SSブログ
├国内の空港、飛行場 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

赤井野グライダー訓練所(大日本飛行協会兵庫支部第二地方滑空訓練所)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年10月訪問  



8.png
撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M628-1 65) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


兵庫県丹波市にあるひかみカントリークラブ。

ここは終戦まで滑空訓練所でした。

ネット上にある地元紙等にあった情報を以下まとめさせていただきました。

クラブハウス付近に「中級」の訓練場と格納庫があり、グリーンの一部が「初級」の訓練場で、

ヒメボタルが住む林の入り口左手に寄宿舎2棟と厨房と教官の官舎、

その奥にもう1棟格納庫があったのだそうです。

地元周辺の15歳前後の少年たちが集められ、最盛期には100人以上がここで訓練をしていたのだそうです。

当ゴルフ場の東南東約7kmに県立柏原高等学校があるのですが、

「柏原高校百年史」には、昭和16年に旧制柏原中が赤井野原野を開墾し、滑空訓練をしたこと、

同校が英語の模試で全国1位になった副賞に、主催会社からグライダー一式が授与されたこと、

等記されており、卒業生の父兄も同型の2機を贈呈。

昭和17年には同校の滑空班から甲種飛行予科練練習生が生まれ、以後、続々と予科練志願者が現たのだそうです。


DSC_1443_00001.jpgDSC_1447_00001.jpg
ゴルフ場北側から。




     兵庫県・赤井野グライダー訓練所(大日本飛行協会兵庫支部第二地方滑空訓練所)跡地         
赤井野グライダー訓練所(大日本飛行協会兵庫支部第二地方滑空訓練所) データ
種 別:滑空場
所在地:兵庫県丹波市
座 標:35°09'11.5"N 135°00'41.2"E
標 高:117m
滑空場:800mx340m(不定形)
(座標、標高、滑空場長さはグーグルアースから)

沿革
1941年 旧制柏原中、赤井野原野を開墾。滑空訓練実施
1945年 終戦

関連サイト:
ブログ内関連記事



共通テーマ:趣味・カルチャー

京都府・安井飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年10月訪問  



v.png
『綾部』五万分一地形圖 明治26年測図/大正9年修正 『園部』五万分一地形圖 明治26年測圖/大正9年修正測圖 
1.png
報知新聞社 編『報知年鑑』大正14年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976132 (参照 2023-10-29) 
3.png
4.png
報知新聞社 編『報知年鑑』大正15年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976133 (参照 2023-10-29)上2枚とも 
5.png
報知新聞社 編『報知年鑑』大正16年,報知新聞社,大正13-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/976134 (参照 2023-10-29) 
u.png
『我等の田園生活』1927刊,京都府立京都第一中学校田園生活団,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1030690 (参照 2023-10-29) 


大正時代、京都府船井郡京丹波町に「安井飛行場」がありました。

残念ながら飛行場の正確な位置、形は不明です。

資料に飛行場の広さが「4万坪」とあるため、先頭のグーグルマップの黄色のシェイプは、

「仮にここにあったとすると、4万坪はこんな大きさです」という程度のものですのでご了承ください。

飛行場のあった場所については、「曽根」「須知町」「院内」「高原」等の地名が挙げられています。

一般に飛行場の名称は地名からとられることが多いのですが、

「須知町」の南西約3kmに「安井」という地名があり、当初はここにあったのかと思ったのですが、

上に貼った資料の通りで、飛行場の所在地は「曽根」。

代表者/使用者は、安井荘次郎氏。

ということで、飛行場の名称は、地名ではなく代表者のお名前からとったようです。

大正時代に6年程しか活動していない飛行場なのですが、

それでも良質のサイト様がたくさんあります。

正確な位置をピンポイントで示したものはないため、自力で探すことになりますのだ。


上に貼った地図は大正9年測図ですが、安井氏が飛行場の造成にとりかかったのは大正10年ですから、

この地図は飛行場造成前年のものということですね。

肝心の「曽根」には道沿いに集落があり、その北側に等高線の間隔が広いエリアがあります。

(この地図では見切れてますが、「曽根」集落の南側は等高線が密集している)

それで、地図に赤丸で囲った辺りに飛行場が造成されたのではないかと。

幾つかの資料では、「河原に研究所を設けた」「河川敷に格納庫」といった表現があります。

地図の赤丸内の東側に川(青矢印)があり、もしかしたらここのことかもしれません。

造成翌年開場式が行われたのですが、

■京都府教育会何鹿郡部会 編『何鹿郡誌』,京都府何鹿郡教育部会,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020239 (参照 2023-10-29)■ 

↑の資料によれば、

大正十一年十一月一日安井飛行場を船井郡須知町付近なる院内野に設く。常時飛行場の廣さ約八百三十アール。

とありました。

上に貼った資料では、「民間飛行機操縦術練習所」の項目に「安井航空機研究所」として紹介されています。

現代でいうところのフライトスクールとして登録していたのですね。

8.png
朝日新聞社 [編]『朝日年鑑』昭和4年,朝日新聞社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1117692 (参照 2023-10-29) 


↑これは朝日年鑑の一部ですが、昭和2年11月3日の出来事です。

ここでは「死傷者十数名」とありますが、死者が1人出る事故となってしまい、

安井氏本人も昭和3年に大阪木津川尻飛行場にて墜落、死亡してしまい、飛行場はその後閉鎖となりました。


某サイト様に、安井飛行場運用当時の絵葉書が掲載されていました。

広々とした草地?が広がり、地上と上空に複葉機。背後に山並み。

というものです。

もう100年近く前の飛行場ですが、山並みの形はそうそう変わらないはず。と考え、

この画像を拡大印刷させて頂き、ストリートビューで似た山並みを随分探したのですが、

絵葉書とピッタリ同じ山並みは見つかりませんでした(手前の山脈と奥の山脈がうまく合致しない)。

それでも、最も似ている(と思われる)場所があり、

この絵葉書は、曽根の集落の北側から南東方向に向かって撮ったのではないかと思いました。

ということで、アタリをつけた場所にお邪魔して、絵葉書を印刷したものと見比べながらアチコチ探したのでした。

飛行場として広々と整地された当時と異なり、現在は建物が点在し、植生が広がり、

遠く山並みを見渡せる場所は限られています。

結局のところ、現地でも「ココ!!」という場所を探すことはできませんでした。

現地は京都の静かな山村という感じで、如何にも飛行場に適した広々と平坦な、美しい場所でした。


DSC_1442_00001.jpg
赤マーカー地点。

南東方向。

今から100年以上前、この辺りから写真奥に向って飛行場が広がっていて、

ヒコーキが飛んでいた(のではないか)と思うのですが。。。




     京都府・安井飛行場跡地         
安井飛行場 データ
代表者:安井荘次郎
種 別:陸上飛行場
所在地:京都府船井郡京丹波町曽根
座 標:35°10'02.4"N 135°24'27.2"E?
標 高:183m?
面 積:13.2ha
(座標、標高はグーグルアースから。面積は当時の資料から)

沿革
1921年    飛行場造成開始
1922年11月 1日 開場
1927年11月 3日 飛行大会中事故
1928年    安井氏、大阪木津川尻飛行場にて墜落、死亡。その後飛行場閉鎖

関連サイト:
ブログ内関連記事 



共通テーマ:趣味・カルチャー

滋賀県・京阪レークセンター水上機基地跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2023年10月訪問  



無題l.png
撮影年月日1968/05/24(昭43)(MKK682 C6 5) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
h.png
1/25000「京都東北部」昭和42年改測「今昔マップ on the web」から作成 


滋賀県大津市浜大津。

昭和36年から47年までの11年間、琵琶湖南岸に遊覧飛行用の水上機基地がありました。

この水上機基地の場所がなかなか絞り込めなかったため、大津市歴史博物館にメールを送ったのですが、

送信から僅か23分後に以下の返信が届いたのでしたΣ(゚Д゚;)


とり様
お問い合わせの件、お答えいたします。
基地の場所は、現在の 〒520-0041 滋賀県大津市浜町2のうち
タイムズ浜大津アーカス(第一)という屋外駐車場がある位置にありました。
当時は京阪レークセンターという施設の中にありました。
基地いっても、湖上から陸揚げするためのスロープと、水上機を留置する場所に簡単な柵が作られていたこと。
また、事務所の建物が1棟あったくらいです。

以下のページに写真を公開しております。
水上飛行機乗り場(昭和36年)|大津の古写真 (rekihaku.otsu.shiga.jp) 
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/shashin/detail.html?4868

また、他にもいくつか写真がありますので、水上とかレークセンターなどで検索してください。
なお、大津には戦前にも水上機の基地が別な場所にありました。
天虎飛行研究所や天虎飛行場という施設で、昨年閉店した西武大津店の西側にありました。
いずれも昭和・平成と段階的に埋め立てられており、当時の痕跡はありません。

大津市歴史博物館 

ということで、史上最速のメールによってご教授頂き、場所を特定することができたのでした。

大津市歴史博物館様、迅速で丁寧な対応誠にありがとうございましたm(_ _)m


DSC_1406_00001.jpg
赤マーカー地点。

当時はこの駐車場入口付近に水上機基地の事務所があって、


DSC_1407_00001.jpg
向い側に駐機場がありました。


DSC_1410_00001.jpg
現在はラウンドワンが建っています。

で、でかい!!


DSC_1408_00001.jpg
(みず)うみ←素で間違えた。だってデカいんだもん。

現在は埋立が進み、なぎさ公園が整備されています。


DSC_1411_00001.jpg



     滋賀県・琵琶湖水上機基地跡地         
琵琶湖水上機基地 データ
運航者:関西航空
種 別:水上機基地
所在地:滋賀県大津市5丁目
座 標:35°00'41.4"N 135°51'59.6"E
(座標はグーグルアースから)

沿革
1961年 開設
1972年 利用低迷で廃止

関連サイト:
大津市歴史博物館/大津の歴史データベース 
ブログ内関連記事



共通テーマ:趣味・カルチャー

環七滑走路跡 [├国内の空港、飛行場]

   2023年7月訪問  



3.png
航空写真:A
0.png
航空写真:B
撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)

東京都道318号環状七号線、通称「環七」。

大戦末期、この環七の一部が滑走路として整備されたとする資料があります。

正式名称不明のため、当記事では便宜的に「環七滑走路」として以下話を進めます。

この資料は、以前赤羽飛行場■ で大変お世話になった、

「北区の歴史を学ぶ会」の本間様からお送り頂いて初めて知りました。

本間様どうもありがとうございましたm(_ _)m

因みに現在のところ、ネット、防衛研究所収蔵資料等オイラの手持ち資料には、

ここが滑走路だったとする情報はなく、頂いた資料が唯一のものです。


航空写真:Bから明らかですが、

当時の環七は、国道17号より西側と、国道122号より東側がブツ切れ状態です。

国道122号の東側には隅田川が横たわっていますが、未だ橋脚工事の雰囲気もありません。

実は隅田川を越しても、すぐ先には荒川がラスボス的存在で待ち構えています。

昭和2年の建設計画に盛り込まれた環七は、都心部を環状に大きく囲む形の道路なのですが、

頂いた資料によりますと、国道17号と国道122号の連絡のため、

上に貼った航空写真の部分がいち早く着工したのだそうです。

「国道17号と国道122号の連絡」という意図を知れば、

こんな短い部分だけ先行工事をする意味は十分納得ですね。

余談ですけど、都心部に向かう放射状の道路は充実している一方、

環状道路の整備は令和の現代に至るまで続いており、

埼玉在住のオイラからすると、横方向の道路は近年ようやくが整ってきた。という感覚です。


話を戻します。

先行して着工した環七の「国道17号~国道122号」区間だったのですが、

頂いた資料によりますと、

その後陸軍により用地収容と整備が積極的に進められ、大戦末期の時期には本土決戦に備え、

道路幅を50mに再拡張し、飛行機の離着陸が計画され、建物の強制撤去が行われました。

軍隊がやって来て、柱を鋸で切り綱をつけて引っ張り次々と家が取り壊されていきました。

そこまでして拡幅を進めたのですが、結局一機も飛ぶことなく終戦を迎えました。

そして戦後の昭和25年、ホンダは北区上十条5丁目26番地に東京工場を設置(紫マーカー)。

この拡幅部分をオートバイの試走路として使用しました。

資料には、滑走路にされかけた直線道路を目当てにこの地を工場用地として選んだのではないか。とありました。

ということで、現地にお邪魔してきました。


DSC_1182_00001.jpg
赤マーカー地点。

姥ヶ橋交差点には現在陸橋が設けられています。

ここから西に向かって拡幅されました。


DSC_1184_00001.jpg
赤マーカー地点。

陸橋下。

外回り側から滑走路方向。


DSC_1185_00001.jpg
赤マーカー地点。

陸橋下。

内回り側から滑走路方向。


DSC_1196_00001.jpg
青マーカー地点。

姥ヶ橋方向。

姥ヶ橋交差点からここまで650mは直線なんですよね。

もしかしたら滑走路はここまでだったかも。


DSC_1189_00001.jpgDSC_1190_00001.jpg
黒マーカー地点。

地上では環七と中山道が平面交差。

すぐ上には中山道陸橋があり、更にその上には首都高5号線。

おまけにこの真下は板橋本町駅。

東京スゲェ(☆Д☆)


DSC_1188_00001.jpg
こちらも黒マーカー付近。

姥ヶ橋交差点方向。

なんか陸橋ばっかしで見通し悪いですね。

途中にある歩道橋から撮ればヨカッタ。



(追記)

ここを滑走路と見なす妥当性について思いつくところを書いてみます。


1944.png
①撮影年月日1944/11/03(昭19)(8922 C1 29) 
1946.png
②撮影年月日1946/02/13(昭21)(USA M44-A-5VT 34) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。上2枚とも)


①1944/11/03撮影
②1946/02/13撮影

何れも地理院で閲覧可能な終戦直前/直後のものです。

①では環七の両側に建物がギッシリと並んでいますが、②では左右共にほぼ更地になっています。

これは、「末期に建物の強制撤去」とする資料と合致します。

次に当時の環七の幅を出してみます。


01.png
②1946/02/13撮影の写真 中仙道陸橋付近でレイヤを作って、


02.png
グーグルマップにレイヤ重ねて(拡大/縮小すると角度がズレるので、とにかく道路幅優先)、


03.png
17mと出ました。

これは現在の車道幅と同じです。

環七は当時からこの幅で建設してたんですね。

ここが滑走路だとすると、屈曲部を含めて最大でも740mしかなく、

長さ的にここは戦闘機等小型機用ということになります。

ここから西南西約2.5kmに成増飛行場の秘匿飛行場がありましたが、ここも道路転用型で、

道路幅は12m程度しかないのですが、左右をクリーンな状態にして対応していたようです。

当時の陸軍戦闘機は全幅10~12m、トレッド幅は3m程度なので、左右に障害物がなければ、なんとかなったはず。

因みに、道路拡張型で幅の狭い滑走路はオイラの知る限り以下5例あります。

京都府・舞鶴非常用滑走路跡地(滑走路幅:15m)
大阪府・藤井寺北滑走路(滑走路幅:11m)
同南滑走路(滑走路幅:11m)
岡山県・京橋不時着場(滑走路幅:13m)
岩手県・見前滑走路(滑走路幅:6m)←これは戦後米軍連絡機用

こうした例からすると、環七の舗装幅17m、しかも左右が更地で、50m幅というのは、かなり広々ですね。

ということで、オイラとしましては、ここでの離着陸は十分可能と思うのですが、

前述の通り、現在のところネットや防衛研究所の資料等からここに滑走路があったとする裏付けが

できておりません。

また、環七の左右が更地になっている幅は、50mどころか実際にはもっと広く、

長さも「ここが滑走路」とする範囲よりずっと東西に長いです。

ともかく、滑走路として運用するため更地にしたにしては、強い違和感を感じます。

空襲の影響なのでしょうか。

情報お待ちしておりますm(_ _)m




     東京都・環七滑走路跡         
環七滑走路 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:本土決戦用滑走路
所在地:東京都北区上十条、板橋区清水町
座 標:35°45'45.0"N 139°42'36.0"E
標 高:28m
滑走路:740mx50m?
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
終戦末期、拡幅工事実施

関連サイト:
ブログ内関連記事



共通テーマ:趣味・カルチャー

南恵庭駐屯地場外離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   (未訪問)  



7.png
撮影年月日1962/05/15(昭37)(MHO623X C12 7) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
8.png
1/25000「恵庭」昭和30年二測「今昔マップ on the web」より作成

北海道恵庭市にある南恵庭駐屯地。

この駐屯地にはかつて滑走路がありました。

■新千歳市史通史編下巻1040p
 特化団航空隊の創隊 昭和29(1954)年1月10日、保安隊訓令第46号による北方般命第7号に基づき札幌駐屯地に敵情偵察と弾着観測のため北部方面特科団航空隊が新設された。隊員は保安隊航空学校航空機操縦および整備課程修了者を主体としたが、定数54人に対し充足は32人だった。
 29年7月1日、保安隊を陸上自衛隊に改組し特科団は第1特科団、航空隊も第1特科団航空隊と改称された。6日にL-19A(L=liaison=連絡機/セスナ305A)初号機を受領し、観測記録班は門別シノダイ岬米軍高射砲射撃場で弾着観測の教育を実施した。9月10には航空隊の編成改正が完結した。

 9月30日、北千歳飛行場(場外離着陸場)が完成、11月26日には航空隊を札幌駐屯地から北千歳(団本部東千歳/S37北千歳移駐)に移したが、基地飛行場は南恵庭駐屯地にあった転圧300㍍級を主用していた。航空隊はL機のほか、落下傘、L機用橇・覆などの資器材を分散受領、少しずつ隊容が整い道内各地の災害に対して空中偵察を支援した。
 31年1月現在の航空隊充足率は定員100人に対して84㌫、航空機はL-19が7機、L-21B(パイパーPA-18)3機となっていた。
 北千歳飛行場 昭和32年5月7日、基地飛行場を南恵庭から北千歳に移したが、

札幌駐屯地に北部方面特科団航空隊が新設され、実際の飛行は当南恵庭駐屯地を主用していたのですね。

この市史の中で、当南恵庭の滑走路は、「転圧300㍍級」とあるのですが(他サイト様でも恵庭300mとある)、

上に貼った航空写真と地図では、どちらも700mあるんですよね。

市史の中で「転圧300㍍級」とあるのは昭和29年の話。

上に貼った航空写真と地図はそれぞれ昭和37年、昭和30年。

昭和29年まで300mだったものが翌年には700mに延長したのでしょうか。

当時は広々とした荒地で、滑走路は転圧ですから、やろうと思えばすぐなんでしょうが。



     道央・南恵庭駐屯地場外離着陸場跡地         
南恵庭駐屯地場外離着陸場 データ
設置管理者:防衛庁
種 別:場外離着陸場
所在地:北海道恵庭市恵南
座 標:42°51'14.8"N 141°34'22.6"E
標 高:52m
滑走路:300m→700mx25m?
方 位:17/35
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1954年11月 26日 航空隊を札幌駐屯地から北千歳に移す。特化団航空隊が主用する
1957年05月 7日 特化団航空隊、基地飛行場を北千歳に移す

関連サイト:
ブログ内関連記事

この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻



共通テーマ:趣味・カルチャー
前の5件 | 次の5件 ├国内の空港、飛行場 ブログトップ
メッセージを送る