筒城浜飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1948/01/19(昭23)(USA M741-A 150)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
長崎県壱岐島の筒城浜(つつきはま)にあった「筒城浜飛行場」。
■石田町史(産業、経済、教育、福祉偏)平成4年11月3日発行 1100p
の中に関連記事がありましたので、以下引用させて頂きます。(原文ママ)
「壱岐空港の沿革を記す前に、飛行機が壱岐に着陸したのはいつごろか、壱岐の上空を飛んだのはいつごろかを調べてみよう。
大正十三年(一九二四)七月、石田村筒城浜に始めて着陸す(着陸機数不明)とある。昭和三年(一九二八)二月二十一日、佐世海軍航空隊では、F飛行艇と十四偵察機六機をもって、朝鮮の鎮海と佐世保間の往復に成功した。このとき壱岐の上空を通過した。その後昭和六年(一九三一)五月二十六日、石田村筒城浜に陸軍の飛行機が着陸するため、筒城部落(地元)民が着陸地点の整地奉仕作業を行っている(着陸機数不明)。また第二次世界大戦の昭和十八、九年(一九四三、一九四四)、陸軍航空隊のヘリコプター(当時オートジャイロとも呼んでいた)十数機が石田村筒城浜に飛来し基地を作り離着陸の猛訓練が行われた。」
佐世保航空隊が開隊したのは大正9年12月なので計算合ってます。
■芦辺町史689pにもほぼ同様の内容がもっと簡潔に記されていました。
(1928年に朝鮮の鎮海と佐世保間の往復を行ったF飛行艇は3機と記している)
「朝鮮の鎮海と佐世保間の往復」はこんな感じ。
「佐世保から真っ直ぐ鎮海に進路をとると、眼下に壱岐島」ということではなく、
壱岐島上空を通過するため、わざわざ進路を東寄りにしていたんですね。
昭和3年の話ですから、これは長距離洋上飛行する際の機体の信頼性とか航法とか、そういう関係かもしれません。
壱岐島経由にすれば、必然的に対馬上空も通過しますし。
「佐世保を離水したら進路を真北にとり、壱岐島上空に達したら〇°左旋回、対馬を目指し~」
みたいな感じだったんでしょうか。
大戦中のオートジャイロ、「陸軍カ号観測機」の運用に関しては、
「滑走路は作らず、筒城浜の原っぱをそのまま利用し、風向きにより四方八方に離陸した。兵舎も新設せず、付近の民家に宿営した」
という手記が残っていおり、ここで具体的に「筒城浜の原っぱ」とあることから、
砂浜の背後にある平坦地を使用したのではないかと思われます。
一方、御当人が当時を振り返り、綴っておられるサイトがあります。
それによれば、
滑走路は 長さ約200㍍足らず、幅も40㍍程度の小規模だった。
場所は現在の筒城浜公園内のオートバイ練習場辺りから、
白沙八幡宮の大鳥居と筒城浜の中間点辺り迄 であった。
滑走路は舗装もされず、草地を平坦にしただけの簡単ものであった。
滑走路の横には吹き流しが1本立てられていた。
筒城浜基地に実戦配備された船舶飛行第2中隊は、
搭乗員と整備兵を併せて約200名、オートジャイロ機は約20機で あった。
海上輸送されたオートジャイロを、浜より引き上げた
とあります。
説明にある「オートバイ練習場」と「白沙八幡宮の大鳥居」、先頭のグーグルマップに赤マーカーで示してあります。
これでおおよその滑走路の位置が分かりますね。
戦争を知らぬ世代の者が見ても、これだけ具体的且つ簡明なサイトは本当に珍しいです。
芦辺町史164,165pで戦時中の町の様子が記されていましたので、一部記させて頂きます。
町歳出面でも昭和十二年より戦争費が新設され、防空監視哨への支出があったこと、
昭和18年4月6日には島内に警戒警報が初めて発令され、緊急配備についたこと、
そして八幡港の船舶への銃撃は村民を震撼させたが、
昭和19年8月の初山上空での米爆撃機撃墜は、島民の士気を奮い起こさせたこと
等記されていました。
筒城浜の平坦地は現在では「筒城浜キャンプ場」として、砂浜は「筒城浜海水浴場」として使用されています。
以下、キャンプ場と海水浴場の様子です。
長崎県・筒城浜飛行場跡地
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:長崎県壱岐市石田町筒城仲触
座 標:N33°45′25″E129°47′13″
標 高:2m
滑走路:200mx40m
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
筒城浜基地実戦配備のオートジャイロ部隊物語■(リンク切れ)
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
石田町史
芦辺町史
九州、中国・3 [■旅行記]
3日目
5:00 起床
5:45 道の駅伊万里出発
唐津東フェリーターミナルに向かう。
なんかデジャブな気もするけど、昨日食べたのは幕の内朝食。
乗船するのが人のみの場合は事前予約ができず、出港1時間前からの先着順です。
本日は壱岐島に渡り、港から約4km先の戦時中の飛行場に行きます。
港から見学ポイントまでそんなに離れていないので、
事前に港ターミナル内にある観光案内所のレンタサイクルを予約してあります。
昨晩の予報では、壱岐は午後から天気が崩れる。とのことでした。
壱岐到着が10:25で、13:20の船で唐津に戻るので、まあ降り始めても大したことはなかろうと、カサも車内に残したまま。
余計なところに寄らずに真っ先に跡地見学をしてしまえば、12時前には余裕で港に戻ってこれるはず。
船内は老人会御一行様的な団体で溢れかえっていました。
皆さん本当にお元気でテンションMAXです。
会話からすると、本日は島で一泊するみたいで、帰りも一緒になることはなさそう。
10:25 壱岐島印通寺港入港
「昼過ぎから雨」の予報だったのに、港に着いたら力いっぱいの土砂降りですた。。。つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
団体さんは待ち構えていた数台のバスに次々乗り込んでゆきます。
ターミナル前のタクシー乗り場で1台だけ客待ちしているタクシーを横目に、
まずはレンタサイクルの予約をキャンセルしなくては。
観光案内所のスタッフさんはお一人で、先客の応対中。
10分位案内所の外で待っていたのですが、雨は途切れることなくザーザー降りだし、タクシーも居なくなっちゃうし、
せめてカサを持って来るんだったと後悔してもあとの祭り。
「申し訳ないですけどこの雨なのでキャンセルしたいんですが。。。」とお伝えしたところ、
キャンセル料なしで快く予約取り消して頂けました。
図書館があるかどうか尋ねてみると、「あの建物の二階にありますよ」。と教えてもらいました。
ターミナル内の売店に寄ったのですが、買いたかったカサはなく、タクシーは呼ばなければ来ない。とのことで、
タクシーの番号をお聞きしました。
程なくやって来たタクシーに乗り込むと、なんとさっきのタクシーでした。
ご年配の運転手さん曰く、この雨なので、誰か乗る人がいるんじゃないかとしばらく待っていたのだそうです。
一声かけておけばヨカッタ。。。
こちらでは朝の7時には既に土砂降りだったそうです工エエェェ(´д`)ェェエエ工
朝も天気予報チェックしとけばよかったよ。。。
筒城浜キャンプ場に向かいました。
このキャンプ場は砂浜のすぐ傍にあります。
キャンプ場を一望できる駐車場の東屋に横着してもらい、無事撮影。
運転手さんによれば、島の西側、壇ノ浦町の半城湾(はんせいわん)は、非常に奥まった湾になっているため、
戦時中軍艦の停泊場所になっていたのだそうです。
図書館まで送ってくださいとお願いすると、せっかくここまできたのだから、キャンプ場の砂浜側を是非見た方がいい。
と言われました。
勧められるまま砂浜に移動すると、海の色がサンゴでエメラルドグリーンになっており、確かに一見の価値ありでした。
日本の快水浴場100選、日本の渚100選にも選ばれており、
流されてきたゴミや海草を地元の方がせっせと片づけて、景観を保っているのだそうです。
図書館へ。
運転手さんの息子さんは浦和在住なのだそうです。
途中、田植えから既に結構な日数が経っているであろう水田が広がっていました。
オイラの地元埼玉より明らかにずっと生育が早いです。
聞けばこれは台風被害を避けるための早米なのだそうで、
全滅を避けるため島では昔からずっと早米、遅米でタイミングをずらすことが続けられてきたのだそうですが、
ここ15,16年台風被害は出ておらず、助かっているのだそうです。
図書館に横付けしてもらうと、一階は地元のものがいろいろ売っているから見ていったらいいですよ。
と教えてもらいました。
一階は確かに地元野菜、お土産、それに、こんなにたくさん! と驚く程多種多様なお弁当がずらりと並んでいました。
隣にテーブルの並んだスペースがあり、ここで飲食しても構わないとのことだったので、
お昼には少し早いけどここで腹ごしらえ。
その後二階に上がり、戦時中の筒城浜飛行場、壱岐空港についての資料コピー。
唐津に戻る船のチケット購入可能な出港1時間前になったので、建物の外へ。
相変わらずバケツ級なのですが、時々雨足が弱まる瞬間があります。
その切れ目を狙ってフェリーターミナルまで400m弱をダッシュ!
(イメージ) =========(⊃゜Д゜)⊃オリャー!
(現☆実) ~~~(⊃゜Д゜)⊃
桟橋には幾つか建物があるのですが、フェリーターミナルが一番奥にあります。
あー、こんなに走ったのはいつ以来だろうか(´Д`;)ハアハア
すっかりびしょ濡れで荒い息が収まらず、このまま窓口に直行したら通報されそうなので、
息を整えてから何食わぬ顔で窓口へ。
これで1時間後に唐津に戻れます。
往路の船内は老人会?の団体様御一行で大変賑やかだったのですが、
復路は島の老人スポーツ関係の団体様御一行でターミナル二階の乗船待合所が溢れかえっており、
これまた大賑わいでした。
15:00 唐津東港入港
こちらも小雨混りで空が少し暗いけど、日没までまだ時間があるので、
福岡県福岡市の百道飛行場跡地と、同じく福岡県の春日市の春日原飛行場跡地へ。
百道飛行場は出発の数日前に福岡の別の跡地を探していてたまたま見つけたのでした。
自宅で調べて場所がハッキリしてから、実際に現地にお邪魔するのは数年後になるのがほとんどなので、
これは(オイラにしては)驚異的な早さです。
18:05 見学終了。
18:15 近くのセブンで夕食。
明日の目的地手前の道の駅に向かいました。
ところでオイラ、出発前日の晩に入浴してから三日間風呂に入ってません。
風呂を探しながら走っていると、道沿いに風呂発見。
金曜日夕方の時間帯ですが、駐車場に車はほとんどありません。
「家族風呂」と書かれているのが気になりながらドアが開くと、
カウンターには着物姿の女性が二人。
一人でも入れるけど、入浴料1,800円とのことで、早々に退散。トホホ。
19:40 少し進んだところにあった銭湯へ。
こちらは250円(+脱衣ロッカー10円)でした。
20:30 道の駅吉野ヶ里着
21:00 寝る。結局壱岐島からずっと雨降りの1日でした。
おやすみなさい
本日の走行距離:135km
(続きます)
富江(福江、小濱)水上機基地跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1948/02/26(昭23)(USA M804-1 34)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の「富江航空基地(野々切飛行場)」の西南西約5.5kmにあった「富江水上機基地」。
当記事作成にあたり、PUTINさんに大変お世話になりましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
に当基地の資料がありましたので以下引用させて頂きます。
位置 長崎県南松浦郡福江町
基地名 福江水上基地
最寄駅よりの方位 距離 粁 福江島東部
建設の年 1943
飛行場 75x30木
格納庫 施設あるも数量不明
収容施設 士官200 兵員900
工場倉庫 施設あるも数量不明
主要機隊数 水偵0,5
主任務 作戦
隧道竝に地下施設 施設あるも数量不明
掩体 分散
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「福江(水上基地)(昭18建)」とありました。
他資料では、当基地は「富江」なのですが、同資料によりますと、「福江町にある福江基地」とあります。
Wikiによりますと、福江町は1919年~1954年まで存在した町とあるので辻褄は合っております。
この名称は同資料でしか確認できないため、今のところ「こんな資料もありますよ」ということにしておきます。
■「日本海軍航空史」(終戦時)によれば、富江水上機地:滑走台30x60 とありました。
水面下の先端部分から防波堤までがほぼ60mです。
現在は豚舎が並んでいますが、水上機基地当時はこの谷間の部分に居住施設、自家発電機、水場があり、
山中に爆弾庫、燃料庫、無線電信所、戦闘指揮所の諸施設がありました。
長崎県・富江水上機基地跡地
設置管理者:旧海軍
種 別:水上機基地
所在地:長崎県五島市富江町田尾
座 標:N32°37′59″E128°45′57″
標 高:0m
スリップ:75mx30m
(座標はグーグルアースから)
沿革
1943年 建設
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本海軍航空史」
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
長崎県・富江航空基地(野々切飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]
2017年5月訪問 2022/1更新
撮影年月日 1947/08/18(昭22)(USA M415-2 68)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
長崎県福江島にあった「富江航空基地(野々切飛行場)」。
先頭のグーグルマップは上に貼った航空写真から作図しました。
上のマップの通りで、第一滑走路、第二滑走路が逆V字にクロスしています。
当記事作成にあたり、再生おじさん、PUTINさんに大変お世話になりました。
どうもありがとうございました。m(_ _)m
当航空基地跡地には自家発電所と無線電信所が現存しているのですが、
自家発電所の写真は諸般の事情からブログ掲載見送り、
無線電信所はオイラの準備不足のせいで正確な位置が分からず、キチンと撮ることができませんでした。
■PUTINさん情報ですが、
OHAMAの東南東0.5マイル、Fukaeの南南東3マイル、N32-39,E128-50 3,000ftx1,000ft 撮影日1944.6/18
として米軍からもバッチリマークされていました。
■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
に当航空基地について以下の情報がありました。
位置 長崎県南松浦郡富江町
基地名 富江
最寄駅よりの方位 距離 粁 福江島東南部
建設の年 1943
飛行場 1,500x150
1,200x150芝張
格納庫 施設あるも数量不明
収容施設 士官20
兵員150
工場倉庫 施設あるも数量不明
船溜 民施設利用
送信所 方位測定所 施設あるも数量不明
主用機隊数 小型0.5
主任務 作戦
隧道竝に地下施設 居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫
掩体 中型28
には、「昭18建」とありました。
撮影地点A(野々切町・前原橋北側)
滑走路交差部。
この道路は第一滑走路を浅く斜めに突っ切る方向に伸びています。
取り敢えずこの写真で真っ直ぐ見えている部分は全部滑走路跡地です。
撮影地点B(野々切町・若草保育園)
この先、おおよそこの方向に第二滑走路が伸びていました。
撮影地点C(小泊町・以下3枚とも)
第二滑走路跡地の南側部分は、長さ約550mに渡り、滑走路の形が舗装道路として残っています。
当飛行場で滑走路の地割がしっかり残っているのは、オイラの見る限り、この部分のみです。
実は資料によれば、滑走路の幅は150mとあるのですが、1947年の航空写真の通りに作図すると、
115m程度になり、ここの舗装道路の地割とピッタリ一致します。
上の写真は第二滑走路南端部分。
車一台がやっとの細道の右側が滑走路跡地部分。
写真奥に向かって真っすぐ滑走路。
カメラの向きを固定したまま右横に移動すると、
こんな感じ。
細道の左側が奥に向かって真っすぐ滑走路。
撮影地点D(野々切町・野々切住民センター)
当時はこの場所に土中耐弾式の戦闘指揮所(11mx3m)があったのだそうです。
実はこの写真、住民センター裏手側を撮ったものなんですが、方向的にこの背後に格納庫がありました。
撮影地点F(野々切町)
誘導路跡。
幅30m、総延長4,600mもあり、誘導路に沿って無蓋掩体壕があったのだそうです。
長崎県・富江航空基地(野々切飛行場)跡地
富江航空基地(野々切飛行場) データ
設置管理者: 旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:長崎県五島市野々切町他
座 標:N32°39′24″E128°49′26″
標 高:39m
第一滑走路:1,300mx150m(15/33)
第二滑走路:1,200mx150m(03/21)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「日本海軍航空史」(終戦時)
九州、中国・2 [■旅行記]
2日目
6:00 起床
6:40 道の駅鹿島出発
7:40 空港手前のジョイフルで幕の内朝食 530円
8:20 長崎空港着
先月は所用で沖縄に行ったので、二ヶ月続けてヒコーキに乗ることに。
普段ヒコーキに乗るのは数年に一度レベルのオイラにとっては非常に珍しいことです。
窓席は目の前に巨大なエンジンナセルと車輪のある席(7E)しか取れなかった。
まあこれはこれで。
到着口で予約したレンタカー屋さんが待っていてくれた。
営業所に向かう車中、「観光なんですか。ドコに行くか決まってますか?」と問われ、
おずおずと、「戦争中にあった飛行場を見に来ました」と言ったら、
「飛行場? 福江空港ではなく??」と問われ、
「そんな話、これまで一度も聞いたことがないですよ」と驚かれました。
その後も島内滞在中、何度か島民の方に戦時中の飛行場のことを切り出してみたのですが、
見事にどなたもご存じなくて、
「それは本当にココの島のこと? 別の島と勘違いしてない?」と真顔で心配されてしまい、
もしかしてオイラ、ホントに間違えちゃった??(゚Д゚;≡;゚Д゚) と不安になっちゃったのでした。
(福江島の飛行場のことは、後日別記事でアップ致します)
見学ポイントが多くて、途中地元のコンビニ駐車場で弁当をかっこんだ以外は、
戦時中の二つの飛行場跡地、現行の福江空港、図書館など回っているうちに時間はみるみる無くなっていきました。
ん~1日じゃ足りないな~。
レンタカーを営業所に返却し、空港に送ってもらう。
運転してくれた三十代位の方から「ドコ周ったんですか?」と尋ねられ、
この方にも戦時中の飛行場のことを話してみたのですが、
オイラの話し方が悪かったせいか、一切興味ございませんという感じでした^^;
結局、戦時中この島に飛行場があったことを認識しておられる方には一人もお会いできませんでした。
お聞きしたのが若い方中心で、せいぜい初老の方までだったので、
古老の方ならまったく違う展開になっていたのだと思います。
要因は様々と思いますが、「戦時中の飛行場についての地元の方の認識」というのは、
場所によって本当に天と地ほど違うんですよね~。
広島長崎に注目するのもいいんですが、
地元に多少なりとも目を向けるのは意味のあることだとオイラ個人は思うのですが。
まあこれがきっかけで、飲み会か何かの時に、
「なあなあ、こないださあ、なんか変なオッサンから尋ねられたんだけど知ってる?」
的な流れになってないかしらん。
「そのなんか変なオッサンの勘違いだよー」的なオチで片づけられ、マッハで別の話に移りそうですけども(o ̄∇ ̄o)フフ
これまた予約がギリギリだったため選択肢がなくて、往路の一つ前の座席(6E)。
18:25 長崎空港着
18:50 長崎空港発
明日は唐津東フェリーターミナルから壱岐島に渡るので、その手前の道の駅に向かうことに。
20:30 道の駅伊万里着
すっかり真っ暗になった道の駅でホタルが一匹飛んでいた。
おお、ホタルなんていつ以来だろう。
20:55 寝る
おやすみなさい
本日の走行距離:103km(福江島でのレンタカー含まず)
(続きます)
九州、中国・1 [■旅行記]
いつもなら自宅から一気に九州に向かうのですが、
今回はいつもとちょっと動き方が変わっていて、
本日は広島でFさんを乗せて、熊本の実家に送り届けます。
熊本到着があまり遅い時間にならないように、いつもより出発時間を早めることに。
2:00 起床
3:00 自宅出発
圏央道→東名→新東名 のルートで広島に向かったのでした。
5:20 藤枝PA
7:10 尾張一宮PA
9:25 西宮名塩SAにて給油
11:05 瀬戸PA
12:35 三原久井IC
12:55 Fさん宅着
後部座席はオイラの車中泊用道具、Fさんの荷物でスゴイことに!
(オイラも人のこと言えないけど)Fさん荷物大杉だよ! 女子か!(XДX)
13:30 コンビニで道中の食料を調達して後、広島出発
16:15 壇ノ浦PAにて休憩
18時頃、Fさんの実家がある熊本県Y市着。
地元の食堂でチャンポンの夕食。
一時は余命数ヶ月と宣告されたけど、そこから回復し、復職したFさんに奢ってもらった。
「ここの沼でボートで立ち上がったら、バランス崩して落ちた」という、
昭和の漫画ネタのような話を聞きつつ、Fさんの実家に向かう。
そこは山の奥の更に奥。
退避所以外ではすれ違いなどとてもできないぐねぐね道を上って行く。
対向車が来ませんようにと願いながら、山深く薄暗い細道を進んでいくと、夕陽に染まる青葉の山々。
日本昔話に出てきそうな美しい山里でした。
公道から自宅の敷地に入る道がこれまたギリギリで、路肩から転落しやしないかとヒヤヒヤしながら玄関前到着。
やれやれと車から降りると、一雨降った後の山の甘い匂い。
7:20 手短に挨拶を済ませ、Fさんを残してオイラは退散。
明日に備えて長崎空港手前の道の駅へ。
19:40 給油。ここのスタンド、営業時間が20時まででした。
ふぅ。危なかった。
熊本県Y市から長崎空港を目指し、有明湾に沿って大きく北側に大回りしたのですが、
実は有明湾をショートカットできるフェリーが出ているんですよね。
ただし、朝の第一便を使えたとしても、ヒコーキの時間がちょっと厳しいため、
安全策をとって陸路大回りルートを使ったのでした。
これも今となっては超どうでもいい余談なんですが、
今回九州では特に長崎県の壱岐島と福江島の二島がずっと積み残しになっていて、
ここにどうしても行きたかったのです。
広島でFさんを拾った後、この二島を含めてどういう回り方をするか、いろんなパターンを考えていたのですが、
昼過ぎに広島でFさんと合流した後、広島県~北九州の跡地等周り、0:05 博多港を出る船で二人で壱岐に渡ろうか。
なんてプランも考えてました。
ただしこれだと、壱岐には2:15 という時間に着いてしまいます。
島の観光課にお聞きしたところ、
「その時間についても港には朝まで過ごす施設というものは特にないけど、
近くにコンビニ併設のカラオケボックスならありますよ」。
とのことでした。
おお、ソレいいじゃん!
と思ったのですが、カラオケの深夜料金がとてもお高く、Fさんの都合も合わなかったため、
結局広島で合流した後、ドコにもよらずに真っ直ぐ熊本の実家に向かうことになったのでした。
22:00 道の駅鹿島着。
22:30 寝る
おやすみなさい。
本日の走行距離:1,343.6km
(続きます)