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山口県・和佐基地跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年5月訪問  



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撮影年月日1947/03/12(昭22)(USA M114 54) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山口県大島郡周防大島町和佐海岸。

大戦末期、ここに海軍の「和佐基地」がありました。

基地を設営し、浜辺で水上機の訓練を実施したのですが、ここは非常に特異な基地でした。

当基地については、ブログ大日本者神國也 の盡忠報國様から送って頂いた情報で初めて知りました。

以下、送って頂いた資料から一部引用させて頂きます。

盡忠報國様、貴重な資料をどうもありがとうございましたm(_ _)m


六三一空の訓練状況
「晴嵐」の航空隊六三一空は、十九年十二月十五日、鹿島空内に開隊したが、先にも述べたように、「晴嵐」は横空水上機班で実験飛行中だったので、開隊時には「晴嵐」の配属は一機もなかった。
 二十年一月はじめには、実験機二機を含め「晴嵐」は四機となった(中略)
 さて、呉空における六三一空の飛行訓練はこうしてはじめられたが、呉空は山が迫っているなど空域が意外に狭く、水偵ならまだしも、高速、高性能な「晴嵐」「瑞雲」の訓練には不向きであった。
 事実、藤村昌一、園田直両上飛曹の「瑞雲」が空中事故を起こして殉職するという状況だったので、訓練適地を他にもとめることになり、福永飛行長と浅村飛行隊長が空から探した結果、瀬戸内海屋代島の和佐海岸を選定した。このため、私たち六三一空基地要員も早速、連絡船で和佐に渡り、海岸周辺の民家数軒を借り受け、三月五日、にわか造りの基地を設営した。
 かくて、二、三日後、有泉司令は軍令部の藤森参謀に電話を入れ、「瀬戸内海屋代島の和佐に訓練基地を設けた。訓練状況を見て欲しい」
 と連絡したので、同参謀は直ちに呉に出向き、呉空から出迎えの「晴嵐」で和佐に飛び、訓練状況を視察した。
 視察後、藤森参謀は有泉司令に、「『晴嵐』の着水状態が悪いなあ」
 と言ったところ、司令は笑いながら、「そうなんだ。しかし、あんまり着水せんでもいいからなあ。(実戦では大型爆弾を積むためフロートを着けないで発進し、帰投時は胴体着水して機体は海没放棄、搭乗員だけを収容することに
なっていたことを意味する)、でも、ひっくり返ってはいかんなあ」
 と答えたあと、「立派に決行するよ」
 と決意を述べた。(中略)

 一方、屋代島の和佐基地は呉空にかわる適地として選ばれた水上機基地だったが、当然のことながら和佐の海岸は砂浜のため、「晴嵐」がエンジンをふかすと砂が舞い上がり、これが機体の組み立てジョイント部分に入り込み、再三トラブルを起こすなど、和佐海岸も「晴嵐」の訓練基地としては不適当であった。
 また、三月十九日には米艦載機による呉軍港急襲があったし、二十七、三十日の両日には、B29により瀬戸内海西部海域一帯におびただしい投下機雷が敷設され、この時期、瀬戸内海はすっかり危険海面に一変し、「潜水空母」の訓練どころではなくなっていた。


ということで、ここは「晴嵐」の訓練のために使用された基地でした。

「潜水空母」などという、まるでSFの世界の架空兵器のような、当時世界最大の潜水艦「伊四百」。

「晴嵐」は、そこに搭載される水上攻撃機だったのですね。

乗りものニュース:「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」

にて「伊四百」について分かり易く扱われていました。
 

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赤マーカー地点周辺

大戦末期、ここで「潜水空母搭載型水上攻撃機」という、世界に類を見ない水上機の訓練が行われていたのですね。

しかしキレイな砂浜と海です。




     山口県・和佐基地跡地         
和佐基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:〒742-2518 山口県大島郡周防大島町和佐
座 標:33°54'54.6"N 132°22'51.3"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1945年03月 5日 訓練基地として選定。周辺の民家数軒を借り受け、基地設営
       27日,30日 瀬戸内海西部海域一帯に大量の投下機雷が敷設され、危険海面となる

関連サイト:
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広島県・江田島の飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年5月訪問  



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撮影年月日1962/07/30(昭37)(MCG628 C25A 8) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


広島県江田島市にある 海上自衛隊第1術科学校大原訓練場。

戦後、進駐軍によってここに滑走路が建設されました。

当飛行場につきましては、ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」様から全面的に情報頂きました。

探し物をしていてたまたまブログを拝見して初めてこの飛行場の存在を知ったのですが、

Google、アジ歴、国立国会図書館デジタルコレクション、埼玉県立図書館で検索しても、

当飛行場に関する情報は一切出てきません。

管理人のわき様が地元取材を元に徹底的に調べて内容をまとめたブログ記事が唯一無二のものです。

そんな訳で、当飛行場について詳しくは、

ブログ:「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地 

をご覧くださいませ。

関連情報を徹底的に調べ上げておられ、凄いの一言です。

オイラも見倣わねば。

管理人のわき様、掲載快諾下さり、どうもありがとうございましたm(_ _)m

 
当飛行場は、規模と致しましては、未舗装の800m級滑走路です。

「進駐軍が新規で建設した小規模滑走路」としては、

岩手県の「見前滑走路」 
神奈川県の「伊勢佐木町(若葉)飛行場」 「間門飛行場」 
長野県軽井沢の飛行場跡地 

等あります。

軽井沢の飛行場は休暇でゴルフを楽しむ将校用なので別として、

他は連絡、通信用でした。

当飛行場も恐らく同じ用途なのではないかと。


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赤マーカー地点。

滑走路北端付近。

黄色矢印方向に滑走路が伸びてました。

先頭のグーグルマップ、航空写真をご覧頂いた方が早いのですが、滑走路として使用していた当時は、

画面奥に向って滑走路を横切る道路はなく、画面左側にも少し滑走路が続いてました。


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滑走路方向に沿った道路。


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フェンスと緑に阻まれるのですが、ちょっとだけ滑走路跡が見えました。


DSC_2866_00001.jpg
青マーカー地点。

滑走路のある場所は埋立地なんですが、水路を暗渠化して滑走路にしてたんですね。




     広島県・江田島の飛行場跡地         
江田島の飛行場 データ
設置管理者:進駐軍
種 別:陸上飛行場
所在地:広島県江田島市江田島町大原官有地
座 標:34°15'08.5"N 132°27'02.7"E
標 高:7m
滑走路:830mx40m(最大)
方 位:01/19
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1947年 この頃から約8年間運用していたと思われる

関連サイト:
「江田島って・・・どんなとこ?」大原特借宿舎 大原飛行場跡地 
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鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年1月訪問  



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撮影年月日1965/12/21(昭40)(MKU653X C15B 3) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)


鹿児島県奄美大島の南端に海軍の「奄美大島水上基地(古仁屋基地)」がありました。

この記事作成に当たって、鹿児島のこういちさん、地元図書館の学芸員さんに大変お世話になりました。

どうもありがとうございましたm(_ _)m

先頭のグーグルマップは、「せとうちなんでも探検隊/須手」 から作図させて頂きました(これが一番詳細だった)。


■戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」p100

十九年一月八日、佐鎮命令による航空基地整備要領は次のとおりで、従来と違って明らかに作戦基地として整備が進められた。

施設名 奄美大島
工事要領等 古仁屋基地現工事を極力促進す
(滑走台新設を含む)
記事 昭和一八年官房機密第二八三三号訓令に依り施行

防衛庁防衛研修所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦』,朝雲新聞社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9581812 (参照 2024-05-15)
 

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

位置 鹿児島県大島郡古仁屋
基地名 奄美大島水上基地
建設ノ年 1940
飛行場 80x40 60x15 混木
格納庫 1,800㎡
収容施設 士官 50 兵員 150
工場倉庫 〇(施設あるも数量不明)
主要機隊数 小型機
主任務 作戦
隧道並に地下施設 〇(施設あるも数量不明)
掩体 〇(施設あるも数量不明)


■名瀬市史 下巻
62p
大島の要塞とその重要性 日本海軍の戦略からいって、南西諸島の役割として、二つのことが考えられていた。その一つは、艦隊の前進基地としての役割、すなわち迎撃戦の場合、主力の前進基地として、大島の薩川湾が考えられていた。これはのちには、トラック島に変わることになる。今一つの役割は、海上交通上の要地という考え方である。南西諸島は、南方からの重要物資の輸入や、補給作戦などにおいて、南方航路の哨戒や護衛のための中間基地として、重要であると考えられていた。
63p
十九年十月十日、空母十七隻を基幹とした米機動部隊の延一四◯◯機による南西諸島の空襲は、空の威力をまざまざとみせつけられた。海軍は、古仁屋の須手の航空基地の滑走台新設、喜界に小型機約五◯機分の秘匿所工事を、二十年二月完成をメドに、指令した。陸軍も、十八年、徳之島に機動用飛行場の建設に着手した。
66p
近海における戦闘は、昭和二十年(一九四五)3月ごろ米機動部隊が接近してきてから、航空隊による索敵および攻撃がなされている。三月二十五日には、喜界空港から天山五機が発進し、米戦艦二隻に夜間雷撃を加えている。二十六日、第一機動(中継)基地航空部隊指揮官は、喜界基地使用を有利と認め薄暮、七◯一空司令を基地司令官として、彗星一八機・天山五機を率い、同島に進出させている。そのうち、天山五機は二十七日◯時発進し(未帰還二)、彗星一二機は五時三◯分発(未帰還九)となっている。4月十一日には、本島南方にある機動部隊へ、爆戦五◯機・彗星九機が攻撃を加え、空母二隻・艦船三隻に被害を与えたが、二五機が未帰還となっている。4月二十五日には、古仁屋からも、瑞雲三機が沖縄周辺艦船攻撃に飛び立っている。このように奄美諸島近海では、終戦まで毎日のように、米機動部隊と日本特攻隊との激戦が展開されていたのである。


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施設跡・1

ということで現地にお邪魔してきました。

現在は埋立が進んでいますが、当時は道路隔ててすぐ浜辺でした。

山を削って平地を確保したんでしょうね。

当時は基地の施設が立ち並んでいた場所ですが、現在はガス会社等の敷地になっています。


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紫マーカー地点。

海軍航空隊古仁屋基地跡碑。

須手二本松公園の道路側にあります。


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平成三年九月 海軍航空隊古仁屋基地跡 瀬戸内町大正会之建

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碑文 この須手地内は大東亜戦中旧日本海軍航空隊唯一の南進中継基地として前線に匹敵する役割を果した戦跡の地である 平成三年九月


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施設跡・2

ここも基地当時、諸施設があった場所です。

ここで海側を振り返ると、


DSC_2772_00001.jpg
こんな感じ。

海沿いの脇道がありますね。

入り口の形状はなだらかに変わりましたが、この脇道は当時からありました。

この脇道を進んでみます。


DSC_2775_00001.jpg
施設跡・3

この建物は当時の詳細な地図に描かれた地割と一致しています。


DSC_2776_00001.jpg
施設跡・4

このスベリは、基地当時の地図には無いので、戦後に建設されたと思うのですが、

防波堤?の沖に向って伸びる部分は、一部が当時の地図に出ています。

画面右側、「立入禁止」「遊泳禁止」2枚看板が並んでます。

ここでカメラを右に振ると、


DSC_2778_00001.jpg

DSC_2777_00001.jpg
こんな感じ。

砂浜は、「立入禁止」の看板のあるコンクリが立ち塞がる向こう側があり、

この場所からこれ以上西に進めないっぽいので、施設跡(と思われるもの)を撮りつつ、県道に出ることに。


DSC_2779_00001.jpg

DSC_2781_00001.jpg


DSC_2782_00001.jpg
施設跡・5

県道に出て、一気に150m位西に進みました。


DSC_2820_00001.jpg
先頭のグーグルマップで見た方が早いのですが、ここから山奥に向って、

かなりの数の施設が立ち並んでいました。

が、山の方へは行かず、ここで左折して海の方に向います。


DSC_2783_00001.jpg
例によって施設跡(と思われるもの)を撮りつつ進みます。


DSC_2784_00001.jpgDSC_2788_00001.jpg
東京大学医科学研究所 奄美病害動物研究施設
ハブ実験飼育中に付ききけんですから入ってはいけません

「古仁屋基地跡地は現在東大の施設になっている」的な説明をしばしば目にしました。

いよいよ中枢に踏み込みます!<(`・ω・´)(入ってないけど)。


DSC_2789_00001.jpgDSC_2790_00001.jpgDSC_2792_00001.jpgDSC_2793_00001.jpgDSC_2791_00001.jpgDSC_2794_00001.jpg
これは先程の東大施設内を外側から撮ったのですが、

第四塁 
品名 第二石油類(JIS2号軽油)
最大数量 三九〇立
少量危険物貯蔵取扱所
火気厳禁
とあります。

灯油貯めてあるみたいですが、コンクリのこの質感からすると、基地当時の施設を流用しているような…


DSC_2796_00001.jpgDSC_2797_00001.jpg
施設跡・7

中枢の西の端っこに来ました。

基地当時の地図からすると、ここは中枢の敷地外のため、このスベリは当時からあったとしても、

水上機が使用したものではないはず。幅も狭いですし。

以下この周辺をずらずらと。


DSC_2798_00001.jpgDSC_2799_00001.jpg

DSC_2801_00001.jpgDSC_2803_00001.jpgDSC_2804_00001.jpgDSC_2806_00001.jpg
中枢側。

水上機用の滑走台跡です。


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施設跡・8


DSC_2811_00001.jpgDSC_2812_00001.jpgDSC_2814_00001.jpg
赤マーカー地点。

当時はここに滑走台があり、日常的に水上機が使用していました。




     鹿児島県・奄美大島水上基地(古仁屋基地)跡地         
奄美大島水上基地(古仁屋基地) データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
所在地:鹿児島県大島郡瀬戸内町手安
座 標:28°09'00.3"N 129°18'01.7"E
滑走台:80x40 60x15 混木
(座標はグーグルアースから。滑走台長さは防衛研究所収蔵資料から)

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」
名瀬市史 下巻
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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鹿児島県・旧奄美空港跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2024年1月訪問  



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撮影年月日1984/05/10(昭59)(KU843X C5 16) 
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撮影年月日1990/12/25(平2)(KU905X C19 11) 廃港から2年後。滑走路にXマーキング
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


鹿児島県奄美大島にあった旧奄美空港。

奄美群島復興振興事業により、総工費1億9千万円で着工したもので、1964年開港。

1988年、北東約2kmに新空港が開港するまでは、ここが奄美大島の空の玄関でした。

現在、滑走路の南側とエプロン、ターミナル等は奄美パークとして整備されています。


■航空振興(1970年発行)
空港紹介/再拡張計画が要望される奄美空港(一部抜粋)
 開港当初は東亜航空のコンベア240による鹿児島-奄美-徳之島間、ヘロン機による鹿児島-喜界-奄美間各1便であったが、40年7月に全日空がF-27により鹿児島-奄美-沖縄間週2便正式運行するようになり、このため41年4月1日小さいながらも"国際空港"になった。その後旅客の増加にともない増便、また機種も両者ともYS-11に変更、現在の定期便は東亜航空が鹿児島間3便、徳之島間2便、沖永良部間、喜界島間各1便、全日空が鹿児島-奄美-沖縄間週6便となっているが、各便とも利用率は比較的高く、特に奄美-鹿児島間は盛況で、オフシーズンの場合でも捌ききれない現状である。これら定期便のほか自衛隊機、使用事業機、自家用機等の飛来も多く、それに台湾、フィリピン等の中継基地としても活用され、離島空港としては大変な繁盛ぶりで、42年に拡張されたエプロンも、すでに狭隘になり再拡張の要望が強い状況である。
 当空港は北緯30°以南にあるため、沖縄FIRに属し管制指示は、すべて米軍が運営する沖縄ACCから受けており、また徳之島、沖永良部、喜界各空港の管制指示、管制通報など管制上の業務については、当所がカバーするという特異な業務形態にあるため、運用にあたる職員のはかりしれぬ労苦は並々ならぬものがある。

問題点
 離島空港は地形上との制約から、いずれも幾多の問題を抱えているようであるが、当空港も悩みは多い。その一つに着陸帯両端の急勾配がある。特に02側は急勾配表示はしているが、10m余の断崖で、その下は県道を隔てて
サンゴ礁の隆起した海になっており、気流の乱れも激しく危険なため、早くから緩勾配実施の要望が出されているが、延長問題ともからんで早急な実現は困難のようである。(以下略)


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奄美大島の空の玄関として賑わう奄美空港


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タクシーが並ぶターミナル周辺
南海日日新聞社, 沖縄グラビア社 編『新奄美大観』,南海日日新聞社,1970.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9774504 (参照 2024-05-14)上2枚とも


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『かごしまの建設事業』昭和51年版,鹿児島県土木部,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9669523 (参照 2024-05-14)



ということで、現地にお邪魔してきました。
 

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赤マーカー地点。

ここが滑走路の南側の端っこで、ターニングパッド跡の辺りから滑走路方向。

前述の「航空振興」で問題点として挙げられていた箇所です。

高低差ができてますが、当時の滑走路はあの高さだったのではないかと。

あの高い所に移動してみます。


DSC_2737_00001.jpg
青マーカー地点。

移動してきました。

R/W02エンド付近から海方向。

こんな急勾配ギリギリに滑走路端があると、気流が乱れて上手く飛べないのですね。

某ヒロインもここに着陸する時はユパ様に運んでもらうのかしらん。


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黄色マーカー地点。

野外ステージ上から。

ここから奥にあるあの白い施設に向って真っすぐ滑走路でした。


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灰マーカー地点。

当時はこの辺りから、ターミナル、駐車場エリアが広がってました。


DSC_2753_00001.jpg
黒マーカー地点。

当時はここから奥に向ってエプロンでした。


DSC_2756_00001.jpg
紫マーカー地点。

展望台。


DSC_2758_00001.jpg
(*´∀`*)


DSC_2760_00001.jpgDSC_2761_00001.jpg
立入できないエリアなのですが、滑走路面が見えます。


DSC_2765_00001.jpg
この黄色のラインは、一応滑走路のつもり。

当時の航空写真と比較すると、奥の野外ステージの辺りから、白くて丸い施設を通過しているはずなので、

多分こんな感じだったのではないかと思います。



     鹿児島県・旧奄美空港跡地         
旧奄美空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:第3種空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県大島郡笠利町
標 点:28°24′55″N 129°41′55″E
標 高:23.3m
面 積:18.62ha
着陸帯:1,360mx90m
滑走路:1,240mx30mアスファルト
方 位:02/20
(データは航空統計年報 昭和37年から。方位は航空写真から)


沿革
1961年11月 30日 空港設置許可(旧空港)
1964年03月 17日 第3種空港政令指定
     06月 1日 供用開始(R/W1,240m×30m)
     07月 ターミナルビル供用開始。東亜航空が鹿児島線、徳之島線開設
1965年02月 東亜航空が喜界線開設
     03月 全日空が鹿児島線、沖縄線開設
1967年   単車輪荷重8.5tまで着陸可能に補強
1972年02月 東亜国内航空が沖永良部線開設
1982年09月 3日 空港設置許可(新空港R/W2,000m×45m)
1983年12月 東亜国内航空からの路線移管により日本エアコミューターが喜界、徳之島、沖永良部、与論線開設
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)
2001年09月 30日 奄美パーク開園


関連サイト:
鹿児島県/奄美空港 
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この記事の資料:
航空振興(1970年発行)
航空統計年報 昭和37年
全国空港ウォッチングガイド


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鹿児島県・奄美空港 [├国内の空港、飛行場]

   2024年4月訪問  



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撮影年月日1983/11/03(昭58)(KU831Y C2 20) 新空港設置許可から1年。開港まであと4年8ヵ月
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撮影年月日1996/02/12(平8)(KU953X C17C 11) 開港から7年7ヵ月
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)
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SkyVector.com

鹿児島県奄美群島最大の島、奄美大島。

その奄美大島の北東部、リーフ上に奄美空港があります。

元々は南西約2kmに旧空港があったのですが、1988年の現空港開港により、ジェット化を果たしました。

国内主要都市空港と奄美群島各空港とのハブ空港としての機能を果たしています。


【奄美空港 建設】等のワードで図書目録を見ると、

上述の通り新空港の滑走路はリーフ上に建設されたため、反対運動が起こったこと、

またエプロンやターミナル、駐車場周辺には多数の遺跡が存在することから、発掘調査が実施されたこと

等出てきました。


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     鹿児島県・奄美空港         

    ビュー:☆☆☆☆★  
屋上に広々とした無料展望デッキあり。
滑走路側は高いフェンスが張られているが、細長い窓が設けてあり、エプロン、滑走路全域見渡せる


    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
分かり易いターミナル。ファミレス、各種売店あり


    マニア度:☆☆☆★★  
周辺は撮影スポットに恵まれている


    総合:☆☆☆☆★  
奄美群島と本土を結ぶハブ空港


奄美空港 データ
設置管理者:鹿児島県
種 別:地方管理空港
3レター:ASJ
4レター:RJKA
所在地:鹿児島県奄美市
標 点:北緯28度25分51秒東経129度42分45秒
標 高:4.2m
面 積:109.6ha
着陸帯:2,120m×300mC級
滑走路:2,000m×45mLA-12
方 位:03/21
誘導路:2,383m×23~30m
エプロン:331.5m×190m(MJ-1,SJ-2,プロペラ-3,大型ヘリ-1)
駐車場:241台
照明施設:精密進入用灯火1式
無線施設:VOR/DME,ILS
運用時間:8時00分~19時30分(11.5時間)
(主に県公式サイトから)


沿革
1982年09月 新空港設置許可
1983年   この年から遺跡調査実施
1985年07月 新空港の航空灯火設置許可(CAT-1)
1987年04月 新空港の空港施設変更許可
     05月 新空港の航空灯火変更許可
     09月 新空港の航空灯火変更許可(PAPI)
1988年07月 10日 空港施設供用開始(1期R/W2,000m×45m)、航空灯火供用開始(1期夜間照明,PALS420m)
       日本エアシステムが鹿児島線ジェット化
1989年07月 24日 航空灯火変更許可(転回灯,SALS)
     09月 21日 航空灯火供用開始(2期PALS900m)
1990年07月 1日 空港施設供用開始(2期着陸帯150m→300m)  航空灯火供用開始(3期CAT-1)
1992年12月 日本エアシステムが東京線を開設(MD-81)
1993年03月 2日 空港施設変更許可(A/P拡張等の変更3~4期) 航空灯火変更許可(4~4期)
1994年09月 日本エアシステムが関西線を開設
1995年02月 21日 航空灯火変更許可(R/W灯等)
     06月 22日 空港施設供用開始(3期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(4期平行T/Wに伴う)
     11月 エアーニッポンの鹿児島・那覇線が全便ジェット化
1996年05月 23日 空港施設供用開始(4期平行T/W,A/P拡張) 航空灯火供用開始(5期平行T/Wに伴う)
1997年05月 22日 航空灯火供用開始(R/W灯等)
1998年12月 日本エアシステムが関西線休止、伊丹線開設
1999年02月 エアーニッポンの那覇線休止。琉球エアコミューターが那覇線開設
2004年12月 6日 航空灯火変更許可(高輝度誘導案内灯)
2005年06月 30日 空港施設変更許可(A/P拡張) 航空灯火変更許可(A/P拡張に伴う)
2007年09月 27日 空港施設変更供用開始(A/P拡張) 航空灯火変更供用開始(A/P拡張に伴う)
2009年08月 18日 航空灯火変更許可(CCR用無停電電源装置)
2011年04月 7日 航空灯火変更供用開始(CCR用無停電電源装置)
2016年09月 7日 航空灯火変更許可(SALS光度変更)

 
関連サイト:
空港公式サイト 
鹿児島県/奄美空港 
航空局/奄美空港(38コマ) 
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この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド

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