可申請
昭和42年3月16日 空港設置に関する公聴会
昭和42年6月15日 空港設置許可
昭和42年7月 4日 工事に着工
昭和44年3月11日 工事が完成
昭和44年4月21日 大阪航空局沖永良部空港出張所開設
昭和44年5月 1日 供用開始 (開港)

 当時の東亜航空株式会社(現東亜国内航空)のDH114ヘロン機が奄美大島と沖永良部島間に
不定期便として運航が開始された。その後は同社の機種はYS-11型機となった。

 昭和47年2月11日
 沖永良部←→鹿児島空港間に奄美経由の定期便の開始を経て鹿児島直行一往復、奄美経由一往復の
計2往復4便の就航をみるに至った。
 昭和49年1月3日 航空保安施設としてNDBが誕生
 昭和49年8月30日 VOR TACAN誕生
 空の燈台とも呼ばれる施設が誕生、それぞれ供用開始された。
 昭和51年8月1日 進入角指示燈 末端識別燈 供用開始
 航空機の離着陸に必要な進入角指示燈(VASIS)及び末端識別燈(REIL)航空機に進入
方位を指示する閃光燈(瞬間的に煌く光を出す)が設置され、供用開始、航空機の安全運航に大き
く関与された。
 鹿児島、沖永良部間2往復4便、奄美、沖永良部間に一往復就航となった。
 昭和54年8月10日 南西航空 初就航
 与論経由那覇空港、毎週月・水・金、運航両県の交流を共に深め、経済の発展に寄与している。
 昭和54年10月3日 空港管理事務所新設
 昭和54年10月29日 照明制御操作盤移設
 昭和54年10月30日 移転
 航空代理店内での空港管理業務も終止符を遂げた。
 昭和56年8月20日 滑走路嵩上工事(グルーピング)
 昭和58年12月10日 日本エア.コミューター初就航

 赤字に悩む東亜国内航空の奄美路線、二地点間旅客輸送(不定期航空運送事業)として、奄美空
港を拠点に喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島を日本エア.コミューター株式会社(東亜国内航
空と地元14市町村の出資、第三セクター方式)がドルニエ228-200型19人乗りの小型機
で運行開始、昭和59年度の利用率は58.5%、60年度は52.0%上々のスタートである。

 昭和58年12月23日 予備発電設備工事着工
 進入角指示燈及び末端識別燈に対する予備発電(商用停電時)設備の建設が進められた。
 昭和59年2月20日 工事完成
 昭和59年2月22日 試験終了
 昭和59年5月2日 供用開始
 商用停電時の予備発電として航空機に対する離着陸の安全運航に大きく甦る。

 
 沖永良部は農業の島。空港周辺はさとうきび畑が多い。製糖期シーズン(12月20日より明年
の4月10日頃まで)に入ると、昔と違って収穫したきびを吊上げクレーンで積荷して、工場に搬
入する。沖永良部経済を支える大事な産業である。これまでは航空機が進入寸前吊上げクレーンを
使用していた場合もあった。これは管理者としては、とても厳しい仕事である。私も空港周辺地主
の方なり、地区担当員に説明かたがたお願いにあがる。定期便の月ダイヤ表を配布して、航空機の
到着時間帯をはずし、朝夕積荷するよう協力願っている。説明文とは次のとおりである。「運輸省
航空法第2条第8項第9項の規定によると、滑走路標点より高さ45米・半径1,800米が水平表
面とされています。水平表面とは航空機が着陸の際衝突を避けるために、一定の場周経路を旋回し
て進入するので、その安全を確保するために必要な空域です。又、航空機が進入着陸寸前にクレー
ン車を使用していると転移表面にかかります。着陸帯中心(標点)より航空機の進入両方向それぞれ
600米、高さ45米となっています。転移表面とは、航空機が着陸のため進入を誤った時、脱出
の安全を確保するため必要な安全地帯となっています」。このように協力を戴き、今後のジェット
化に対し、滑走路の拡張問題も抱え、地元の皆様とは仲よくして行かなければならない。


空港管理日誌
 昭和56年X月X日 天気晴
 午前6時起床、ここ南の沖永良部島は早春の陽気が流れる気持ちの良い朝だ。今日も絶好のフラ
イト日和になりそうだ。
 一番機が着陸するまでにチェックしなければならない管理業務が待っている、午前7時30分空
港に出勤。
 午前9時30分の運用開始までの間に空港内、諸施設に異常はないか点検を行う、私のチェック
ルートは先ず、①駐車場に放置車両がないか(前日から引続き駐車された車は登録番号を記録する)
②エプロン内に危険物が落ちていないか、③滑走路内に危険物が落ちていないか、舗装に異常カ所
がないか、標識は明確であるか、④着陸帯に欠損カ所はないか、特に雨の後等は着陸帯法面にも欠
壊カ所がないか入念に点検する。⑤航空保安照明施設の点検についてはVASISの窓を開け、
REILのガラスを拭く、最後に照明の点灯試験を終えると9時頃になる、運用開始OK、異常な
しをCABに連絡する。
 定期便が着陸するのは11時05分である、それまで別に小型機、臨時便等の着陸も予定されて
いないので、CABと連絡を取りながら着陸帯の草刈り作業を実施する。
 草刈り作業については、航空機の発着の合間を見図らっての作業に付き、計画どおりになかなか
はかどらない。しかし空港は常に最良の状態に維持し航空機の安全就航に供すべきであり、常に最
善を尽すよう心がけている。
 15時40分定期最終便出発後は、又着陸帯の草刈り作業を再開、17時30分終業点検として
何時もの通り、滑走路、エプロン、場周柵の破れカ所の有無等点検、VASIS(進入角指示灯)
の窓を閉じ、駐車場の見廻りを終え、管理日誌を記載し、1日の日課を終了し家路に付く。
 以上は私が沖永良部空港管理事務所に着任以来、5年近くの間における毎日の日課であります。
空港管理業は、外部から想像する以上に大変な仕事だと思います。大袈裟な云い方かも知らないが、
航空機1機全乗客乗員の命を、我々が預っていると云っても決して過言ではないと思います。否そ
の心構えがなければ、空港管理は到底勤まらないと思います。
 航空機は他の交通機関に比べ格段に高速であり、便利だが、反面危険な面もあります。
 即ち我が国の航空機事故の約半数が、離着陸時に起きていると聞きます。従って、このような利
便性の高い交通機関の安全運航を確保するために、運行管理者(CAB)、航空会社(エアライン)
施設管理者(県、管理事務所)が一体となり、それぞれの職分ごとに最大限の努力が必要だと思い
ます。
 私共、空港施設管理者としては、常に空港が正常な整備状況の下で供用出来るよう、点検、管理
に努め、少くとも空港施設の管理点検の不備によるトラブルがあってはならないと念じております。


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これは上に貼った1,200m滑走路当時の滑走路の北側エンド部分を拡大したものです。

ターニングパッド、西側だけ広がった形状ですね。

この部分のレイヤを作って確認したところ、

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撮影年月日2022/03/03(令4)(CKU202112 C3 30) 

こちらは1,350mに拡張後の滑走路の同じ場所(青マーカー)。

ここだけ舗装が飛び出してますが、1,200m当時のターニングパッドとピッタリ重なりました。

白矢印部分、この斜めになってる角度こそ、旧ターニングパッド跡の証。

滑走路は延長しただけでなく、拡幅もしたのですね。

(滑走路東側のちょっと高くなってる所から300mmで飛び出た部分を探したけど分からなかった)


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黄色マーカー地点。

VOR


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灰マーカー地点。

R/W04側

以下エプロン横(黒マーカー)から。


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以下ターミナル内外。


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展望デッキへは、ターミナル向って左端にあるこのドアから。


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奥にあるのは双眼鏡ではないです。カメラ?


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以下滑走路反対側(赤マーカー)から。


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最後、離陸するヒコーキを追っていくとどうなるか、ちゃんと考えてなかったため、こんな写真に(つД⊂;)




     鹿児島県・沖永良部空港(えらぶゆりの島空港)         

    ビュー:☆☆☆☆★  
屋上に無料展望デッキあり。
滑走路側は高いフェンスが張られているが、細長い窓が設けてあり、エプロン、滑走路全域見渡せる


    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
こじんまりしたターミナル。売店あり。スタッフの方は皆さん気さくで親切でした


    マニア度:☆☆☆☆★  
周辺は撮影スポットに恵まれている


    総合:☆☆☆☆★  
南の島の小さな空港


沖永良部空港 データ(昭和61年当時:主に沖永良部空港回顧誌から)
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
所在地:鹿児島県大島郡和泊町国頭地内
標 点:27°25′35″N 128°42′23″E
標 高:27.81m
面 積:204.975㎡
着陸帯:1,320mx90m
滑走路:1,200mx30m
方 位:04/22
誘導路:70mx18m
エプロン:7,000㎡(YS-11型用2バース)
駐車場:2,249㎡(127台)
照明施設:進入角指示燈、滑走路末端識別燈
無線施設:NDB,VOR,対空通信施設、テレタイプおよび自動中継装置
気象施設:雲高計、無線模写受画装置、一般気象観測器一式
ターミナルビル:RC1階建、304㎡(町,民) 手荷物検査場48.51㎡

・沖永良部空港 データ(現在:主に県公式サイトから)
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:OKE
4レター:RJKB
所在地:鹿児島県大島郡和泊町
運用時間:8時30分~18時30分(10時間)【4月1日~9月30日】 
     8時30分~17時30分(9時間)  【10月1日~3月31日】
標 点:27°25′54″N 128°42′20″E
標 高:26.8m
面 積:398,351㎡
着陸帯:1,470m×150m(E級)
滑走路:1,350m×45m(LA-4)
方 位:04/22
誘導路:62.5m×18m
エプロン:165m×70m(プロペラ-3)
駐車場:120台
照明施設:昼間着陸用灯火1式
無線施設:VOR,TACAN,RAG

沿革
1965年度   空港立地調査開始
1966年03月 14日 飛行場設置許可申請
1967年03月 16日 空港設置に関する公聴会
     06月 15日 空港設置許可
     07月  4日 着工
1969年03月 11日 完成
     04月 21日 大阪航空局沖永良部空港出張所開設
     05月 1日 開港。東亜航空DH114ヘロン機にて、奄美大島不定期便運航開始。後にYS-11型機に変更
       31日     第3種空港政令指定
1972年02月 11日 鹿児島線、奄美経由の定期便を経て鹿児島直行1往復、奄美経由1往復化
1974年01月 3日 NDB供用開始
     08月 30日 VOR、TACAN供用開始
1975年02月 14日 航空灯火設置許可(昼間照明)
1976年08月 1日 進入角指示燈、末端識別燈供用開始。鹿児島線2往復4便、奄美線1往復化
1979年08月 10日 南西航空初就航。与論経由那覇線、毎週月・水・金運航
     10月 3日、空港管理事務所新設。29日、照明制御操作盤移設。30日、移転
1981年08月 20日 滑走路嵩上工事(グルーピング)
1983年06月 15日 航空灯火変更許可(予備電源)
     12月 10日 日本エアコミューター初就航。ドルニエ228-200型にて奄美線
     12月 23日 航空灯火(予備電源)着工
1984年02月 20日航空灯火(予備電源)完成。22日試験終了
     05月 2日 航空灯火(予備電源)供用開始
1988年07月 日本エアコミューター、鹿児島線開設、YS-11就航(日本エアシステムから路線移管)
1992年04月 2日 航空灯火変更許可(PAPI)
1993年03月 5日 航空灯火変更供用開始(PAPI)
1999年03月 19日 空港施設変更許可(R/W1,350m×45m)
2002年08月 30日 空港施設変更許可(Q400就航に備えた滑走路等強度変更)
2005年05月 12日 空港施設変更供用開始(Q400就航に備えた滑走路延長1,350m×45m,滑走路等強度変更)
2008年03月 エアードルフィン、那覇線就航(セスナC208型機)
2016年02月 13日 愛称「えらぶゆりの島空港」決定記念セレモニー

関連サイト:
沖永良部島観光サイト 
鹿児島県/沖永良部空港 
国交省/沖永良部空港(41コマ)
ブログ内関連記事

この記事の資料:
福岡管区気象台要報(福岡管区気象台, 1982-03)
沖永良部空港 回顧誌(昭和61年12月発行)
全国空港ウォッチングガイド


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小川飛行機練習所跡地 [├国内の空港、飛行場]

   (未訪問)  



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1/25000「桜島南部」昭和7年補正・昭和10.10.30発行「今昔マップ on the web」より作成


大正時代、鹿児島県鹿児島市内に地元出身者が開設した「小川飛行機練習所」がありました。

旧鹿児島空港の南南西約4.7kmに位置しています。

飛行場の位置を明示する資料が見当たらないのですが、以下3つの資料がありました。

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①報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976133 (参照 2024-01-28) 

報知年鑑 大正15年
本邦民間飛行場調〔大正14.8〕
使用者 小川三郎
種類 陸上
位置 鹿児島縣鹿児島郡谷山村中■谷より同村新屋敷に至る海岸
面積 干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米 235,950坪


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②報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976134 (参照 2024-01-28) 


報知年鑑 大正16年
本邦民間飛行場調〔大正15.8〕
使用者 小川三郎
種類 陸上
位置 鹿児島縣鹿児島郡谷山村(中■谷-新屋敷間海岸)
面積 235,950坪


③「南国イカロス記 かごしま民間航空史」101p
「谷山村塩屋海岸の干潟を利用し、小川飛行機練習所を開設した」


実は上に貼った昭和7年の地図にもちょっと見えてるんですが、すぐ南に「和田」という、

如何にも「飛行場のために造成しました」と言わんばかりの細長い埋立地があり、

最初はそちらに目が行ったのですが、

ここは1,600mx380mで、報知年鑑大正15年版に出てくる「干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米」

とは、長さはともかく幅が違いました。

そもそも「南国イカロス記 かごしま民間航空史」には「干潟を利用」と出ています。

上に貼った今昔マップには、干潟を示す破線が描かれていて、

その通りに作図してあります(赤線でレイヤ引いたのでほとんど見えませんけども)。

黄色く囲った地割のうち、北側はまだまだ干潟が続いているのですが、

報知年鑑大正15年版にある通り、1,500mでバッサリ切りました。

上記報知年鑑には、飛行場の面積がどちらも235,950坪とあります。

これは78haに相当するのですが、先頭のグーグルマップのグレーのシェイプを2つ足すと、76.7haになります。

幅も最大で650mあり、面積的にもここなのではないかと。

永田川で飛行場の地割が分断されてしまうのが非常に気になるのですが、

南側の大きい方は長さが900m近くありますので、大正時代のヒコーキならこれだけでも十分過ぎると思います。

(大戦期の鹿児島航空基地の長さは、最大で1,700mでした)


「南国イカロス記 かごしま民間航空史」101p

 小川三郎は、川内での飛行会を終えると伊敷練兵場に引き返した。ここで県内における民間初の往復長距離飛行が完成したのであった。
 こうして最初の目的を果たした小川三郎は、そのまま小川式5号南洲号と共に鹿児島に残り、次の目的を達成しようとした。操縦士の養成である。彼は谷山村塩屋海岸の干潟を利用し、小川飛行練習所を開設したが、資金難で間もなく閉鎖してしまった。
 当時、民間航空が栄えていたのは東京湾沿岸で、特に千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所(伊藤音次郎所長)と千葉町寒川の白戸飛行練習所が中心的存在であったが、経営は必ずしも楽ではなかった。まして小川三郎は、たとえ郷里とはいえ、小川の飛行を見たのがはじめてで、しかもばく大な練習費を払ってまで危険な飛行機に乗ろうという人が少ない土地で、練習所を開いても無理であった。時期尚早ともいえたろうが、条件がすべて不利であった。なんといっても資金不足だし、また三等飛行機操縦士程度の技量で、たとえ技術屋的なセンスはあっても経営の才に乏しい人が、航空人口の少ない場所で練習所を開いても無駄であった。
 現に、小川三郎にとって助手という以上に、協力者として郷土訪問飛行にまで裏方的役割を果たした本田稲作でさえ、小川三郎と袂(たもと)をわかち、橋口季則(宮崎県)と共に再上京し、東京・洲崎の小栗飛行学校に入学するのだ。(中略)要するに二、三度乗せてもらっただけだが、小川の操縦ぶりが荒っぽく、こわかったのだ。それは小川三郎を誹謗(ひぼう)することではなく、当然のことであった。二、三十時間の飛行経歴では、ひよこ同然なのだ。しかし小川としては引きとめようもなく、これまでの労をねぎらって、軍から払い下げてもらった横廠式ロ号水上偵察機を本田稲作に贈った。
 本田稲作は後になって次のようにいった。「私にとってはまぎれもない先輩。実に頭の鋭い、いわば天才はだの人間だった」
 晩年の小川三郎の消息については、折田兼才氏の手紙がある。
『其後何時迄飛んで居たか知りませぬが、久しぶりに会った時、歯科医の奥さんを得て飛行機をあきらめ、技工の加勢をして居ると聞きました。私も(昭和)七年に上京、偶然東京で会った時、何か飛行機の部品作りをして居ると聞いたようですが、私の思い違いかもしれませぬ』(昭和五十八年七月二十五日)
 小川三郎は昭和三十六年(一九六一年)十一月七日、武蔵野市の自宅で病没。享年六十五歳だった。



     鹿児島県・小川飛行機練習所跡地         
小川飛行機練習所 データ
使用者:小川三郎
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島縣鹿児島郡谷山村(現・鹿児島市南栄、東開町)
座 標:31°31'31.1"N 130°31'37.6"E
標 高:1m
滑走帯:干潮時の砂洲長さ1,500米幅600米
面 積:78ha
(座標、標高はグーグルアースから。滑走帯長さは資料から)

沿革
1921年 開設
1926年 少なくともこの年まではあった

関連サイト:
ブログ内関連記事     
「伊敷練兵場」記事(小川飛行機練習所以前の小川氏の様子) 

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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徳島県・沖洲飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年12月訪問  



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1/25000「徳島」昭和9年二修「今昔マップ on the web」から作成 
2.png
撮影年月日1947/10/08(昭22)(USA R517-2 2) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


徳島県徳島市北沖洲。

徳島空港の南約7kmのこの場所に昭和12年、民間の「沖洲飛行場」が建設されました。

飛行場の正確な位置は不明です。

後述しますが、飛行場の地名が「徳島市沖須町高洲」とあること、上に貼った地図、航空写真から、

恐らく先頭のグーグルマップに囲った範囲にあったと思います。

2.png
『徳島市民読本』,徳島市教育会研究部,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1035109 (参照 2024-02-28) 


■徳島市民読本(昭和12年出版)↑上に貼ったもの
「最近の発展」の項目で、「近く沖洲飛行場も開設を見やうとしてゐる。」

■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」 211p
沖洲民間飛行場
(徳島飛行場・グライダー滑空場)
徳島市沖須町高洲
1937年8月28日徳島毎日新聞は「日本で初めての六角型の飛行場で…何れの風向に於ても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」と報じている。飛行場の埋め立てが完了したにかかわらず、陸上施設が竣工しなかったので、市民の期待する航空路は開設されなかった。

■徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)760p
(三)沖洲飛行場の建設
 国民の空に対する関心が深まって、全国各地で愛国飛行場の建設、防空兵器の献納が盛んに行われるようになった。徳島においても昭和九年に北佐古町湊晴喜・佐古町山本岩吉・西新町大西角平らの在郷軍人が、愛国飛行場の建設・聴音機・高射砲の防空施設の設置を計画した。また、これに同調して徳島国権宣揚会も、建設資金の募集をはじめた。このころ逓信省においては、国内に航空路を新設するため新潟・長野・富山・徳島・高知に飛行場の建設を決定、昭和十年に七四万円の予算を計上した。翌十一年には大阪・徳島・高知間の航空路を開設するため、逓信省徳島飛行場出張所を設置し、延原正義を主任として常駐させた。
 徳島県は飛行場の候補地に、徳島市沖洲町高洲、徳島市津田町、名東郡加茂名町鮎喰川下流、板野郡川内村小松新田、那賀郡板野村和田島の五か所を内定した。逓信省森航空館の実地調査の結果、徳島市街に近接するうえ飛行機離着陸の障害物が少なく、比較的地価が低廉で全用地を久米寅七が所有しているため買収交渉が容易であるなどの好条件に恵まれている沖洲町高洲が指定された。
 総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収が完了したので、昭和十二年八月二十八日、清水徳島県知事・後藤総務部長、藤岡徳島市長・津川助役、立木・立石・橋本各県議、関係地主ら五〇余名が出席して、徳島飛行場建設地鎮祭が現地において厳粛に執行された。
 設計書が不明であるため飛行場の構造は詳かではないが、当時の徳島毎日新聞はつぎのように報じている。「日本ではじめて六角形の飛行場、敷設は六万余坪形状については理想的とする円形は経済の都合上差控え円形に次ぐ理想たる六角形状に類似したものを採用したもので此の計画は本邦嚆矢のものであり何れの風向に於いても自由に離着陸し得るもので相当期待がかけられている」しかし、実際に完成したときには三角形であったという説もある。建設工事を進めていた徳島県は、内務省神戸土木出張所のサンドポンプ船和泉丸を借用し、徳島港浚渫の土砂をもって六万二〇〇〇余坪を埋立てて、陸上施設を建築し昭和十二年度内に完成する予定であったが、工事が遅れて埋立てが完成するのは翌十三年八月ころであった。これに要した工費はおよそ一五万円であるが、地元に設置を希望した徳島市は市会の議決を経て五万七〇〇〇円を負担することにした。
 飛行場用地の埋立が完了したにもかかわらず陸上施設が竣功しなかったので、市民の期待した航空路は開設されなかった。このころ航空知識の普及と飛行士への適性を向上させるため、グライダーの操縦が盛んになってきた。徳島航空学校長岩田源一は、この用地を借用して徳島グライダー研究会を設立し、滑空士の養成にあたった。研究会は、名誉会長工藤隆治徳島市長・会長岩田源一徳島航空学校長・理事長谷川寛治徳島航空学校主事・専務理事中川一等飛行士・同糸田川二等飛行士らによって構成された。また、文部省が全国の中等学校・専門学校・高等学校・青年学校・青年団などに訓練を奨励したので、徳島においても、昭和十四年に徳島師範学校、翌十五年に徳島工業学校、同十六年には寺島青年学校が訓練をはじめた。このため沖洲飛行場は、グライダー滑空場となってしまった。


逓信省主導の航空路新設構想から始まった飛行場建設だったのですね。

昭和13年頃に埋立が終わったものの、地上施設は完成せず、

大阪へ、高知へと、市民の期待した路線開設は実現しませんでした。

実現しなかった理由について、資料には特に記されていませんが、

大阪から水上機で小松島、松山、高松に路線開設していた日本航空輸送研究所が、

国策会社である大日本航空の設立により業務停止したのが昭和14年でした。

恐らくこうした徐々に強まる戦時統制の影響じゃないでしょうか。


冒頭でも触れましたが、資料にある通り、諸条件から「沖洲町高洲」が飛行場用地として選定されました。

上に貼った地図は昭和9年のものなので、「ここに造ろう!」と決まる2年前の地図。

海岸沿いに「高洲」という地名がありますからこの周辺なんだろうと分かりますが、

遊水地?の存在感が凄いです。

次の航空写真は昭和22年のものですが、ここでも遊水地?の存在感は相変わらず。

つまり、埋立工事を含む飛行場建設後も遊水地?は変わらずここにあった訳で、

とすると、円形に近い六角形の飛行場はこの遊水地?の内陸側にあったはず。

そう考えて昭和22年の航空写真を見ると、遊水地?の内陸側に三角形の地割が浮かび上がります。

ということで先頭のグーグルマップは、航空写真の三角形の範囲をレイヤにして作図したのでした。

資料では、「総面積六万二〇〇〇余坪(二〇万四六〇〇平方㍍)の買収」とあります。

二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46ha
グーグルマップの三角形≒19.6ha

かなり近い数字ですね。

作図をしていた際は、「この三角形の範囲内に六角形の飛行場があったんじゃないか」と思っていたのですが、

それだと六角形の飛行場はかなり小さくなります。

六角形の飛行場の面積が、二〇万四六〇〇平方㍍≒20.46haだったとすると、

遊水地?は動かしようがないですから、

しっかりと整備されている道路、畑、集落のある側に飛行場を広げざるを得ません。

それよりは、資料内でも「実際に完成したときには三角形であったという説もある。」とある通り、

オイラとしましては、グーグルマップの三角形が飛行場の形にかなり近いのではないかと思います。

買収した飛行場敷地は三角形で、その中で特に離着陸に適した六角形の「離着陸帯」が設定されたのかも。


■徳島市史 第4巻 (教育編・文化編)452p
県立工業学校などは昭和十五年にいち早くグライダーを取り入れ、沖洲飛行場で盛んに猛訓練を繰り返した。

■帰らざるふるさと・徳島75p
(徳島市立工業学校卒業生の手記から一部抜粋) 航空機科の生徒は文部省から支給された「グライダー」の組立てをしたり、沖洲飛行場で連日滑空訓練に汗を流し大いにきたえられた。(中略)しかし昭和二十年八月十五日の終戦とともに航空機科は終わりをつげ、十一月に航空機科は正式に廃止された。

上記2つの資料では、実際に沖洲飛行場で滑空訓練が行われていたことが扱われています。

滑空訓練は終戦まで続けられていたようですね。

民間航空路開設のために建設されたものの、グライダー練習場として終戦を迎え、

その後徐々に開発が進み現在に至ります。

まさに時代に翻弄された土地ですね。

仮に飛行場施設が計画通り完成し、航空路が開設していたとしたら、

もしかして、ここが拡張を続けて徳島空港になった未来もあったのかしらん。

なんてことも考えたのですが、当飛行場がグライダー練習場と化したのが昭和14年、

7km離れた場所に海軍徳島航空基地(現・徳島空港)が発足したのが昭和17年。

海軍は当然沖洲飛行場の存在は知っていたはずですが、それでも一面の田圃に新規で飛行場を造成したのでした。


DSC_2035_00001.jpg
赤マーカー地点。

この先に飛行場が広がっていたのではないかと。




     徳島県・沖洲飛行場跡地         
沖洲飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県徳島市沖須町高洲(現・徳島市北沖洲)
座 標:34°04'14.5"N 134°35'21.7"E
標 高:2m
面 積:20.5ha
(座標、標高はグーグルアースから。面積は徳島市史から)

沿革
1934年 逓信省、この頃航空路新設のため新潟・長野・富山・徳島・高知県内に飛行場建設を決定
1935年 逓信省、74万円の予算計上
1936年 逓信省徳島飛行場出張所設置。その後、候補地の中から高洲に決定。土地買収へ
1937年 8月28日 地鎮祭
1938年 8月 この頃埋立て完成するも地上施設は完成せず 
1939年 徳島師範学校が滑空訓練開始
1940年 徳島工業学校が滑空訓練開始
1941年 寺島青年学校が滑空訓練開始
1945年 終戦

関連サイト:
ブログ内関連記事

この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
「徳島市史 第3巻 (産業経済編・交通通信編)」
「徳島市史 第4巻 (教育編・文化編)」
「帰らざるふるさと・徳島」


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香川県・日本航空輸送高松基地跡 [├国内の空港、飛行場]

   2023年12月訪問  



5.png
1/25000「高松北部」昭和3年測図「今昔マップ on the web」から作成



大正時代、香川県高松市に日本航空輸送研究所の水上機基地が設けられました。

新修高松市史Ⅱ 482p に以下記されていました 

高松空港の由来
大正十一年(1922)十一月、日本航空輸送研究所機が、高松を訪問した。ちょうど、県下で、陸軍特別大演習が、行われている時であったから、速報をたっとぶ新聞社がわから、大いに歓迎、利用された。
 大演習の記事や、写真の輸送に、とりわけ、スピード化を発揮して、喜ばれた。この時の高松-大阪間は、一時間五十分でとんだ。
 大正十二年二月一日、同所(日本航空)は、堺-高松-徳島-堺の、三角コース定期航空を、開始した。
 高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。
 当時の飛行機は、横廠式イ号甲型双浮舟複葉水上機という、いまから考えると幼稚な飛行機であった。
 大正十四年(1925)五月二十日、堺-高松-今治間の郵便飛行を開始した。昭和四年には、大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物の輸送が開始され、高松商船組(高松商運の前身)が、この航空路の代理店であった。
 高松港外(大的場)で、モーターボートによって、連絡し、旅客の送迎、郵便貨物を積み込んだ。とりわけ、悦ばれたのは、スピードを、利用する旅客はもちろん、大阪一流料亭への、鮮魚の輸送などに、おおもてだった。
 このときの使用機は、ユンカーF一三型金属製低翼単葉水上旅客機、発動機ユンカーモーターL五・三一〇馬力、速力、時速一ニ〇キロ、乗員二名、旅客四名、貨物一二〇キロであった。ほかに、ハンザー単葉水上機、六機で、貨物、郵便物も運んだ。
 そのご、昭和九年十二月三日、一四式改造旅客機五機をふやし、大阪-高松-松山-別府線に、就航させた。
 昭和十一年十一月四日から、スーパーマリン、サザンプトン双葉複葉飛行艇を使用した。この艇は、旅客十七名をのせる大型で、これを初めてみた市民は、なんと大きな、飛行艇だと、おどろいたものだ。
 いまでこそ、三十人、五十人、百人乗りの大型機が、就航している。昔のことで、十七人乗りは、大きなもの
であった。
 日本航空輸送が、どうして、この大型艇を、高松へもってきたか。これは、瀬戸内海国立公園の景観を、空からながめさせ、遊覧飛行の将来を、ねらうのが、目的であったらしい。
 だから、この機には、あらたに、エアホステスを乗せ、飛行ちゅう、機内で、空からみる島々の説明をし、飲
みもののサービスに、あたらしていた。
 ともかく、遊覧飛行のムードを、おこさせ、たのしい空の旅を、じゅうぶん、味あわせることに、つとめた。また大阪商船と、タイアップして、連絡券を発行し、飛行機と船で、高松、松山、別府への観光客を、誘致に努めたので、成績があがったといわれる。
 昭和十五年に入って、戦線はきびしく、戦時体制が強化された。こういうわけで、大阪-高松間の航空路を、そだてた日本航空輸送研究所は、大日本航空(株)会社に、統合された。
 そのご戦況おもわしくなく、ローカル・ラインは、ついに廃止された。瀬戸内海定期航空路は、戦争のため影
を消した。

「高松の基地は、西浜漁港の近く、鉄道線路北がわに、格納庫一棟と、引揚用桟橋を設けて、ここから沖合に出た。」

とあります。

これは大正12年(1923年)のことで、上に貼った地図は昭和3年(1928年)のものですが、

確かにそんな感じになってますね。

先頭のグーグルマップをご覧の通りで、その後埋立が進み、

当時の海岸線も桟橋も、今はすっかり陸地になっています。

DSC_2019_00001.jpg
赤マーカー地点。

瀬戸大橋通りを跨ぐ陸橋から。

当時はこの瀬戸大橋通りの画面向って右側が陸側で、左側が海でした。

陸側から海に突き出した桟橋は、画面左端のボーリング場の辺りまで伸びてました(オイラの作図が正しければ)。

この辺りで小型水上機や連絡船の行き来があったはずです。




     香川県・日本航空輸送高松基地跡         
日本航空輸送高松基地 データ
設置管理者:井上長一
種 別:水上飛行場
所在地:香川県高松市浜ノ町9-12
座 標:34°20'57.7"N 134°02'20.1"E
標 高:2m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1922年11月 日本航空輸送研究所機飛来
1923年02月 1日 堺-高松-徳島-堺の三角コース定期運航開始
1925年05月 20日 堺-高松-今治間郵便飛行開始
1929年   大阪(木津川)-高松-松山間の旅客、郵便、貨物輸送開始
1934年12月 3日 大阪-高松-松山-別府線に一四式改造旅客機就航
1940年   日本航空輸送研究所、大日本航空(株)会社に統合

関連サイト:
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